読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

Voce d' Angelo レナータ・テバルディに捧ぐ

レナータ・テバルディの専門ブログです。情報、動画、鑑賞録など。

1952年 『椿姫』 ラジオ放送用録音(1)

スタジオ録音 椿姫

f:id:AkankoMarimo:20170225091925j:plain

1952年の音源から、『椿姫』のRAIミラノのラジオ放送用録音のご紹介をします。ラジオ放送用なのに、何でこんなくぐもった音なの?と言いたくなるくらい、音が悪いのです・・・。イタリアは「超」がつく歌手を沢山輩出しましたけれど、技術的には・・・・・。ですね。(頑張って調整しても、クリアーになったとはいえません。)音源は写真のBOXセットから採りました。

私は正直な話、ずっとテバルディの『椿姫』を敬遠していたけれど、以前同様のブログを作っている際に彼女の『椿姫』のライヴの歌唱を聞き込んで、我ながら馬鹿げた思い込みから大変な過ちを犯していたのだと気づいたのです。1950年のサン・フランシスコでのコンサートで、テバルディがジェルモンとのやりとりの部分のかなり長い場面を現地の歌手と歌ったものはご紹介済みですが、あのときも確認したとおり、テバルディの頭には『椿姫』のスコアが完全に刻み込まれていました。いつもその通り歌ったわけではないでしょう。ですが、彼女がこの演目を、単にキャリアに箔を付けたいから歌ったのではなく、完全に、自分の重要なレパートリーのひとつとして真剣に取り組んでいたことがそうした歌唱の記録から聞き取れてからは、自分の以前の愚かさ加減にあきれたのです。

なぜ、そのような思い込みに陥るに至ったか。そこにはオペラの鑑賞者としては未熟だった時代に私の頭に刻み込まれた、ある評論家先生のお書きになった言葉が大きく影響していたのです。「もう一人の方」(それが誰か、このブログでは極力名指しいたしません。このブログで言及するのは余り相応しくない名前なので。)の『ノルマ』のCD(もう廃盤のCBS SONY 78DC-833~5)のライナーに、その言葉はありました。その言葉をそのまま引用いたします。「当時彗星のごとく現れた天使の声レナータ・テバルディもアジリタは下手だった。」

この場合、この「先生」がお書きになったことに反論したいとは思いません。確かに、テバルディはアジリタは上手いとは言えませんでした。トリルが全く歌えていないことにも、気づいていました。ですが、だからといって、彼女が『椿姫』に不向きだと決めつけたのは、全く馬鹿げたことだったのです。『椿姫』の中でアジリタやトリルのある箇所は、全体の歌唱の分量と比較したら、わずかな部分に過ぎず、装飾音のない部分の方が圧倒的に多いのですから、装飾音が上手く処理できていないからといって彼女の『椿姫』を敬遠したり、「彼女には向いていなかった」などと決めつけたのは全く軽率なことだったのです。

評論家先生方のお書きになることには、特に特殊な芸能に親しもうとする場合、指針にしてしまうことが多い上、それに絶大な説得力を感じてしまうことも多いのは事実でしょう。ですが、それは、もう長くオペラとつきあった後で振り返ったとき、少なくとも、私に関して申し上げれば、非常に偏向した情報に振り回されて損をした、という思いの方が大きいのが現実です。

妙なたとえになりますが、例えば、「食通」のような方々と、私のようなごく一般的な味覚の持ち主では、食べ物に関する好みがまるで違うということもあり得ます。私は一度だけキャビアを食べる機会に巡り会いましたが、「不味い」という感想しか湧いてきませんでした。皆さんは、そういう方々が仮に、「カエルの目玉を特別なソースで和えたもの」を絶賛したからといって、口に入れる気になりますか?無理だ、という方が大多数かと。実は、音楽も事情はさして変わらないと思うのです。「通」の方々が素晴らしいとお思いになったとしても、その方々が非常に特殊な趣味の持ち主だったとしたら、どうなるでしょう?自分とはまるで好みの合わない声質、歌唱法の歌手を受け入れなければならないのでしょうか?「カエルの目玉の特別ソース和え」を食べる必要がないのと同じで、ご自分のご趣味と合わない声質を持っていたり、奇妙な歌唱法をする歌手を無理矢理愛好する必要など、民主主義国家の国民には、全くないのです。一人一人に人権と、自分自身の思想を持つ権利が保証されているのですから。

私は、じっくりとテバルディの『椿姫』を繰り返し聞くうちに、先に引用したような「権威」の方のおっしゃることに振り回される愚を悟り、改めて自分の趣味趣向を信頼するのが一番だったのだと確認しました。彼女のヴィオレッタの歌唱は"Sempre libera"やトリルの箇所を除けば、不満な箇所はほとんどない上、感動的ですらあったのです。私は非常に客観的に彼女の歌唱の鑑賞をしているつもりですので、ひいき目でそう書いているのではありません。テバルディの『椿姫』は十分、鑑賞に値する。今は、そう思っています。

「権威」をお持ちと思われているの方々がいかにおかしなことを書かれることがあるか、ということに私が気づいた、その例は後でご紹介したいと思います。

さて、この音源の動画を準備する段階で困ったのは、父ジェルモンを歌ったジーノ・オルランディーニの写真が、ネット中探しまくっても見つからず(実は見つかったのですが、集合写真の中に小さく、というのしかない上、どの人が彼なのかわからない・・・)、仕方なく動画のサムネイルにいつも使用する参加歌手の写真の代わりに、『椿姫』初演で父ジェルモンを歌ったという、フェリーチェ・ヴァレーシの肖像画を使うしかなかったことです。これは以前この動画を作成したときと同じです。ジェルモンと歌っている箇所でテバルディ一人の写真を使うのも・・・。どうかと思いましたので。

いつもながら、前置きが長いですね。さっさと音源のご紹介に入ります。

録音データは1952年3月10日。指揮:カルロ・マリア・ジュリーニ、演奏:RAIミラノ放送交響楽団・合唱団、ヴィオレッタ:レナータ・テバルディアルフレード:ジャチント・プランデッリ、ジョルジョ・ジェルモン:ジーノ・オルランディーニ、ドゥフォール男爵:ヌンツィオ・ガッロ、フローラ:リッリアーナ・ペッレグリーノ、アンニーナ:ルイーザ・マジェンタ 他、です。

1.  ヴェルディ 『椿姫』 第一幕  "Libiamo, libiamo"

 

このオペラは、ヴィオレッタの出ない場面を探す方が難しい位なので、極端な話、全曲ご紹介しなければならないところを、それはいくらなんでもしんどいので(正直な話・・・。)かなりシーンを切り捨てました。それで、いきなりここから。

さて、最初の入りはアルフレードからですから、テバルディの歌が本格的に始まるのは"Tra voi..."からになりますね。ここは最初から細かい指示が。"Tra"にスタッカート、"voi"にアクセント、"tra voi sa-(prò)"までの音節にスタッカートがついています。ここは・・・スタッカートとしては微妙ですね。もうちょっと歯切れ良かった方がはっきりしたかと。ただ、テバルディはいちいちついている装飾音や前打音をちゃんと歌えているのです。しかも、若い彼女の美声!この役は美声の歌手の歌で聞いた方が絶対快い、と私は思います!"(di-)vi(-dere)"にアクセント。il tempo mio giocondo"はピアニッシモ。ここは実践していると思います。そう、極端に声量を落としているという感はありませんが、比較的声が小さめになっていますので。とにかく、この歌は「乾杯の歌」ですし、ヴィオレッタはまだ半ば自暴自棄の快楽主義を捨てていませんから、明るく歌うのが適切でしょう。テバルディの歌はまさにそうなっています。

"Tutto"の"Tu-"にまたアクセント。アクセントのついているところのテバルディの声はしっかり、強勢が置かれています。"è follia, fol(-lia)"はまた音節ごとにスタッカート。こちらは明らかにスタッカートして聞こえます。"mon(-do)"にまたアクセント。強勢がついていますね。"ciò che non è piacer"はまたピアニッシモ。"Tutto"を歌っているところと比べると明らかですが、テバルディは声量を落としています。

"Godiam"からのフレーズには指示がありません。が、"gaudio dell'amore"はピアノ。注文の細かい歌ですね・・・。テバルディはその通り歌っています。"è un fior che nasce e muore"からしばらく、指示がありません。"Godiam, c'invita, c'invita"に来ると、"(go)-diam"にまたアクセントで、"c'invita, ci in(-vita)"まで音節ごとにスタッカート。次は"fer(-vido)"にアクセント。スタッカートは微妙ながら、アクセントは見事にその通りになっています。最後の"(accen-)to lusinghier"はピアニッシモです。どこまでがピアニッシモかは微妙ですけれど、明らかに声を落として合唱に譲る、という形になっています。

合唱が入って、次の入りは"La vita è nel tripudio"ですが、ここには"con grazia"「優美に(あるいは優しく)」という指示が。これ以上「優美」に歌えるでしょうか?アルフレードの合いの手が入って"Nol dite a chi l'ignora"ときます。ここには指示はありません。ですが、お気づきになりますよね、"ignora"についている細かい装飾をテバルディがちゃんと歌っているのを。彼女は、特に初期は、ちゃんと装飾が歌えたのです。(トリルはまるで駄目でしたが・・・)何も指示がなくても"dite"を強めて「言わないで」をアピールしているのにも気づかなければなりません。

"Ah godiamo..."からは合唱と合流しますので、細かいところまでは聞き取りにくいですが、"(go-)diamo"からメゾ・フォルテの指示。"-mo la tazza, la"までスタッカート、"can(-tico)"にはアクセント。"in questo in questo"にはスタッカートで、最初の"que(-sto)"にアクセント。"(para-)di(-so)"にアクセント。"ah, ah"は歌うごとにアクセント。"(sco-)pra il di"は2度出てきますが、どちらもスタッカート。問題は、最後の"ah sì!"の"ah"がトリルだということ。"sì"はフォルティッシモです。スタッカートがやはり微妙なのと、トリルが歌えていないこと以外に問題はないと思います。

この歌に不満を感じるか?と聞かれても、「別に感じません」と私は答えます。トリルが歌えていないとか、スタッカートの歯切れが今一つだとか、それは、勿論歌唱の完成度を問う場合、問題にはなるでしょう。ですが、この歌の華々しい気分を伝えるのにテバルディの歌が不適切だとは全く思いません。

2. ヴェルディ 『椿姫』 第一幕 "Un dì felice, eterea"

 

この場面の直前に、ヴィオレッタが少々具合が悪くなって控えの間にひとり、自分の顔色を見て深い病状に憂慮するところがありますが、そこにはアルフレードが来ていて、彼女の健康を気遣うのですね。こんな生活を続けていたら命に関わる、と。そして自分だけがあなたを気遣っていて、そうさせてくれるなら、気を配り続けるのだが、と。ヴィオレッタは彼の真剣そのものな調子を茶化すのですが、アルフレードは彼女を一年前から愛していたと告白。その後に続くくだりがここのデュエットです。

しばらくはアルフレードの歌が続きます。"eterea"を「エーテル」とかやったのは、わざと、です。少し古風な翻訳では、19世紀の小説の翻訳でこういう言い回しがよく使われていましたから・・・。ちょっと古風な感じを出したかったのです。「大気」でも良かったんですけれどね。

ヴィオレッタの入りは、彼の真剣な「真実の愛」に関する言明に答える形で始まりますね。"Ah, se ciò è ver, fuggitemi""fuggitemi"まではスタッカート。"fug(-gitemi)"にはアクセント。"solo amista-"までスタッカート、"-de"にアクセント。"amar non so, né soffro un così"までは早いパッセージが続きます。"brillante"「華やかに」の指示もあります。 "eroico"はスタッカートで"amore"はポルタート。ここのくだりはコロラトゥーラの得意なソプラノならなんでもないパッセージですが、「リリコ・スピント」の歌手が歌うのは非常に難しかったはずです。とくに、レガートをウォブルなしで、なめらかに歌うことの方が得意だったテバルディには。これだけ歌えているだけでも、本来は驚くべきことかと。ヴェルディのスコアの狙いは、ヴィオレッタがまだ軽薄な気分("la traviata"である上、死の病に取り憑かれて、ヤケにならない人が?)に支配されていることを表すことですから、それが歌い出せていることが重要だと思います。テバルディの歌はいつもの重々しさはどこへやら、軽薄そのものですから、これでいいのです。

"io sono franca, ingenua"は"io sono fran-"までスタッカート、"-ca"はアクセント。要するに、音高が上がるところで強勢を付けるのですね。(2点イ音)"altra cercar"もスタッカートで"do(-vete)"にアクセント。"non arduo troverete dimenticarmi allor"はまた非常に早いパッセージになっていて、"leggero"「軽やかに」の指示がついています。レッジェーロとは真逆のテバルディには・・・。辛かったはずです。

それが終わると本格的にデュエットに。"Non arduo troverete"には指示は特になく(3連符などはありますが)"dimenticarmi allora"はクレッシェンドの指示。そのあとの"dimenticarmi, dimenticarmi,"にはまた"leggero"の指示。"allor"は派手なパッセージを歌わなければなりません。そのうえ、クレッシェンドしろと。ちょっと、"dimenticarmi"は"leggero"という感じではないです。むしろ、強すぎたのでは、と。

その後、もう一度"dimenticarmi allor"が来ますが、こちらは"di""men""ti""car""mi"と3連符で区切られています。"allor"はまた派手な装飾のついたパッセージ。

"dimenticarmi allor"がまた来ます。"di""men""ti""car""mi al-"が3連符で区切られ、次の"dimenticarmi, dimenticar"は最初の"di-" "men"にスタッカート、次の"dimenticar"は音節ごとにスタッカートです。最後の"ah"はまた派手に装飾が。音高が上→下に2度同じパターンで下がっていくパッセージを歌いながらデクレッシェンドをかけ、次の"ah"は今度は上に素早く上がっていく。そして、最後の"dimenticarmi"も"dimenticar-"までスタッカートがついています。この辺までは正直、テバルディには試練ですね。スタッカートは微妙です。が、3連符はちゃんと区切れていますし、早いパッセージの部分も、酷いと言うほどの破綻はありません。スコア通りに歌うとどうなるかは、後ほど例のMuseScoreで作ったスコア通りにソフトに演奏してもらいます。どうぞ、お聞き比べを。

その後はやかましい注文は特にないので、一息つけたでしょう。ですが、テバルディは一息つくどころか、ちゃんと歌詞に相応しいトーンを入れながら歌うのを忘れていません。

"Amor, dunque non più"は"più"に強勢を置いて、「もう」その件はおしまいにしましょう、と。"A tal giungeste?"はフレーズ全体を強めに歌って、確認するように。椿の花を渡して、アルフレードに「なぜです?」と聞かれると"Per riportarlo"を非常に可愛く歌っています。明らかに、「愛は沢山」と言いつつ、この青年に好意を持ってしまったのですね。"Quando sarà appasito"もしっかり自分の意向を伝えたいというように強めに歌っています。

"Ebben, domani"は非常に明るくて美しい。結局、彼に好意を持ったのを認めたのです。"D'amarmi dite ancora?"は非常に強い。「それでも愛するとおっしゃるの?」「愛は沢山だ」と言いつつも、実は愛していると言ってもらいたいのですね。是非とも確認したい、という調子です。(この辺は何も指示がないのです・・・。)"D'amarmi"も強いです。

"Partite?"はよく聞くと、笑い混じりになっています。相手の舞い上がった様子が可笑しいのと、自分の矛盾した気持ちが何だかくすぐったい、という感覚が出ています。"Addio"は、どうせまた明日会うのですから、気軽で、明るい調子です。他の演目で恋人に「永遠の別れ」を歌うときのテバルディとは明らかに別人です。

さて、では問題の早いパッセージがスコア通りだとどうなるか、MuseScoreに再現してもらいましたので、ご興味がおありになればご鑑賞を。(こちらでしかご覧いただけません。)ヴィオレッタの入りの所からデュエットの終わりまでしか作りませんでした。ソフトの楽譜に音符を書き込むのも結構骨なのです・・・。

●MuseScoreによる"Ah, se ciò è ver"

 

原曲の指定は、このテンポなのです。これで歌える歌手がいるのでしょうか・・・。

3. ヴェルディ 『椿姫』 第一幕 

"È strano! è strano!---Ah, fors’ è lui---Sempre libera"

 

ここは、正直、テバルディには鬼門でした。私もここが問題だと受け止めすぎていたばっかりに、彼女の『椿姫』を敬遠するに至ったのですし。

入りはどうということはありません。"In core ho scolpiti quegli accenti!"で"(ac)-cen-"がフォルテになるまで、クレッシェンドの指示があります。その後は"Oh gioooooooia ch' io non conobbi"のあたり、あるいは"del viver miiiiiiiiiiiioo"のあたりに細かい装飾がついているのが難だというだけ。(私が母音を敢えて沢山書いたところにあります)この辺の装飾の処理は、はっきり言って、なっていません。

"Ah, fors'è lui che l' anima"は"Ah"にアクセント、"fors' è"の頭にピアノの指示。"lui che l' anima"には"dolcissimo"の指示。細かいですね・・・。テバルディが"dolcissimo"を実践できないというのはまずなかったので、他が問題ですが、このあたりは問題ないと思います。

"solinga nei tumulti"は2度繰り返しですが、"solinga"は3連符でスタッカート。"nei"にはアクセント。2度目も同じですが、こちらは"tu(-muluti)"にもアクセント。
 
"godea"の"go-"にアクセント。"de' suoi colori occulti"は"solinga nei tumulti"と同じパターンの繰り返しです。どちらにも言えますが、頭のアクセントはきちんとついているのですが、スタッカートや、フレーズ中ののアクセントがはっきりしません。なめらかに歌いすぎです。

"Lui, che modesto e viglile"の頭にはピアニッシモの指示。ちょっと声量を落としきれていませんね。"ascese"あたりからクレッシェンドで"e nuova febbre accese"ではもうフォルテの指示が。かと思うと"destandomi all' amor"の頭はもうピアニッシモにしろと・・・。更に、"amor"の"-mor"がフェルマータで、クレッシェンドがついています。ピアニッシモやクレッシェンドは見事に実践されています。

最初の"A quell' amor"は頭にフォルテの指示があり、"A"と"-mor"にアクセント。"con espansione"「感情を十分吐露して」の指示も。そして、最初の"dell' universo"の"de-"と"-ver-"にアクセント。最初の"misteri-(oso)"はポルタートで、次の"misterioso"は"(mi)-sterioso"がポルタート。"altero"でクレッシェンドをかけ、"croce"はフォルテ、かつ"cro-"にアクセント。次の"croce e de-(lizia)"までスタッカートで、ここには"leggero"の指示も。次の"croce e de-"もスタッカート。 最後の"delizia al cor"は"delizia al"までスタッカートです。ここも強弱やアクセントは守られているのですが、ポルタートはやはり困ったようですね。スタッカートもなめらかすぎます。

その後、オリジナルの楽譜には「幻の2番」みたいなものが書かれていますが、ここを歌っている歌手を聞いたことがありません。いつからかわかりませんが、カットされるのが普通になったのですね。それで、また"croce e delizia, delizia al cor"になり、その後の"ah"のは無茶苦茶な・・・というか、コロラトゥーラ・ソプラノならどうと言うことはないけれど、テバルディには無理じゃ・・・。という装飾がベタベタついていて、"delizia al cor!"で一旦締めます。この辺の装飾の歌も・・・なんだかなぁ。です。テキトー。最後は1点ヘに下げて良いんですが、彼女はオクターブ上げて2点ヘを歌っています。装飾が今ひとつなので、他のところで補おうとした?でも、下がってしまうとやはり盛り下がるので、これはこれでいいのではないかと。

"Follie, follie"に移ります。最初のシェーナがしみじみと「真実の愛」について考えにふけっているのに対し、ここから「ばっからしいわ!」と気分が一転するのですね。そうしないと、自分には生きていくのは無理だと彼女は思っている。(どちらにしろ・・・当時、結核にかかった人が助かるのは非常に難しかったのですが・・・)それで、シェーナで深刻になった自分を敢えて笑い飛ばすのですね。この辺の音楽は同じ音高が続く、例の機関銃がほとんどです。強弱や表現上の指示は全くありません。問題は"Gioire"に入ってから。"ne' vooooooooooooooooooooooortici"でもの凄い装飾が付き、"gioir","gioir"も厄介。その後は本来は"gioir"とい歌いながらまた派手な装飾を付けることになっているのですが、大抵の歌手は"ah"で歌うのが普通です。装飾の歌い方は、まぁ、リリコ・スピントの歌手にしては上出来かも知れません。そして、彼女の場合、年月が経つうちにどんどん加速していくのですが、"che far deggio?"で調を変えて、低くするのです。原曲はへ長調ですが、ホ長調に持ってきているようです。そうすると、半音階下がります。原曲の調のままだと、3点ニ♭を出さなければいけないので、これを回避したのですね。豪快な笑いは・・・ローザ・ポンセルもやっていますから、テバルディが始めたわけではありません。

"Sempre libera"は今度は原曲は変イ長調ですが、ト長調に移調しているようです。やはり、半音下げている。こちらは、原曲の調で歌うと最高3点二音を歌わなければなりません。(ちゃんと装飾を歌った場合、の話ですが。)ので、ここも最高でハイCを歌えば済むようにしたのですね。"dee volar"の"dee"についているアクセントなどはしっかり強勢が置かれているのですが、トリルはことごとく、歌えていません。いつものことですけどね・・・。装飾のベタベタついた部分は、やはり、少々、よちよち階段を昇っているという感が否めません。しかも、完璧に正確とは言いがたいです・・・。トリルは無視。ともかく、ここでは開き直って(テバルディ自身が?ヴィオレッタが?)「楽しむのよ!!!」という調子が出ていますから、それも重要です。とはいえ、いくら大ファンの私でも、ここは・・・残念ながら絶賛はできません。


次回は第二幕に移ります。ここまでも、彼女にしては大健闘だったと思いますが、実は、ここからが聞き所なのです。