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Voce d' Angelo レナータ・テバルディに捧ぐ

レナータ・テバルディの専門ブログです。情報、動画、鑑賞録など。

略伝(8) メトロポリタンへ

テバルディ 略伝

下らない場外乱闘であったことはともかくとしても、カラスとの確執は事実上、当時はテバルディのキャリアに大きく影響してしまいました。スカラ座は二人のプリマと契約していたため、二人を競わせるような形になっていったのです。

これだけは否定できないと思われますが、カラスの崇拝のされ方にはカルト信仰に似たものがあります。このブログでは、同じような態度をテバルディに対して取ることをを極力避けるよう、私は心がけています。それは、その歌手の歌唱を真に愛していることにはならないからです。テバルディに欠点があったことは確かです。それは認めた上で彼女の優れた部分を評価すべきだと考えます。彼女は最高音域が苦手で、初期はハイCにも苦労しなかったようですが、徐々に音程が上がりきらなくなることがありました。彼女はむしろ、ソプラノとしては中低音域が充実していたのです。それから、コロラトゥーラのような装飾音の処理が苦手でした。また、幼少期にポリオのため5年間動けなかったことが多分に影響していたと思われますが、決して器用な演技者とは言えませんでした。舞台での動作はむしろぎこちなく、残っている映像の数々を見た限りでは、どちらかというと歌う姿勢を整えることの方を優先していたように見えます。こうした点ではカラスの方が圧倒的に長けていました。

それでも、彼女の美声と、安定した、息の長い歌唱、そして、過小評価されがちですが、実は細やかだった表現の陰影の付け方などには類い希なものがあり、こうした長所が欠点をカバーした故もあって、現役時代、彼女とカラスの人気は拮抗していたのではないでしょうか。その上、私の聞いた限りでは、テバルディという人はむしろライヴで実力を発揮する人で、有名なスタジオ録音の数々では、美声のディテールは楽しめても、彼女が表現を抑制したため、面白みに欠けるきらいがあるのです。実演が聞けた現役当時と現在で人気に違いが出ているのにはこうした要因が影響していると思います。録音状態が劣悪でも、テバルディについては、ライヴ音源を聞かなければ真価がわからないのです。

とにかく、当時は、テバルディは人気プリマであり、徐々に多忙を極めていきました。1950年代前半は、南米とイタリア各地を行き来しつつ、スカラ座に出演するという忙しさで、なおかつ、カラスと競い合わなければなりませんでした。(写真:南米で共演したベニアミーノ・ジーリと)

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レパートリーの拡張も強いられました。「伝記」にはテバルディが「怠惰 lazy」だった、とはっきり書かれているくらいですから、実は彼女は珍しいレパートリーに挑戦することには消極的だったのです。しかし、劇場側にそれを強いられました。1952年にはナポリサン・カルロ劇場で『コリントの包囲』に出演。ローマ歌劇場では『フィガロの結婚』で伯爵夫人を歌い、フィレンツェのテアトロ・コムナーレでは『グリエルモ・テル』のマティルデを、モトナーヴェでヘンデルの『ジューリオ・チェーザレ』のクレオパトラを歌っています。1953年にはレフィーチェの『チェチーリア』をサン・カルロで歌っています。そして、12月にはスカラ座で、歴史的な『ラ・ヴァッリー』の上演が行われました。1954年の5月にはスカラ座チャイコフスキーの『エフゲニー・オネーギン』のタチアーナを歌いました。(イタリア語上演)クラウディア・ムツィオがイタリア初演で歌った役であり、意義深くはあったと思いますが、テバルディが積極的に取り組んだのかどうかは定かではありません。12月にはサン・カルロ劇場ワーグナーの『ローエングリン』に出演し、エルザを歌っています(イタリア語上演)。これまでに触れませんでしたが、テバルディはすでに『ニュルンベルグマイスタージンガー』のエヴァや、『タンホイザー』のエリーザベト(カール・ベーム指揮)を歌っていました。残念ながら、テバルディはドイツ語での歌唱を拒否しました。「歌唱スタイルが崩れる」というのが理由でしたが、それだけではなかったと想像できます。完璧にドイツ語で歌いこなす自信がなかったのでしょう。実際、なまりだらけのドイツ語で歌うくらいなら、イタリア語歌唱にとどめておいたのは、良心的なことでした。

その他は彼女の定番のレパートリー、トスカ、デスデーモナ、ヴィオレッタ、アドリアーナ・ルクヴルール、『運命の力』のレオノーラ,『ファルスタッフ』のアリス・フォードなどを歌っていました。

この頃はカラスも全盛期であり、スカラ座で『メデア』や『ヴェスタの巫女』、『ランメルモールのルチア』、『アルチェステ』などに意欲的に取り組んでおり、テバルディの『ラ・ヴァッリー』なども折角の大成功だったのに、カラスの『メデア』に話題をさらわれる始末でした。このような状況下で、テバルディは次第にスカラ座に出演するのが苦痛になっていったようです。

この以前、サンフランシスコ・オペラに客演した際、ニューヨークのメトロポリタン歌劇場の総支配人、ルドルフ・ビングから出演の打診がありました。その時はテバルディは乗り気ではなかったのですが、それからも度々ビングからの勧誘を受けていました。もう断る理由もないと考えたのでしょう、テバルディはメトロポリタン歌劇場との契約に踏み切りました。そして、1955年1月、メトロポリタン歌劇場に『オテッロ』のデスデーモナを歌ってデビュー。以後は拠点をニューヨークに移すことになりました。