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Voce d' Angelo レナータ・テバルディに捧ぐ

レナータ・テバルディの専門ブログです。情報、動画、鑑賞録など。

略伝(13) 引退

テバルディ 略伝

もはや『ジョコンダ』を歌わなくなった後は、『マノン・レスコー』や『アドリアーナ・・・』で出演し続け、1968年は暮れました。

この間、『アドリアーナ・・・』の公演にマリア・カラスが訪れ、「和解」が大々的に報道されるという一幕もありました。その後も2人のやりとりがあった、という報道もありますが、少なくともこの「伝記」では、連絡は途絶えてしまったとされています。

1969年、未だに『トスカ』を歌っていましたが、『アドリアーナ・・・』や『ラ・ボエーム』の回数の方が圧倒的に多くなりました。さらに、7月から9月までは全く歌いませんでした。もう、長い休養が必要だったのです。

1970年は、『トスカ』(一体どのようなトスカが歌えたというのでしょう?)、『ラ・ボエーム』ではじまり、2月に最後のレパートリーに挑戦することになりました。『西部の娘』です。よりによって、何度も最高音を張り上げなければならない演目を選ぶとは、正気の沙汰とは思えないのですが、彼女という人はこうした、時には理解不能なこともしています。「伝記」には全く書かれていませんが、"La Fanciulla del West"ではなく、"La Nonna del West"(『西部のおばあちゃん』)と酷評されたのが事実だったようです。(写真:『西部の娘』で演じるテバルディ)

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6月にはデッカでのオペラ全曲録音の最後となった『仮面舞踏会』の録音がなされたましたが、基本的に5月から9月までは公演はありませんでした。10月からは『アンドレア・シェニエ』で歌っていますが、もう満足なマッダレーナが歌えていたとは思えません。

1971年には1月にフィラデルフィアで『オテッロ』を歌っただけだといっていい、という状態でした。1972年には2月から4月まではメトで『ファルスタッフ』に出演し、その後11月からフランココレッリとのジョイント・コンサートをスタートさせました。

ここから先は、Schuyler Chapinによって書かれた1995年出版の"Sopranos, Mezzos, Tenors, Bassos and Other Friends" (Crown Publishers)から引用したいと思います。

「ある特に痛ましいデスデーモナ(ブログ主:こんな状態だったなんて!)の後、私は彼女に電話して、ホテルに訪ねても良いかと聞いた。彼女は自分が私のオフィスに行った方が良いでしょう、と言い、私たちは日取りを決めた。」

「約束の時間に彼女は現れた。エレガントな、地味なスーツに丈の長い、暗い色のミンクのコートをまとって。それは寒いが日差しの強い、明るい冬の日だった。そして私は覚えている。ドアをすり抜けてくるとき、彼女は何と驚くほど魅力的だろうと思ったことを。そして私は彼女の方に挨拶に行った。」

「私たちは居心地の良い椅子に腰を下ろし、私は彼女のエキサイティングなキャリアを通して、それは沢山の人々に、大変な喜びを与えてきたということを語り始めた。彼女は私を見つめ、軽くうなずいて私の言葉に同意したあと、明らかに将来の予定について語り合うことを待ち望んでいる様子だった。私は、そこで、現在のレパートリーに代えて、相応するような、メゾ・ソプラノとしての何か適切な役をお考えになったことは、と尋ねた。」

「「メゾ・ソプラノ」、という言葉に、彼女の背中は硬直し、顔は凍り付いたように見えた。彼女は一言も発せず、ただ私を深い敵意を持って見つめ、それ以上何も騒ぎ立てることなく席を立つと、威厳たっぷりに毛皮のコートでしっかりと身を包み、部屋を出て行った。」

その後、彼らは顔を合わせたらしいのですが、テバルディは彼の挨拶に答えなかったそうです。これほどまでに、彼女のプリマ・ドンナとしての誇りはいつの間にか彼女の中にしっかりと根を下ろし、客観的に自分の歌がどんな状態か判断することすらできなくなっていたのです。これは、とても悲しいことです。

1973年1月8日のメトでの『オテッロ』の舞台が、テバルディの最後の舞台となりました。かつて聴衆の胸を熱くさせた声はもうなかっただろうと想像します。

その後は世界中のゆかりの場所、そうでなかった場所を廻る、フェアウェル・ツアーに出ました。11月には東京と大阪に再び訪れ、水戸にも足を伸ばしてくれましたが、私はそのとき収録されたビデオ映像をほんの少し見ただけで後は一切見ていません。あの映像の中で披露されている歌唱は、私の愛するレナータ・テバルディのものではないからです。

ありがちなことですが、この「フェアウェル」は別れの挨拶としてはかなり長びきました。1976年5月23日、つまり、デビューから丁度32年後に、彼女はミラノ・スカラ座でのコンサートを最後に、ステージを降りました。