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Voce d' Angelo レナータ・テバルディに捧ぐ

レナータ・テバルディの専門ブログです。情報、動画、鑑賞録など。

『椿姫』 聞き比べ(1)

スタジオ録音 椿姫

「蛮勇」とおっしゃる方もいらっしゃるかもしれません。それ程、テバルディの『椿姫』って、ピンと来ない、というのが一般常識のようになってしまいましたが、他方で、今回比べる盤は「伝説の名演」のように言われているものだからです。

歌手の名前は、敢えて実名では書きません。そうすると、検索でヒットした結果、このブログにはおいでにならない方が良いお客様を引き寄せてしまうからです。「この方」「かの方」というような表現を致しますし、動画では「某歌手」としました。顔写真も出しません。(シルエットを使いました)写真を出しただけで再生回数を稼げるという、もはやカルト崇拝の偶像のように祀り上げられている歌手ですから。とどのつまり、出回っている「世評」や「宣伝」に振り回されるリスナーがいかに多いか、を示している。一般のオペラ歌手の動画が百万回以上の再生回数を稼ぐのはなかなか難しいのです。

なお、この一連のシリーズ、および次のシリーズにコメントを下さろうという方がいらしたとするなら、やはりこの歌手の実名は出さないよう、ご配慮をお願いいたします。そうでないと折角頂いたコメントもご紹介できません。検索でヒットしてしまいますので。

これだけの配慮をしても、私は、敵対心からか、偵察目的からか、多分ここに密かに訪れておいでであろう、「この方」の熱狂的ファンの方が早速目くじらを立てることがあり得ないなどという楽観的な考えは持っていません。こうした方々は、テバルディの人格を守りたいと考えるテバルディのファンより遙かに攻撃的ですから、そうした方々にあらかじめ強調しておきます。「この方」は私が思うに、「必要以上の賞賛」を既に「十分すぎるほど」受けておいでである一方、テバルディの方は、「根拠が薄い・あるいは全くない」まま否定的あるいは侮辱的表現で「誹謗中傷」を受け、人格を傷つけられてきた、という事実です。彼女を「誹謗中傷」した本人達に彼女自身が何か危害を加えたという可能性は無いに等しい。テバルディは引退後ほとんどイタリアから出なかったし、中傷した人間達はほとんどイタリアに行って直接彼女と面会した形跡がないからです。自分に何も危害を加えなかった人に一方的に誹謗中傷を加えるのは「人権侵害」です。被害者はテバルディの方であり、この上誹謗中傷を続けようとするならば、それは「罪」であることをよく認識なさいますよう。

更に、「この方」に対する何らかの批判的言説を全て封殺・妨害しようとなさるのなら、それは明らかな「思想・言論の自由」の侵害に当るということもよくわきまえていただきたいと思います。しかも、そのようなことをする行為自体が、なにか後ろめたい、都合の悪いことがあるからだということをご自分で認めている証拠になってしまう、ということも。テバルディが受けた「中傷」や「嫌がらせ」の実例はこのシリーズの後にじっくりご紹介します。

さて、この「某歌手」の声を聞いたことがある方は、声を聞けば誰だかおわかりになるでしょう。でも、わからないまま聞いた方が、変な先入観に惑わされないで聞き比べることができると思います。

私は、久々にこれを出してきて聞きました。正直言って、「この方」の声は私の嗜好に全く合いません。装飾音の処理はテバルディとは段違いに上手かったことは確かですから、それでこの盤を買い求めました。結局、"Sempre libera"が然るべく歌われているかどうか、を基準にしてしまったのです。その他の場面は・・・正直言って、今回ほどじっくり聞き込んでいたとは言えません。

これは、ライブ録音です。(1955年収録)ですが、この方の特別な地位故に、当時の所属レコード会社が海賊音源であったものを買い取り、正式に自社レーベルからリリースしなおした音源です。ですから、海賊音源にしてはクリアーな音に修正されています。

音源の調整の際には、変に音をいじると「この方」のファンの方がよくなさるように、「一方的かつ過激な非難」をされる恐れがありますので、全体の音量レベルを上げるにとどめました。ヒスノイズさえ、削除しませんでした。残っている全ての音を、レベルを上げる以外の調整なしで、そっくりそのままお出しするのです。

この比較をする目的は、「声」だけにメリットがあったと決めつけられている(評論家先生方にも、です)テバルディが、本当に「綺麗な声で味わいの乏しい歌を歌っていた歌手なのか、非常に表現力に優れていたと、これまた「定評」のある「この方」の歌と比較して、実際にどう味わいが乏しいのか、確認することです。というわけで、共演歌手がソロで歌いまくる場面は極力カットいたしました。ご了承下さい。更に、「声」の美醜には言及するつもりはございません。それだけが問題だったのなら、そもそも、比較する意味がありませんので。

まず、ヴィオレッタの心理が複雑に推移する第二幕第一場、ここが非常に重要だと考えましたので、ここの長い部分を適当な長さに区分けして動画を作成いたしました。今回はそこの比較を致します。

1. ヴェルディ 『椿姫』 第二幕 第一場 "Madamigella Valéry?"


最初のヴィオレッタのパートには特別な指示はないのでしたね。"Voi?"と返す時のテバルディの声には驚いたトーンが入っているのでした。

ジェルモンがヴィオレッタに嫌みを言ったあと、テバルディのヴィオレッタはかなり強硬に反応するのでした。"Donna son io, signore, ed in mia casa;"ですが、そのまま強硬な姿勢を取るわけではなく、"ch’ io vi lasci assentite, più per voi, che per me."の最後のフレーズは柔らかく歌われているのでした。誤解されているようだから、自分の方が失礼しよう、お互い不快になるだけの会話を敢えて避けよう、という意図ならば、これで至極適切な表現だと思います。その後にジェルモンの"Quai modi"という歌詞がありますが、別に、彼女が態度を少々和らげても、相手をしないこと自体を「失礼」と受け取る男性がいないわけではないでしょうし。

次、「かの方」。テバルディがむしろ、思いやりを示した"ch' io vi lasci assentite..."のフレーズは、どちらかというと冷たい調子のまま、室内履きの音も高らかに、「あなたとは話したくありません!」と真っ向から拒絶。どちらを取るかは、歌手の判断次第です。でも、私に関して言えば、こういうヴィオレッタからは正直、「失礼な女」という印象しか受けません。

相手の誤解を察した彼女は、戻ってきて、今度ははっきりと、"Tratto in error voi foste!"と言い渡します。ジェルモンは「息子は自分の財産をあなたにつぎ込んでいる」とあからさまに非難。なので、テバルディのヴィオレッタは本当のことを、強めに言い渡すのですね。"Non l’ osò finora, Rifiuterei."今の自分は安っぽい女ではないから、そう思われるのは心外だと。

それでもこだわるジェルモンに、証拠物件を見せるしかない、と考えたヴィオレッタ。"A tutti è mistero quest’ atto, A voi nol sia."失礼なことを言われても、相手を信頼していなければ、「秘密にしている書類」をあっさり見せられないけれど、愛している人の父親だし、色々な人間を知っている女性なので、突然訪ねてきた男が信用できるとわかる。それで、テバルディは最初のフレーズは少し声を弱めて、「秘密なのですよ」という調子を出し、「ですが、あなた様にはそうしません」とはっきり言い渡すので、声を強めているのでした。

次、「かの方」。又しても"Tratto in error voi foste"の強烈さがテバルディに負けている。"Rifiuterei!"はかろうじて同じくらいですが。"A tutti è mistero quest’ atto, A voi nol sia."「この方」の調子は、最初のフレーズは特別な色づけが感じられません。"A voi nol sia"の方がむしろ柔らかい。この方の持ち声からして、特に色づけをしないと、暗い調子になります。それで、最初のフレーズは少々脅迫的に響きます。それが、後ろのフレーズで和らげられる。これはこれで、納得できます。

ジェルモンが書類を見て自分の解釈を言い渡すくだりはバッサリ、カットしました。「全財産を処分するのは、過去を悔いているからか」という相手の言葉に、ヴィオレッタは、"Più non esiste. Or amo Alfredo, e Dio lo cancellò col pentimento mio!"指示がないここを、テバルディは優しく歌っています。"Or amo Alfredo,"からト書きの通り、(con entusiasmo)「熱意を込め」で、"e Dio lo cance-"までスタッカートとクレッシェンドなので、強力に歌い、最後は静かに締める。最後が静かなのは歌詞からして自然です。

「かの方」は?"Più non esiste. Or amo Alfredo, e Dio lo cancellò col pentimento mio!"入りをテバルディは優しく歌っていました。指示がないからです。極力、本来はこの女性が特に激しい気性を持っているわけではないことを、テバルディは出そうとしているのです。が、「この方」は、最初から強力に入っています。"Or amo Alfredo,"からの指示のある所は、「この方」の欠陥の一つだった、ウォブルが目立ちます。(特に「カンチェッローーーーーーーー」と延ばしている部分)最後はテバルディと同じように静かなのですが、「神様は許してくださいました」という、温かな喜びが声に出ていません。そして、"pentimento"の発声で妙につかえている(ペヘンティメへ・へーント)のが気になります。

ジェルモン、やっと、彼女を賞賛。それで"Oh, come dolce mi suona il vostro accento!"ここは"su(-ona)"を山にクレッシェンドとデクレシェンドの指示。テバルディはそれを実践していません。ただ、息をのむほど感激しているという調子を入れているのでした。

今度は「犠牲」の話を持ち出されて、テバルディはトーンを変える。"Ah no... tacete..."からは声のトーンを暗めにして、震わせる。"il previdi...v' attesi..."は更に、悲しげなトーンが入る。"Era felice troppo"は2点ト音の"Era"の頭からデクレッシェンドの指示が出ています。テバルディはスコア通りにはせず、"Era"はむしろ弱音でこの上なく美しく、「幸せだった」今までを歌い、"felice troppo"を強めに歌って、「話がうますぎた」という、大きな落胆を、声に大変悲しげな色を付けて表す。

「かの方」。"Oh, come dolce mi suona il vostro accento!""su(-ona)"を山にクレッシェンドとデクレシェンドの指示。「この方」も特に指示通りにしているようには聞こえません。むしろテバルディと同じように感激しているという調子を入れています。

"Ah no... tacete..."からはやはり声のトーンを暗めにしていますが、震わせてまではいません。"il previdi...v' attesi..."はむしろあっさり歌われている。"Era felice troppo"は2点ト音の"Era"の頭からデクレッシェンドの指示が出ています。こちらは"Era"を強めにして、スコア通りに歌っています。"troppo"は言葉を引き延ばし気味に歌ってこの方なりの強調をしているのですが、ここまでの所、声に「悲しみの色」が入っているようには私には聞き取れません。特に"troppo"はフレーニじゃないの?と思うくらい、強調はしていますが、無頓着に聞こえます。テバルディの方がほとんど涙声になっているのに・・・。

"Pura siccome..."からのジェルモンさんの長広舌はバサッとカットしました。それに対するヴィオレッタの答えから。入りは"animando a poco a poco"「だんだん感情を強める」。"Ah, comprendo…"から"doloroso fora me…pur…"までです。テバルディの歌の特徴的なのは"doloroso"の歌い方でした。"do-"に強勢を入れ、かつこの言葉に悲しみのトーンを十分注ぎ込んでいます。ですが、更に「しばらく離れるだけでは十分ではない」と言われて、ショックを受け、"Cielo! che più cercate, offersi assai"は"acquerellando a poco a poco"「だんだんテンポを速める」テバルディは特に速めません。ショックを受けている調子を声に入れているだけでした。"Volete che per sempre a lui rinunzi"は"sempre a lui"を山にクレッシェンドとデクレッシェンドの指示。この日のテバルディはフレーズ全体を強めに歌って「そんな・・・あんまりな」という気分を出している。"Ah, no! giammai! no mai!"は、"giammai!"が"tutta forza"「ありったけの力を込めて」ですが、この日はむしろ"no, mai!"のほうが強いのでした。

「かの方」。"Ah, comprendo…"から"doloroso fora me…pur…"まで"animando a poco a poco"「だんだん感情を強める」。・・・なにも感情の起伏が感じられません。更に「しばらく離れるだけでは十分ではない」と言われてからの"Cielo! che più cercate, offersi assai"は"acquerellando a poco a poco"「だんだんテンポを速める」「この方」も特に速くなっていませんね。ショックを受けていると言うより、「驚いている」という感じを受けます。"Volete che per sempre a lui rinunzi"は"sempre a lui"を山にクレッシェンドとデクレッシェンドの指示。この方もスコア通りにはしていませんね。テバルディと同じ狙いでそうしたのかどうかはわかりません。"Ah, no! giammai! no mai!"は、"giammai!"が"tutta forza"「ありったけの力を込めて」。この方も"giammai"と"no, mai!"が同じくらいの強さです。

・・・「伝説の名演」???別に、テバルディの歌と出来映えの上で格段の差があるとは感じませんでしたが・・・。

 2. ヴェルディ 『椿姫』 第二幕 第一場 "Non sapete"

 

"Non sapete quale affetto"は頭にピアノで、同時に"agitato"の指示。ピアノでも、興奮気味の調子を出す。"vivo immenso"あたりでクレッシェンド、"io non conto"で、またクレッシェンド。"e che Alfredo m’ ha giurato…"は"a piacere"「ご随意に」。"Alfredo…"からデクレッシェンド。テバルディはスコア通りに歌いつつ、ピアノの部分ではかすかに声を震わせ、"agitato"な調子を入れていました。ショックの余り、気が転倒しているという。"e che Alfredo m’ ha giurato che in lui tutto troverò?"では"Alfredo"に強勢を置きつつ、他はソフトに歌って、最後はかすかに声を震わせています。この最後のフレーズは興奮するような内容ではないですし、「アルフレード」が愛の対象なのですから、強調しても当然です。動揺しているから、最後は声が震えるのですね。

「かの方」。スコア通りと言えばスコア通りなのです。ただ、これ、ほとんどヒステリックではないでしょうか?"agitato"だから、こうした?テバルディはピアノの方はかなり柔らかくて、クレッシェンドのあたりでかなり強力にしているので、大変な落差がついていますが、この方の方のは落差が感じられません。ひたすら、「私は辛いんです!!!」と叩きつけているような感が。"e che Alfredo m’ ha giurato che in lui tutto troverò?"には優しい気持ちどころか、「呪っているような」トーンが聞こえます。これが、この歌詞に相応しい表現なのでしょうか?「この方」のヴィオレッタは、ここまでの所、「攻撃的」過ぎるように聞こえます。「彼を絶対渡すものか!」みたいな。ヴィオレッタって、そういう女性なのでしょうか?

"Non sapete che colpita d’ atro morbo è la mia vita?"は"atro morbo"にクレッシェンドの指示。テバルディの歌はスコア通りで、クレッシェンドで強烈に盛り上がるほかは弱音でソフトに歌っています。"che già presso il fin ne vedo?"は安定して歌っていますが、それでもかすかに暗いトーンを入れています。 Ch’ io mi separi da Alfredo!""separi da Alfredo"の"(Alfre-)do"にフェルマータ、あとは細かいアクセントやスタッカートの指示があります。テバルディはスコア通り"(Alfre-)do"を長めに維持し、最後に息をのむ音を入れています。「そんな・・・あんまりな・・・」という気持ちの表れですね。とにかく、彼女の歌は余計な説明が要らないくらい、理にかなっていて、自然なのです。そして、彼女のヴィオレッタは、「人間らしい」女性です。悲しんでいても、恨んだり、呪ったりしていない。ましてや「攻撃的」とはほど遠いのです。

"Ah, il supplizio è si spietato, il supplizio è si spietato,"は"si spietato"あたりからクレッシェンドで、加えて"Ancor più vivo"「さらに活発に」なので、どんどん強力にする。"che a morir, a morir preferirò"の繰り返しのあたりは、随所にアクセント。最初の"che"、2度目の"(mo-)rir""fe(-ri-)rò" "si""(mo-)rir""(ri-)rò"。"Ah!"でフォルティッシモ。"morir preferirò, ah, preferirò morir."では最後の"morir"の"mo"にフェルマータ。テバルディの歌は"supplizio"と"spietato"がまさに辛い内容なので、涙混じりになっています。そして、強めるところでは強力になっています。「それだけは、どうか、ご勘弁下さい!」彼女は「反発」するのではなく、「強く懇願」しているヴィオレッタなのです。

「かの方」。"Non sapete che colpita d’ atro morbo è la mia vita?"は"atro morbo"にクレッシェンドの指示。クレッシェンドが強烈なのはいいのですが、ほとんど脅迫的に聞こえます。"che già presso il fin ne vedo?"はほとんど聞き取れません。 "separi da Alfredo"の"(Alfre-)do"のフレーズはやっと柔らかめになっていますが、"Alfredo"では"-do"を長めにすると同時に、クレッシェンドをかけていますね。何の効果を狙ったのか、よくわかりません・・・。

"Ah, il supplizio è si spietato, il supplizio è si spietato,"は"si spietato"あたりからクレッシェンドで、加えて"Ancor più vivo"「さらに活発に」なので、どんどん強力になるのですが、ここのフレーズの繰り返しでよくわからない現象が。"è si"が二回とも消えかかっているので、よく聞こえないのです。特に音高が下がっているわけでもないのに。また、そうすることで何か効果が得られるかというと、何も思い当たりません・・・。"che a morir, a morir preferirò"の繰り返しのあたりは、最初の"che"、2度目の"(mo-)rir""fe(-ri-)rò" "si""(mo-)rir""(ri-)rò"にアクセント、でしたが、この方の場合、"rò"がやたらと目立ちます。この理由は非常にわかりやすい。この音だけが2点ホ以上の高音域で歌われるからです。歌手生活のスタート時期に、「この方」がクンドリーを歌っていたことは知っています。が、録音条件や、収録マイクからの歌手の立ち位置で声の入り方は相当変わります。クンドリーの時の低音がはっきり入っているからと言って、いつも重厚な低音を聞かせられたかどうかはわかりません。このときはマイクから比較的遠い位置におられたのか、特に「強力」とは感じられないのです。

さて、続きです。"Ah!"でフォルティッシモ。"morir preferirò, ah, preferirò morir."では最後の"morir"の"mo"にフェルマータ。ここは無理なく、強力な声が出ています。ほとんどが2点ハ♯以上の高音で歌われるところですから、そもそも、高音はソプラノには出しやすいですから、特に珍しいことではありません。

ジェルモンさんのお説教はまた、バッサリ、カットしました。答えるヴィオレッタのフレーズには何も指示なし。テバルディ。"Ah, più non dite, v’intendo…, m’ è impossibile, lui solo amar vogl’ io"。テバルディは、「もうおっしゃらないで」は静かに、「でも、無理なのです」は声を強めて、"lui solo"は、この上なく優しく、温かく、甘美に、"amar vogl’ io"は強烈に歌う。

ジェルモンの答えの後で"Gran Dio!"というところも指示はなし。テバルディは強めに入って、ピアニッシモに落とすのがテバルディのパターンですが、この日は最後の最後で少し強めて、「何てことでしょう、でも、それが本当かもしれない。」という調子にしているのでした。

「かの方」。"Ah, più non dite, v’intendo…, m’ è impossibile, lui solo amar vogl’ io"。この方は"dite"が強い。これもわかりやすいのです。ここだけ、2点へ音という高い音がついていますから。"impossibile"が強く聞こえるのも、"(impos-)si(-bile)"が2点♭で高音かつ、付点8分音符で長めなのを、更に長めに歌っているからです。たまたま、これがキーワードなので、目立ったのが効果的でした。「無理!」と訴えられるので。"lui solo"は、テバルディのようには歌えていません。"amar vogl’ io"だけは感心しました。"vogl'io"がソフトに歌えているので。でも、一瞬感心しただけです。というのは、今までやたらと脅迫的だった人が、この、「~したい」という単語だけソフトに軟化するのは奇妙だからです。まず、「愛したい」というひとかたまりの意味の片方の単語だけソフトに歌うのは不自然ですよね。重要な「~したい」が消え入ってしまうのなら。もうひとつ。それまでの歌が激しすぎたので、ここだけ不自然に浮き立っているからです。どうして専門の音楽家の方々はこういう「奇妙な歌」をお好みになるのか?私の想像するに、「わかりやすすぎる歌は(低脳な)大衆向けで、我々のような『エリート』は『大衆』が理解できないものを愛するものなのだ」という、鼻持ちならない特権意識のなせるわざなのではないかと推察します。そうだとしたら、「この方」の歌は「高級」な一部の方だけを対象に捧げられたものなのですね。そんな方の歌を「一般大衆」の一人に過ぎないと認識している私のような者が愛する必要は全くないと、尚更思いました。

では、"Gran Dio!"は?まぁ、ライブですから、このくらい強くないと客席に響かないでしょう。弱音で歌う方が難しい。テバルディもライブでは弱音にはしていないのでは?と思います。また確認するまでは何とも言えません。

さらにジェルモンのお説教に" È vero! È vero!"と合いの手を入れるくだり。テバルディは、かすかに声を震わせ、バリトンに消されない程度に強めに歌う。(彼女にとっては普通の音量でしょうけれど・・・)辛すぎる真実に目覚めるので。「本当だわ!そうなのよ!」

「かの方」。テバルディと歴然とした違いが・・・。まるで、魂が抜けたように歌っています。「それが本当だから、落胆した」という解釈なら、それもあり得ると思います。ただ、このように単調なつぶやきにする以外に、「落胆」の表し方はなかったのでしょうか?

"Così alla misera…"に始まるヴィオレッタの「一度墜ちた女に立ち直りは認めてもらえない」というくだりは、最初にト書き。(con estremo dolore)「悲しみの極限に落ちて」。ずっとレガート、レガート、レガート、で、他に特に指示はなし。テバルディはレガートの歌い方がとにかく上手い。安定していて、なめらかです。その上、明らかに悲しみの色が入っている。(明るい歌を歌うときの彼女の声とはトーンがまるで違う、ということです。)

「かの方」。「この方」が「完全無欠」の歌手だという「信仰」に陥っている方には申し訳ありませんが、この方はレガートが安定して歌えなかったのですよ。声の震えが目立ちます。超絶技巧だけが歌唱技術ではない、それは、専門家の方でもお認めになるかと。そうでないと、完璧な歌い手になるためには歌手は年中コロラトゥーラしか歌えないことになりますよね。コロラトゥーラばかりでレガートのフレーズの全くない音楽なんて、聞くにたえない代物でしょう。テバルディにはコロラトゥーラがうまく歌えない、トリルが歌えないという歌唱技術上の欠陥がありました。ですが、「この方」が「レガートを安定して、なめらかに歌えなかった」という歌唱技術上の欠陥を抱えていたことについては言及されることは皆無に等しいのです。これは完全な、「方手落ち」です。

次。"Se pur benefico le indulga Iddio, l’ uomo implacabile per lei sarà."。テバルディは、特に"benefico"と"Iddio"「神様」を強め、神の慈悲を強調し、次は"implacabil"と"sì, per lei sarà"を強めて人の頑なさを強調して、対照を作る。次は"a piacere con forza"のフレーズ。"l’ uomo implecabil"2点ト♭から始まって "per lei sarà"は1点ト♭と、高音域から低音域に下がります。"l’ uomo implecabil"は高音域なので目立って聞こえますが、低音の"per lei sarà"もしっかり響いている。そして、フレーズの締めには、「頑なな、許すことを知らない人間たち」に対する恨めしげな思いが、暗いトーンの声に表われる。

「かの方」。"Se pur benefico le indulga Iddio,"テバルディがことさらに"Iddio"を強めていたのに対し、こちらは"benefico"だけが目立っています。"l’ uomo implacabile per lei sarà."。"sì, per lei sarà"は目立っていますが、前のフレーズは特に強く響いてきません。「神」と「人」の対照を作る、なんて必要は感じなかったご様子ですね。次は"a piacere con forza"のフレーズ。実は、この公演のジェルモンは某有名バリトン歌手がジェルモンを歌っているのですが、ここでは彼の巨声に邪魔されず、気持ちよく歌えたようです。スコア通り強力に歌っています。元々暗い持ち声の方ですから、普通に歌えばこうなるかと。

次。同じ歌詞が、ジェルモンの歌の合いの手として入ります。本来は16分音符の機関銃なのですが、テバルディは巧みに節をつけ、1点ト♭という低音なのに、バリトンに消されずに聞こえてきます。この日の最後の"sarà"は、思い切れない思いを引きずるかのように、フェルマータ気味に長めに歌っています。

「かの方」・・・有名バリトン歌手の巨声の後ろに隠れるように聞こえるだけです・・・。特にどこかを長めに歌ってはいません。締めもあっさり。それがスコアに近いですけれどね。最初は「絶対渡すものか!」だったのに、一旦諦めるとあっさり心が折れる?あるポイントからトーンを決めると全体を変えてしまって、フレーズごとの詰めは放棄し、後はスコアの指定する音高や指示通りにしか歌えないのなら、特別に表現力に富んだ歌手と言えるのでしょうか?お聞きの通り、むしろこの場合、テバルディの方がフレーズごとの詰めが細かいのですよ。

3. ヴェルディ 『椿姫』 第二幕 第一場  "Dite alla giovine"


"Ah, dite alla giovine…"からはト書きに(piangendo)「泣きながら」。基本的にレガートかポルタートで歌い続けます。テバルディは泣いてはいません。"sventura"を山にクレッシェンドとデクレシェンドの指示。この一語に、「哀れな自分」の悲しさが溢れるようについています。

「かの方」。"Ah, dite alla giovine…"からは、こちらははっきり、涙声です。全体に。

次。"cui resta un unico, un unico raggio di bene,"この辺から、テバルディもかすかに涙混じりに。"cui resta…"が頂点でまたデクレッシェンド。ですが、テバルディはそのままで"resta"に強勢を置いて強調。"unico"はポルタートですが、アクセントを付けるように歌っている。そして"bene"で次第に盛り上げ、2度目の"unico"はこれもアクセントでも付いているように強調していました。"che a lei sacrifica"の"che"にはアクセントがつき、ここを山にデクレッシェンドの指示。テバルディはスコア通り強めています。"(sa-)crifica e che mor-(rà)" はスタッカートかつデクレッシェンドの指示。テバルディの歌はスタッカートと言うにはなめらかすぎる。最後の"e morrà, e morrà."にピアニッシモの指示。テバルディは少々大きめすぎ。二度目の"e"はフェルマータ。最後ははっきり、泣き崩れている。

「かの方」。"cui resta…"が頂点でデクレッシェンド。スコア通りです。"unico"はポルタートですが、こちらもポルタート、という風には聞こえないですね。テバルディほど派手にアクセントを付けてもいません。ほとんど、何らかの効果を付けていない歌です。悲しげなトーンは出ていますから、これで十分でしょう。"che a lei sacrifica…"は"che"にアクセントが付いていて、そこからデクレッシェンド。その通りなんですが、"che a lei"が、ただ強めになっているというよりは、ほとんど悲鳴のように聞こえます・・・。これだと、「自分が犠牲になるのは悔しい」みたいに聞こえてしまうんですが。"(sa-)crifica e che mor-(rà)" はスタッカートかつデクレッシェンドの指示。スタッカートはしていませんね。最後の"e morrà, e morrà."にピアニッシモの指示。ピアニッシモと言うには大きいようなのはテバルディと同じです。ライブなので、ピアニッシモで聞かせるのは難しいでしょうから、これでも仕方ないかと。二度目の"e"のフェルマータはきっちり守られています。

ジェルモンとのデュエットに入る部分。歌詞は前と同じです。"Dite alla giovine"はピアノの指示。スコア通りです。"ch' avvi una vittima della sventura"は不思議で、頭にデクレッシェンドがついているけれど、"vittima"の頭にまたピアノ。テバルディは"vittima"を歌っている間にクレッシェンドをかけて、次に続けています。"della sventura"はフォルテで、ここからまたデクレッシェンド。ここはその通りに歌っています。

「かの方」。"Dite alla giovine"はピアノの指示。スコア通りです。"ch' avvi una vittima della sventura"。こちらは"vittima"をピアノにはしていません。共演バリトン歌手の巨声が明らかに邪魔だったのでしょう。消されないために敢えて無視したのかと解釈します。"della sventura"はフォルテで、ここからまたデクレッシェンド。ここはスコア通りですね。

また"cui resta un unico, un unico raggio di bene"がきます。"cui"を頭にデクレッシェンド。2度目の"unico"がポルタート。テバルディの歌はやはりポルタートと言うよりはアクセントという感じです。"che a lei sacrifica e che morrà, e morrà, e morrà.""che"にアクセントでここからデクレッシェンド。テバルディの歌は、強弱はスコア通りです。"-crifica e che"までポルタート。これはやはりアクセントが付いて、スタッカートしているような歌い方です。"e morrà"は2度とも"e"にアクセント。"e"が強調され気味で、しかも長めに歌われています。この語だけ付点8分音符だからでしょう。

「かの方」。"cui resta un unico...""cui"を頭にデクレッシェンド。"cui"が強すぎるくらいです。コワイ。2度目の"unico"がポルタート。やはり、ポルタートって歌いにくいみたいですね。この方もポルタートという感じにはどうも聞こえません。でも、アクセント気味に歌うよりはこの方のようにすんなり歌った方が良いかもしれません。"che a lei sacrifica e che morrà, e morrà, e morrà.""che"にアクセントでここからデクレッシェンド。この方も強弱はスコア通りです。"-crifica e che"までポルタート。ここもポルタートではないですね。"e morrà"は2度とも"e"にアクセント。"e"の歌い方はテバルディとほとんど違いません。

"a lei il sacrifica e morrà"が2回ありますが、"lei"がフォルテで"cri"からはピアニッシモ。テバルディの歌はスコア通りです。

「かの方」。最後の方の"a lei sacrifica e morrà"。ちょっと、巨声のバリトン相手にライブでピアニッシモを実践するのは難しかったようですね。さすがに"lei"は強めに聞こえますが、ピアニッシモという感じではないです。特に"-fica e morrà"が目立って聞こえます。それも仕方ないでしょう。ライブでそこまで要求するのは無茶です。

終わり近くの"e che morrà"の繰り返しには、アクセント記号の他は特に強弱の指示はない。テバルディは全部違うように歌うのですが、最初は強め、次は弱め、次は若干強め、"ah sì"の入る時はアクセント記号がついているので強めに、最後はごく静かに終えるのでした。これは、音高の違いで自然にそうなるのでしたね。最初は比較的高めなので強く、次は低くなるので弱く、次からは音高も上がるし、アクセントもつくので強まり、最後は音高も下がり、アクセントもなくなるので自然に静かに締められる。スコア通り歌えば自然にそうなるようになっている。テバルディは特にひねらず、そのまま歌います。

「かの方」。テバルディと違いは殆どありません。ただ、"ah sì"の入るところの最後の"(morr-)à"の音程が怪しい。もう動画は先に作り終えたので、今更ここの動画は作りませんが、この方、実は音程を結構はずしておいでなのです。(何でもないところで。)それは、今後、その場面が来たらご紹介します。ともかく、ここも、別に「この方」がダントツに上手いとは思いませんでしたけど・・・。テバルディは、無味乾燥なラジオのスタジオで歌っていたんですがね・・・。(この方が、このライブの際、いかにゴージャスなお膳立てをしてもらって歌っていたかは、後ほどじっくり振り返ることに致します。)

4. ヴェルディ 『椿姫』 第二幕 第一場  "Imponete"


入りは"Sostenuto"の指示。丁寧にじっくり歌う必要があります。第一声から、テバルディは声に震えを入れています。別れろ、と言われて、決心したとしても、簡単なことではないからですね。"Nol crederà"ははっきり涙声。"Seguirammi"は"segui-"で息をのみながら、苦悩を込める。"rammi"は強める。

「かの方」"Imponete"・・・淡々と「ご指示ください」という感じに聞こえませんか?声が全然震えていませんよね。"Nol crederà"は涙声のテバルディに対し、バリトンの後ろから顔を出しているように、小さめに聞こえるんですが・・・。"Seguirammi"でやっと全体が強く前に出て、最後にガックリしたように弱めています。要するに、全部、ジェルモンの提案は無駄だったから、「悲しい」というより「がっかりしている」という風を出したかったのでしょう。しかし・・・どちらがヒロインの気持ちをリスナーに伝えるのに効果的でしょうか?

"Qual figlia, qual figlia m' abbracciate, forte così sarò."特別な指示のあるフレーズではないです。ですが、テバルディは、入りは静かに、最初の"figlia"でクレッシェンドをかけ、"qual figlia m' abbracciate"までを強く歌っています。本当は義理の娘でもいいから、娘になりたかった、つまり、アルフレードの正式な妻になりたかった。それが駄目なら、せめて、今だけでも、娘のように扱って欲しい、という心ですね。"forte"が強めなのは歌詞の意味からして自然ですし、後の語は音高が下がりますので、自然に歌えば沈んでいきます。

「かの方」。"Qual figlia, qual figlia m' abbracciate,"まで、おんなじ大きさで歌っています・・・。どっちが妙味のある歌だと思いますか? "forte così sarò."こちらも"forte"が強いのは同じですが、問題は最後の"sarò"が"sarà"に聞こえることです。それだと、一人称にならない(三人称になります)ので、文法的に変なことになりますが、世界中から腕っこきの弁護士が山ほど群れをなして従っているような方ですから、こんなことを指摘しただけでも、こういう方々が私をたたきのめしに来るでしょうね。まぁ、もともとイタリア人ではない方ですから、ここまで何も間違わずに(私は切り出してきた音源の所しか細かくは聞いていませんが)歌ってきただけでも「奇跡!!!!!!」と申し上げておきましょう。たとえ、一時イタリア人のご亭主をお持ちの方だったとしても、です。

"Tra breve ei vi fia reso, ma afflitto oltre ogni dire. A suo conforto di colà volerete."ここも特別な指示はありません。テバルディの歌は"breve"と"reso"と"conforto"が強いですが、後は消え入り気味です。ちょっと、「らしく」ありません。もう少し強めに歌っても良かったかと。

「かの方」。なぜだかわからないのですが、先ほども指摘させていただきましたけれど、ここの場面から急にイタリア語が怪しいところがちらほら。声の強さとしてはテバルディより適切だと思いますが、"ma afflitto oltre ogni dire."が 2点ハ音より下がっているここはやはり声が引っ込んでいます。そして、"afflitto"の"-tto"が詰まり切れていないようなのです。「アッフリット」より「アッフリート」に聞こえます。どうしてこの方の発音にこんなにこだわるか?それは、このシリーズの後でじっくりご紹介することにした、ある評論家先生の文章に「テバルディやフレーニ」の発音は聞き取りにくい(!)というような私としては「エエエッ!!!」というような記述があるからなのですよ。テバルディは私のスペルミスすら、歌声で指摘してきたくらいですから、こんなことを書かれていて、ファンとして黙ってはいられないのです。"A suo conforto di colà volerete."ここも声が引っ込んでいます。高音域か、低音域かしか、くっきり響かせられない方だったのです。そして、(駆け出しの頃は響いていたとしても、この頃は既に)低音域はテバルディより弱めで、音色は、(こう申し上げては悪いですが)聞きづらいものがあります。

"Sapendol, v' opporeste al pensier mio."ここも指示は特にありません。ここもテバルディとしては「らしく」ないです。もっと声が響くはずなので。ただ、ここでどこかをでこぼこさせるのも変、といえば変ですから、あっさり歌っても構わないでしょう。

「かの方」。デカいオケの音の前に出ようとして無理矢理ぐりぐり声をねじ込んでいるという感が。ここも中途半端で歌いにくい音域ですから、仕方ないのですが。

次。1度目の"Morrò"はフォルテで、各音節にアクセントがついているというご丁寧さ。だから、テバルディはここを強めに歌っています。次の"morrò"はピアニッシモにして、"la mia memoria,"までレガートで歌えという指示。"non fia ch' ei maledica,"は"di(-ca)"が山になるようにクレッシェンドとデクレシェンドの指示。テバルディの歌はスコア通りです。

「かの方」。スコアの指示からすると当然ではあるんですが・・・この"Morrò"、ヴィオレッタというよりこの方お得意の「メデア」が歌っているように聞こえますけど。これが「至高の表現者」?結局、強いところで凄みが出すぎるのをどうにもできなかったのですね。次の"morrò"は全くピアニッシモには聞こえません。バリトンに邪魔されてもいないのに。"la mia memoria,"は特に何も。"non fia ch' ei maledica,"は"di(-ca)"のクレッシェンドとデクレシェンドは実践されていますが、ここも「呪って欲しくない」というよりは「私の方が呪います」という、キツい調子ではないでしょうか。

次。"se le"にも小さくデクレッシェンドの指示があり、彼女のパートが一旦区切れる"vi sia chi almen gli dica."は"morendo"の指示。消え入るように終えないといけない。テバルディの歌はほぼこの通りになっています。"le mie pene"あたりにアクセントが付いたような歌い方をしている以外は。「私の苦痛」を強調したかったようで。

「かの方」"mie pene orribili"の"pene"、こちらの方も強調していますが、声を強めています。この方が強調の仕方としては適切でしょう。そして、ここから涙声に。彼女のパートが一旦区切れる"vi sia chi almen gli dica."は"morendo"。消え入るようというより、半ば語りにして早めに切り上げています。ここも涙混じりです。ここは、テバルディより適切だと思います。ただ、こういう歌い方がおできになるなら、"Morrò"からもう少し、もの凄い気味悪さを抜き取って欲しかったのですが。

次の彼女の入り、"Conosca il sacrifizio,..."からは"animando con molto passione"という指示があります。「非常に情熱をこめ、活気をつけつつ」ですね。"(co-)no""sa-(cri)fi(-zio)" と、"ch’ io consumai d’ a(-more),"にはいちいちアクセントが付いています。"che sarà suo fin l’ ultimo,"では、"suo"にフェルマータが付き、ここが頂点でクレッシェンドとデクレシェンドの指示があります。"sospiro del mio cor."には何の指示もありません。テバルディ、強めに歌ってきて、最後の"del mio cor"で静かに締めています。アクセントがその通りかどうかは微妙です。"suo"は最強になっていて、スコア通りです。別れるとしても、"私の心は「彼の」ものとして捧げられている"という趣旨のことを訴えているのでしたね。

「かの方」。声の強さはテバルディより上回っているくらいです。(テバルディはむしろ、涙声にしていますので)問題は、この時点に来て、(ジェルモンの来訪時より)こんなに元気(?)になるのが適切かどうか、ですが。"(co-)no""sa-(cri)fi(-zio)" と、"ch’ io consumai d’ a(-more),"のアクセントは、「この方」の方が適切な付け方をなさっています。"suo"の強調も然るべく行われています。少々、悲しみに沈んでいるにしては「コワ」い印象がぬぐえませんが。

デュエットに入っても同じ歌詞が繰り返されます。次の"conosca..."には"con passione"「情熱を込めて」の指示。"consumai d' amore"は"amo(-re)"で最強になるよう、クレッシェンドが付いています。今度も"suo"でフェルマータ。その後は、2点音域になる音にいちいちアクセントが付いています。テバルディの歌はスコア通り。

「かの方」。さして、テバルディと印象は変わりません。(声の音色は考慮しない約束ですから)

"suo, suo, l' ultimo sospir.""suo"が強いのはアクセントがついているのと、音高が上がっているからですが、テバルディは特に2番目の"suo"に、なんとなく、すがりつくような、「愛着」のトーンを入れています。どうしてそう聞こえるかというと、「スーーオ」って、(当たり前のことを書くようですけど)"su""o"という二つの音節から成り立っていますが、彼女は最初の"su"の中でも"u"を微妙に強めたうえ、微妙に「一旦下げて少しせり上げて」から、"o"で落ち着かせるということをしているからです。文字で書くと「~」のようなカーブがついているのです。これは、今になって気づきました。テバルディは「19世紀的意味での」女らしい女の気持ちを出すのに非常に長けていたのです。

「かの方」"suo"が強いのはテバルディと同じですが、「すがりつくような」印象って、入っていると思いますか?入っていません。この方は、ストレートに歌っているからです。先ほどの説明でおわかりになりにくいとしたら、テバルディはスロープをカーブしながら下りてきているのに、この方は直滑降してきている、という感覚なのです。

"suo, suo, l' ultimo sospir, sospiro del mio cor,"は"(so-)spiro"あたりからクレッシェンドをかけ、"ah"がフォルティッシモ。"del mio cor,"はデクレッシェンドで、"è sarà suo fin ultimo"までクレッシェンド。"sospiro"は音節ごとにスタッカートで、"del"がフォルティッシモフェルマータです。テバルディはまた最初のフレーズの2度目の"suo"で「すがりついて」います。後の強弱はスコア通りと言ってよいかと。"Giunge alcun, partite"は音の区切りが悪いので入れただけです。とにかく、誰か来そうだから、「早くお出になって」と慌てる様子さえ出ればいい。テバルディの歌い方にそつはありません。

「かの方」。最初のフレーズの"suo"は、当然ですが、テバルディのような凝ったことはしていませんね。その後はやはり、スコア通りお歌いになっていますが、オケとバリトンのデカい音に明らかに邪魔されています。それを振るいのけてでも前に出てはいません。立ち位置の問題、と考えることにします。

"Non ci vedrem più forse"は"Adagio"というテンポの指示しかありません。テバルディはまるで、恐ろしいことでも告げるかのようなトーンで歌っていますが、その理由は音源ご紹介の際にご説明したとおり、自分の本心を知っているただ一人の人とはもう二度と会うことがないとしたら、誰が彼女を弁護してくれるのか。でも自分がこの人とみだりに会っては、全てがぶちこわしになる。このヒロインに与えられた、過酷すぎる使命が彼女にとっていかに苦しいことか、テバルディはこうして伝えているのだ、と。"Siate felice"には"dolce"の指示。確かに、なめらかに歌っていますが、彼女の声には悲しみのトーンが入り、次の"Addio"は泣き崩れています。

「かの方」。"Non ci vedrem più forse"は沈んだ調子が聞き取れないこともありませんが、テバルディのような手の込んだ歌はお歌いになっていませんね。むしろ淡々としています。"Siate felice"には"dolce"の指示。ちょっと、キツすぎて"dolce"には聞こえません。悲しみのトーンは入っています。"Addio"にも。ですが、テバルディの感情移入の仕方と比較すると、ずいぶん冷静ですね、と。

さて、「さようなら」と一度言った後で、食い下がる場面。ここで、大変な問題を発見してしまったのです!

歌詞は同じものの繰り返しです。"Conosca il sacrifizio ch' io consumai d' amore"ト書きの通り、テバルディは、泣き濡れて声を震わせながら歌っていますね。"che sarà suo fin l' ultimo,"「涙で言葉を途切らす」のト書き。"suo"にはフェルマータが付いている。それでテバルディは長く歌いつつ、スコアにないクレッシェンドをかけて、ここが強調されるように工夫しています。"「彼の」ものなのです!"を最後の最後まで伝えたい、それが私の本心だと。"fin l' ultimo"は敢えて揺らいでいるような調子を出して、ヴィオレッタの極限までの動揺、苦悩を表している。

さて、問題は、「かの方」。"Conosca il sacrifizio ch' io consumai d' amore"悲しみの色はついていますよ。なにしろ、「大大大歌手様」ですから。でも泣いていません。それがいかにも、好ましいことのように評論されていて、テバルディのようなのは、やり過ぎだと書き立てられていますが、私はそうは思いません。"che sarà suo fin l' ultimo,"「涙で言葉を途切らす」のト書き。"suo"にはフェルマータが付いている。当然、この方もこの音を長めに歌っておられる。(テバルディのようにクレッシェンドはしていません。別にスコアに指示がないので、そうする必要はありません)ですが、ここが問題の発見のきっかけ。実は、この「大大大歌手様」は、しばしば、音程を外す方だったのです!ここでは、"suo"が半音近く上がっていました。一聴して、「あれ?変だわね。」何度聞いても「変」。それで、MuseScoreにスコア指定の音(2点ト音)を出させてから、半音上の音も出させました。

結果、作ったのが次の動画です。

●「女神」様のチューニング不良(1)"suo"の問題

 

おわかりになりましたね。念のため、書き添えます。私は、元の音源に一切加工を加えておりません。ピッチ(音高)は、お歌いになったままのものです。そこの部分を切り出してきただけの話です。テバルディの方も同様です。「こちらの方」のファンの方が私に「根拠のない非難」をするためにいらしたならば申し上げておきますが、噓だとお思いになるなら、「当然」お手持ちでありましょう、(だって、ファンの方だったら持っていて当たり前ですよね、ファンでない私ですら持っているのですから)この方のこの時の音源の同じ所を何度も再生なさってご確認下さい。1955年5月28日ミラノ・スカラ座ライブと言って、ファンの方でおわかりにならないとしたら、それこそ「問題」ですよ?

なぜ(1)と数字がついているかというと、まだ他にも発見したからなのですよ。結局、この方の歌唱を聞くと、あたかも「歯医者さんで虫歯を治療されている最中」のような思いをなさる方は(私もその一人ですが)持ち声の問題以上に、なんとなく音程がおかしい、と無自覚のうちに気づいているからなのです。今回はこの場面で記事を区切りますが、偶然ではないでしょう。何カ所も見つけたのですから。私はピアノの調律師の方にお願いすれば、どこが何ヘルツ上がりすぎている、と沢山、細かくご指摘いただけるところがもっとある、と思っています。実は、うわずり気味に感じた箇所はもっとありましたから。私がプロの耳を持っていないから、そこまでは指摘できないだけのことで、明らかにわかったところだけ、指摘するにとどめるのです。これは「この方」の傾向、だったのだと思う方が自然でしょう。しかし、この「事実」(証拠物件が残っているのですから、でっちあげでもなんでもありません。)が言及された音楽雑誌ないしは評論文に、一切お目にかかったことがないのは一体なぜなのでしょう???

歌手がいつも正しい音程で歌うとは限りません。テバルディはさんざん、「ハイCが上がりきっていない」として非難されています。ですが、「この方」の音程がうわずりがちだったことについては、専門家の方々は言及なさらない。「下がるのは悪いけれど、上がるのは構わない」のでしょうか?そんなはずはないでしょう!これも、歌唱技術の問題同様、「方手落ち」なのです。「この方」はあらゆる過失に対しそれをなかったことにする、水戸黄門の印籠のようなものをお持ちのようですね。専門家の方を簡単に黙らせてしまうような、強烈な効果を持った。

テバルディは、「敢えて」音程を揺らすこともありました。現にここでも、"fin l' ultimo"を明らかに揺らしています。しかし、それは、苦悩の極致にあるか、死に際のヒロインの苦悶を表現するために、「敢えて」「自覚的に」音程を変えるときだけです。不調なとき以外、安定して歌わなければならないときに、音程を外す人ではありませんでした。勿論、高音が上がりきらない傾向があったのは事実です。ですが、それは、本人も気づいていてもどうにもならなかったのです。持ち声が甲高い人ではなかったので、生理的な問題なのです。故意に下げたのではないし、気がつかなかったわけでもない。正しい音高まで上げたかったけれど、上げられなかったのです。ですが、「この方」の場合、果たして自覚がおありだったのかどうか?自覚がなかったとしたら、この方の「豊かな音楽性」に大きな疑問符がつくのです。

さて、比較動画に戻ります。"suo"を乗り越えた後は、"fin l' ultimo"で声を本当に途切れさせて、この方は熱演なさっています。ですが・・・こういう「事実」を知った後でこの熱唱を聞いても、なんとなく黄金の輝きがあせて感じるのは・・・。仕方ないかと。"Addio"も然るべくお歌いになっています。

"felice siate, addio"に至ってはもう、別にどうでもいいような・・・。スコアに強弱の指示はありませんが、テバルディも「この方」も強烈に歌っている、ということだけ、申し上げて、一旦このコーナーを区切ります。次回は続きの動画を。