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Voce d' Angelo レナータ・テバルディに捧ぐ

レナータ・テバルディの専門ブログです。情報、動画、鑑賞録など。

略伝(5) 戦火の中のデビュー

テバルディ 略伝

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折角理想的な師匠と巡り会い、自分の歌声についても絶賛されたレナータでしたが、1943年になると第二次世界大戦の戦火が激化し、ロッシーニ音楽院は一時閉鎖を余儀なくされました。レナータと母達はペーザロ近郊のカルトチェートに逃れました。(左地図)きちんとした設備があったわけではなく、同じように戦火から逃れてきた人々を収容する場所とされた映画館の中に衝立を立てて、最低限のプライバシーを確保する有様です。こんな状況下でもレナータはレッスンを続けました。また、彼女のために、非公式ながら、最初のコンサートも開かれました。灯火管制下の冷え冷えとした逃避所の中でのコンサートでしたが、これはやがてウルビーノでの、ザンドナイ自らが指揮してのコンサートに発展しました。カルトチェートにいる間に、早くもミラノ・スカラ座からオーディションの打診があり、レナータは『イル・トロヴァトーレ』から"Tacea la notte placida"を歌いました。契約了承の返事はありましたが、スカラ座そのものが爆撃で破壊されている状況下で、デビューどころではなく、この「合格」は現実化しませんでした。

戦火がどんどん激しさを増すにつれ、母ジュゼッピーナはランギラーノの一族と離れていることに不安を感じ始めました。どうにかランギラーノに戻ってみると、彼らの住居は、焼け出された人々への避難所として開放されており、到底元のように住める状況にはありませんでした。ジュゼッピーナの姉妹のマリアンナは見かねて、トラヴェルセートロにある彼女の家に二人を引き取りました。(右下地図)レナータは幼なじみのペドレッティ家の人々と再会し、同い年のアントーニオと恋仲になりました。彼は医師になる勉強をしていましたが、パルチザンとしても活動していました。お互いの無事を案じ合いながらの恋愛だったとのことです。

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こうなると、歌手になるという夢は遠のいていくようでしたが、師のカルメン・メリスはレナータほどの歌い手を埋もれさせておくつもりは毛頭ありませんでした。メリスはどうにか、ロヴィーゴで開かれる『メフィストーフェレ』の上演にレナータを出演させる交渉をまとめました。ソプラノ歌手、レナータ・テバルディはこうして、1944年5月23日、ロヴィーゴでデビューすることとなったのです。

しかし、トラヴェルセートロからロヴィーゴへの70マイルの旅は困難と危険を極めました。パルマの駅舎は銃撃で穴だらけ、マントゥアの駅は炎上していました。母と娘は駅ではなく、荷馬車で列車に追いつき、途中の平原で乗車したのでした。どうにかロヴィーゴに到着すると、今度はテバルディは初の舞台恐怖症を味わいました。初めて大勢の人の凝視する前で歌うのですから当然です。逃げ出したい気分のところ、舞台の袖から師匠のメリスが恐ろしい目つきで彼女をにらんでいたので、逃げようにも逃げられず、テバルディはどうにかこうにか、エレーナにと定められた玉座から初めてその歌声を披露し、早速聴衆の喝采を博しました。批評も好評で、「むしろ彼女はマルゲリータを歌うべきだった」とすら書いていました。

問題はまた、移動中に起きました。帰途につくと、今度は乗った列車が攻撃に遭いました。辛くも命を取り留めたテバルディ母娘でしたが、その後はトラックで進まなければならなくなりました。そうかと思うと、そのトラックは検問所で接収されてしまい、二人は何時間も路傍に立ち尽くすしかなくなりました。ヒッチハイクには禁令が出ていましたが、親切な通りがかりのドライバーが二人を乗せて、トラヴェルセートロまで送ってくれました。ジュゼッピーナは戦争が終わるまで二度とトラヴェルセートロから出ない、と決めました。

1945年の1月には、テバルディは後の彼女の十八番ともなる、プッチーニの『ラ・ボエーム』のミミを初めて歌いました。会場はパルマのテアトロ・ドゥカーレでしたが、マルチェッロを歌うはずだったバリトンアルマンド・ボルジョーリは途中で空襲に遭い、死亡していました。代わりに歌ったのは同じ車で移動していたアントニオ・サルセードでしたが、彼も負傷したまま歌ったそうです。

同じパルマのテアトロ・レージョで、テバルディは、2月にまたミミを歌い、4月にはマスカーニの『友人フリッツ』のスゼルを歌いました。その4月の公演の際、パルマは空襲を受けました。劇場にも爆弾が投下され、テバルディと相手役のルイジ・インファンティーノがデュエットを歌う間、聴衆は「続けて!なんともないさ!僕たちが見ている!」とハッパをかけたそうです。(それで爆撃が防げるかというと、そうでも無いと思うのですが・・・。)

キャリアが必ずしも平坦でなかったのは戦火のためだけではありませんでした。舞台裏ではよくあることですが、1945年の12月、トリエステで、これも彼女の十八番となる『オテッロ』のデスデーモナを歌うことになっていたところ、舞台監督は自分のひいきの歌手に歌わせようとしました。オテッロ役のフランチェスコ・メルリとイアーゴ役のフランコ・ビアシーニの猛反対に遭って、舞台監督はテバルディを起用せざるを得ず、こうして彼女はデスデーモナとしてのデビューを飾ることができました。

1946年の1月にはテアトロ・レージョで、後に良き職業上のパートナーとなるマリオ・デル・モナコのアンドレア・シェニエの恋人役、マッダレーナを歌いました。この時も邪魔が入りそうになったのですが、指揮者のアルジェオ・クワドリがテバルディでなければ指揮をしないと言い張ったのです。テバルディは1945年の4月にすでに同じ役でデビューして好評を博していましたが、今回は、土壇場で起用が決まったため、簡単なピアノ・リハーサルをしてもらうゆとりしかありませんでした。

この間、テバルディはパルマの音楽愛好家パガーニ家に面倒を見てもらっていましたが、キャリアが順調に発展して行くにつれ、ミラノに居を構える必要を感じ始めました。母ジュゼッピーナを伴い、テバルディはミラノに間借りしました。富裕な家の出の女性の大家は感じの悪い人だったそうですが、ともかくも母子はミラノに落ち着きました。