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Voce d' Angelo レナータ・テバルディに捧ぐ

レナータ・テバルディの専門ブログです。情報、動画、鑑賞録など。

略伝(11) 不倫の恋、不幸な結末

テバルディ 略伝

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バジーレには妻子がいました。(写真:アルトゥーロ・バジーレ)ですが、演奏家にありがちなことながら、演奏会で居宅を離れることの多かったこと、バジーレ自身が女癖の悪い男だったことも手伝って、彼の結婚生活は破綻していました。女性を口説くのは彼には朝飯前で、テバルディは母を失った大きな喪失感もあって、彼の甘い言葉にまんまとはまってしまったのでしょう。

この不倫の恋は妙な効果をもたらしました。テバルディは以前から、もう、母の死後別の女性と再婚していた父から和解を求める手紙を何通も受け取っていましたが、母の味わった苦しみ故に父を許すことができませんでした。しかし、自分が不倫の恋に落ちてみると、結婚の絆ではどうにもならない恋愛感情もこの世にはあるのだということを悟りました。鼻からの出血や不整脈で体調を壊し始めたテオバルドは焦っていました。レナータはやっと父と和解し、一緒に食事をしたり、散歩をしたりしました。

1960年は1月のスカラ座の公演をこなした後、2月のメトの公演はキャンセルしました。さすがに疲れが出始めたのです。復帰したのは3月4日の『運命の力』の公演でしたが、これはまさに「運命」の公演になりました。ドン・カルロ役で歌っていたレナード・ウォーレンが、まさに歌っている途中でばったりと倒れたのです。指揮者のシッパーズは指揮をやめ、緞帳が下ろされました。皆、はじめは単に具合が悪くなったのだろうと考えたのですが、メトの医師が確認したところ、彼は脳内出血ですでに息絶えていました。48歳の若さでした。公演は中止されました。同月のほかの『運命の力』では、マリオ・セレーニが起用されました。

5~6月には欧州を廻りました。ローマ、ボローニャミュンヘンハンブルグヴィースバーデンシュトゥットガルト、パリ、ウィーン。6月25日、バジーレと妻エリザベッタ・サンジェルマーノの離婚が提訴されました。すでにテバルディとバジーレの関係は噂になっており、今度は結婚が実現するのではないかとささやかれました。バジーレのマスメディアへの回答は、「私と彼女の間には何もない!」でした。実際は、テバルディは完全にバジーレにのめり込んでいました。

8月、リミニではバジーレの指揮でリサイタル、しばらく空いて10月にはRAIの放送用に『ラ・ヴァッリー』を歌いました。これも指揮はバジーレでした。

11月にはアメリカに戻り、1961年2月にローマでリサイタルに出演したほかは主にアメリカで歌っていました。3月16日には、イタリアの統一100周年記念のコンサートで、当時のアメリカ大統領ジョン F. ケネディと夫人ジャクリーンの前で、フランココレッリと共に歌を披露しました。

4月からはまた各地を公演して廻る日々でした。ジェノヴァ、ローマ、ベルリン、バーデン・バーデン、シュトゥットガルトパルマルッカ、ローマ。指揮はフランコ・カプアーナ、フランコ・パタネエ、そして、バジーレが担当することが多くなりました。

そして、日本人にはなじみ深い、日本公演。9月から10月にかけて『アンドレア・シェニエ』と『トスカ』、リサイタルで東京と大阪を訪れました。

11月からはバジーレがテバルディを独占する形になりました。コペンハーゲンでの『ラ・ボエーム』のあとはマニラと香港に飛び、コンサート。12月にはナポリに帰って、年が明けてからは故郷のパルマ、ランギラーノで公演しました。パルマでは、この明らかなバジーレによるテバルディの独占に対し皮肉な野次の口笛が待っていました。バジーレはテバルディとの恋愛中もほかの女性とのつきあいをやめませんでした。このときも女性ダンサーの元に走り、テバルディは悲嘆に暮れたそうです。

4月からはローマ、トリノローザンヌ、ベルン、ルガーノフィレンツェと、イタリア、スイス各地で歌いましたが、このときはバジーレは指揮していません。6月30日のフィレンツェでの『ラ・ボエーム』では、テバルディは公演途中に体調を崩し、二幕以降は代役が歌いました。調子の悪いときははじめから出演を断る主義だったテバルディにとって、幕の途中で降りるというような事態は初めてでした。明らかに、女癖の悪いバジーレに振り回され、心身共に安定を欠き始めていたのだと想像できます。

今も映像が残されているベルリンでの8月30日の『オテッロ』のあと、またバジーレの指揮でビルバオ、オヴィエド、アムステルダムナポリと各地を廻りました。が、もはやテバルディはこの不倫に耐えられなくなっていました。バジーレは彼女の気持ちに100%答えられるような男性ではありませんでしたが、テバルディは彼を独占したがりました。解決できない矛盾に陥ってしまったのです。

1963年、長年ビングと交渉していた『アドリアーナ・ルクヴルール』のメトでの上演にやっとこぎ着けました。すでにもう何度も各地でアドリアーナを歌ってきましたが、メトでは初演時にカルーゾー(エンリーコ)がブーイングされる結果となり、それ以来上演禁止が暗黙の了解でした。偉大なプリマの一人、ローザ・ポンセルでさえ、アドリアーナを歌いたがり、最後は辞めるか、歌うか、二つに一つという状況になりました。結局負けたのはポンセルでした。だから、テバルディの主張が通ったのは画期的と言えば言えたのです。ですが、実際、私のような多少ピアノとヴァイオリンをいじったくらいのド素人でも、このオペラは、評論家先生方のおっしゃるとおり、駄作だと思います。同じメロディが使い回されすぎていると明らかにわかるのですから。ですが、テバルディはメトでも歌いたかったようです。

丁度悪いタイミングで、バジーレがほかの女性に振られそうになったからといって、「私はテバルディと結婚する」と宣言しました。勿論本気であるはずがなく、その女性の気を引きたかっただけなのです。口実に使われて激怒したテバルディは絶交を言い渡しました。ですが、長い間振り回された彼女の受けた傷は思いの外大きかったようで、折角の『アドリアーナ・・・』は本来の力を発揮できず、明らかに不調をおして歌ったのがわかります。テバルディは4度の公演だけで降板し、後の公演はリチア・アルバネーゼが歌いました。テバルディは一年間の休業を宣言しました。限界が来てしまいました。