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Voce d' Angelo レナータ・テバルディに捧ぐ

レナータ・テバルディの専門ブログです。情報、動画、鑑賞録など。

略伝(9) 母の死

テバルディ 略伝

メトロポリタンでのテバルディのキャリアは順調に進みました。イタリア・オペラのプリマとしてはジンカ・ミラノフがいましたが、彼女はテバルディより16歳も年長で、盛りを過ぎていましたし、テバルディのような音色と声量の持ち主ではなかったので、テバルディは瞬く間にメトロポリタンの事実上のプリマになりました。ですが、メトロポリタンでは原語上演が基本だったので、イタリア語でしか歌唱しないテバルディは、ワーグナーのレパートリーなどを歌うことはできなくなりました。

メトロポリタンと契約したからといって、ほかの歌劇場への出演を全くやめたわけでもなく、1955年の5月にはスカラ座に出演しているし、その後もフィレンツェシュトゥットガルト、コヴェント・ガーデン、ローマなどで歌いました。アメリカに戻ると、サンフランシスコやシカゴで歌い、またメトロポリタンで歌う、という忙しさでした。アメリカではテレビ出演もあり、こうした際に録画された映像が今でも鑑賞できます。

翌年からはスカラ座への出演はしばらく途絶えました。それでも、イタリアのその他の歌劇場や、今度はアメリカ各地の劇場への出演機会が増え、多忙な日々は続きました。渡米してから、彼女のレパートリーにはプッチーニの『マノン・レスコー』のマノン、ヴェルディの『シモン・ボッカネグラ』のアメーリア(マリア)が加わりました。オペラにばかり出演していたわけではありません。他の出演者と共演のアリア・リサイタルもあれば、歌曲のコンサートにも出演しました。

1957年には、以前からメイドとして仕えたい、と申し出ていたエルネスティーナ・ヴィガノ(以降、ティーナと記載します。)の奉仕を受けるようになりました。テバルディの母はこうした世界各地への娘の出演に必ず付き添っていました(「近衛兵」と呼ばれていたそうです。)が、だんだん疲れが目立ってきたからです。

同年のメトが組んだアメリカツアーでは、ボルティモアのホテルの空調が効きすぎ、テバルディは風邪気味になりました。その反省から、ヒューストンでは、テバルディの母は、ホテルの空調の送風口をすべて綿で塞ぎました。メトのツアーの次にはキューバのハヴァナでの公演が待っていましたが、今度は呵責ない暑さと湿度に悩まされました。メイクは幕ごとにし直さなければ落ちてしまうし、今度は空調をきかせたままでも、化粧台に置いておいたものはみな、薬まで溶けてしまったのだそうです。

8月には1950年以来の出演になる、アレーナ・ディ・ヴェローナの公演がありました。テバルディによると、オーケストラ・ピットと歌手との間に距離があるため、演奏と歌を合わせるのに指揮者は特に気を配らなければならないし、声は実際遠くまで響くのだけれど、のどを温めているところに夕べの湿度が入ってくるので歌手は注意しなければならないのだそうです。

11月18日はテバルディの母ジュゼッピーナの68度目の誕生日でした。ごく親しい友人達とだけこぢんまりと祝った誕生会の翌日から、母は体調の不良を訴え始めました。レナータの友人のクラウディオ・ジェルビの診断によると、冠状動脈血栓、とのことでした。滞在中のバッキンガム・ホテルの部屋は広かったので、酸素吸入器が特別にしつらえられました。

テバルディは11月21日の『トスカ』と24日の慈善コンサートをキャンセルし、母の様子を見て11月30日の『アイーダ』の出演は可能かと思いました。しかし、29日の夕方から母の容態は急変し、30日の午前5時、彼女は息を引き取りました。メトロポリタンではテバルディの出演見送りの旨と、彼女の母の死がアナウンスされました。(写真:舞台はねた後のテバルディと母ジュゼッピーナ)

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12月3日、聖パトリック教会でジュゼッピーナのためのミサが行われ、その後、ひつぎは貨物用の航空機に載せてイタリアへ運ばれることになりました。レナータとティーナらは旅客機で追うことになりました。ブリザードのため、出発は2日見送られた上、ひつぎはシャノン空港で別の貨物機に乗り継ぎとなりました。レナータ達は先にミラノに着いてしまいましたが、貨物機は濃霧のためトリノに行き先を変更していました。そこからやっと遺体はミラノに運ばれ、やがて、故郷のランギラーノへ移送されました。ランギラーノ中の人々、ミラノからの友人たちなどが葬儀に参列したとのことです。

翌日、レナータはティーナ、おばのマリアンナとともに、当時のミラノの住居に帰りました(昔の無愛想な大家の狭い借家から、すでに豪華なマンションに移っていました)。父親不在で育ったテバルディにとって、母親は非常に大切な存在で、自分の成功、失敗の喜び、悲しみも全て分かち合ってきた間柄でしたから、母の不在が痛いほど感じられ、立ち直れないのではないかと思うほど打ちのめされました。