読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

Voce d' Angelo レナータ・テバルディに捧ぐ

レナータ・テバルディの専門ブログです。情報、動画、鑑賞録など。

テバルディの歌声・歌唱の特色とは(1)

テバルディ 歌声と歌唱の特徴

今回のブログを年代順から粛々と始めないことについては、少し考えがあったからです。以前私が書いていたブログにご訪問下さった方に、また全く同じ記事からご紹介するのも・・・芸がない、と思いました。(どちらにせよ、以前の記事は相当書き改めるつもりではおりますが・・・)

前回のブログを閉める直前に、実はある歌手とテバルディの音源を交互につなげる、という実験をやっていました。それをやってみて、改めて気づいたのです。序文に書いたとおり、テバルディという歌手の声には、分析不可能な「華」があり、それは一般的に美声とされているソプラノでも凌駕し得ない域のものであることに。

それで、今回はブログのスタートからそれを実感していただきたい、と思い、有名歌手達の音源とテバルディの音源をつなげた動画を5つ作成しました。全て曲目はヴェルディアイーダ』からの"Ritorna vincitor!"です。

テバルディの音源はデッカへの初録音のアリア集からのものを採用しました。彼女のスタジオ録音の記念すべき第一声ですので。因みに、特色ある声を味わっていただくだけではなく、新人中の新人歌手の最初の録音がどれほどの表現域に達していたか、という面からも、他の歌手と比較いたします。

個々の歌唱の検討は動画のご紹介の後にいたしますが、まず、このアリアで特にスコアに指示のある注意点をまず、ご指摘しておきます。(私の使用スコアはDOVER1989年版)

・入りには別に、フォルティッシモで叩きつけろ、という指示は、全くありません。
・最初の注目点は"trionfar nel plauso"の"plauso"がフォルテという指示。
・"L'insana parola o Numi sperdete"はピアニッシモで入り、"Numi"を頂点にクレッシェンド、デクレッシェンドの指示。
・2度の"Struggete!"はフォルテ。
・"Ah!"はフォルティッシモ、"questo fervido amore"からクレッシェンドし、"come raggio di sol"でデクレッシェンド。
・"la morte a Radames, a lui ch' amo pur"は"mes"を頂点にクレッシェンド、デクレッシェンド。
・"Ah! non fu terra mai"の入りはフォルテ。
・"I sacri nomi"からは"triste e dolce(悲しげに、優しく)"の指示。
・"né profferir poss’ io, né ricordar"では"né profferir"の1音節ごとにアクセント。次の"né"にもアクセント。
・"io pianger vorrei, vorrei pregar."では"io pian ge"の各音節に強アクセント、"re"に通常のアクセント。
・2度目の"vor"にアクセント。
・"Ma la mia prece"から"con più forza(より力強く)"の指示。
・"Numi, pietà del mio soffrir!"からは"con espressione(情感を込めて)"の指示。
・2度目の同じ歌詞では"poco stringendo(次第に速めて)"の指示。
・その終わりから次へ続いていく、"soffrir, ah! pietà"では"ah!"を頂点にクレッシェンド、デクレッシェンド。
・最後の"Numi, pietà, del mio soffrir."はピアニッシモ

(実は、オリジナルの楽譜では最初が"Numi"ではなく、"pietà"を二回繰り返すことになっていますが、ここでそのように歌っているのはポンセルだけです。)これが全部ではないです。細かい指示はもっとあるのですが、特に注目すべき点だけ挙げました。

テバルディのここでの歌唱に問題が全くないわけではありませんが、私の気づいた限りでは、"spezzami il cor"で、アクセント記号がないのに、「コ・-・-・ル」と明らかにアクセントをつけてしまっている部分と、滑舌の良い彼女にしては珍しく"morir"や最後の"sofrir"で"r"が流れてしまっている、それだけかな、と。(なお、”sventurata”の最初の”s”は辞書などだと「ズ」と濁る、ということになっていますが、実際のイタリア人の発音は地域によってまちまち、のようです。この語の語頭の”s”の発音については、私はどの歌手についても、問題にしない方針です。)

では、動画のご紹介と私のご託を。多分、全部一度にご鑑賞になると頭がクラクラなさると思いましたので、三回シリーズに分けましたが、それでも一度に無理にご覧なろうとはなさいませんよう。(ちなみに、比較動画のたぐいは私のテバルディ専門チャンネルでは公開いたしません。原則、こちらでご覧戴くようになっておりますので、ご注意下さい。)

1. テバルディ/ローザ・ポンセ

ローザ・ポンセルはトゥリオ・セラフィンがたった三人だけしか認めなかった大歌手のうちの一人です。(他の二人はカルーゾーとティッタ・ルッフォ。)ですが・・・。セラフィンが彼女をそのように認めたのは、彼女が豊かな声質とアジリタの技術を併せ持っていたからでしょう。少なくとも、このコロンビアに録音した彼女の1923年の録音とテバルディの歌唱を比べる限り、声の美しさという点だけではなく、表現という点でも、この曲ではテバルディが勝っている、と私は思いました。セラフィンという「権威」筋の方が何とおっしゃろうと、それは私の判断には影響しません。それはあらゆる「権威筋」に対して私が取ろうとしている立場です。

古いSP録音というハンデは非常に大きい。(音量レベルはしかるべく上げたつもりです)貧しい録音状態が、彼女の歌から細かいニュアンスを聞き取りにくくしていることは紛れもない事実でしょう。しかし、最低限、伝わってくるところから判断した場合、私個人はどう思ったか。テバルディの歌と比較しつつ、お伝えしたい、と。

入りは二人とも立派だと思います。第一の問題は、"di lui che impugna l’armi per me, per ridonarmi una patria, una reggia, il nome illustre che qui celar m’è forza."テバルディは"di"を強く歌う傾向がありました。いつもいつもそうではないのですが、歌にメリハリをつけるための格好の受け皿のように使っているのに時々気づきます。ここでも"di"に相当力が入っていて、歌に妙味を与えています。ポンセルの方は普通の歌だと思います。問題はその後の2フレーズ。"una patria, una reggia"でテバルディはほとんど勢い込んでいるくらいの調子を与えていますが(非常に微妙です・・・)ポンセルは特にそうはしていません。そしてポンセルの最後の"qui celar m’è forza." "forza"に妙なひねりが入っています。「強制的に身分を隠している身」だということの口惜しさを出したかったのでしょうが、私には少々やり過ぎに聞こえます。違和感を感じるのです。

次の一節のテバルディ・・・これが新人の歌???"Vincitor miei fratelli..."のくだりで自分の近親者や知り合いの返り血に染まったラダメスを思い描いているあたりは、まるで怪談でも語っているかのようなおどろおどろしさが微妙に声に含まれていて、その勝ち誇っている「彼」については"plauso"で強力な声を張って、それまでと対比を付けています。(フォルテの指示がありますしね。)最後のフレーズでは、キー・ワード、"carro" "Re" "padre" "catene" "avvinto"をくっきり発声しつつ、最後で強烈に盛り上げています。自分がラダメスの勝利を祈るということが何を意味するのか、彼女の心の中で十分反芻され、(目の前に実際に味方の惨めな有様を目にしているかのようです)そのショックをありありと感じ取っているのが、この歌から伝わってくるのです。

ポンセルの同じ一節。"plauso"や"avvinto"で猛烈な声が出ているのは、貧しい録音でも十分伝わってきます。しかし、古いSPの収録時間の制約もあったのか、特に最後のフレーズの歌いぶりは切り口上で、急いでやっつけている感があります。前半の"Vincitor de' miei fratelli..."でテバルディの歌に聞けるような微妙なニュアンス付けは、聞き取れないですね。

次の一節。テバルディの強弱の付け方はスコアの指示通りですが、まず、"Insana palora"に微妙なうろたえのトーンが入っています。声量を落とすだけではなくて、「なんてことを言ってしまったのかしら」というろたえを出しているのですね。更に"Struggete"の2連発のパンチの効き方が並じゃありません。吹き飛ばされそうな勢いです!そして、改めて自分自身の心境に思いをいたした後の彼女。スコアの指示通り(というか、それ以上)強烈な"Ah!"のあと、スッと力が抜け、"sventurata, che dissi?"これだけのコントラストをつけられるので、この曲が非常にドラマに富んだものになるのですし、我に返った彼女の打ちのめされた思いに、聞き手が想いを致すことができるのです。

ポンセルの方は、"Struggete, struggete"のパンチ力がテバルディほどありません。それと、彼女に限ったことではないのですが、テバルディは"ジェーテ"と、前倒しにパンチを入れているのと違い、"ジエーーテ"と"e"のほうに微妙に強勢がついているので、引きずれて聞こえるのです。テバルディのパンチがスカっと聞こえるのと、これでは違ってくるのです。彼女の"Ah!"も強烈で、その点は立派なのですが、"sventurata che dissi?"が妙に堂々としていて、打ちのめされた、という感じがしません。矛盾した立場に挟まれて祈るしかない可哀想なヒロイン像を出すのには、不十分だと思うのです。

次のテバルディの"E amor mio?"の締めくくり方!本当にクエスチョンマークまで見えてきそうな歌です。「じゃあ、私の愛はどうなるの?」自問ですね。どうしたらこういう風に歌えるのだろう、と感嘆しきりです。彼女は本当に自分に問うています。声の微妙なニュアンスにそれが出ているのです。"fervido amore" "oppressa e schiava"もきっちり歌われていて、彼女の立場がどんなものか強烈にアピールされています。"come raggio di sol"は本当はデクレッシェンドしていく山なのですが、彼女は敢えて、"come"を強くしていません。むしろ、声を裏返すようにして、このフレーズの「陽光の中にいるかのように」というテクストの内容を、これ以上は不可能かと思われるほど美しく歌っています。そこで伝わるのは、アイーダがこの愛に感じている、陶酔です。

"Imprecherò la morte a Radamès, a lui ch’ amo pur tanto!"は打って変わって非常に強い。呪ったことを今は激しく悔いているからです。答えは歌詞の通り。「こんなに愛している彼なのに」、ですから。

ポンセルの"E amor mio?"はごくふつー、という感興しか受けませんでした。その後が問題です。"Dunque scordar poss’ io, questo fervido amore, che oppressa e schiava"を一フレーズ歌うごとに、切り口上にしています。こうすると、歌が連続して聞こえず、ブツブツ切れて、ぶっきらぼうな印象を受けるのですが・・・。

そして、"qui mi beava?" と "Imprecherò"以降の音量の差はさほどありません。幸せムードに浸った後に「その彼を呪うなんて!」と自責の念に駆られているにしては、のんびりしすぎではないかと。"A lui ch’ amo pur tanto!"は素晴らしいと思います。アイーダの愛情がじっくり、雄弁に表現されている歌いぶりです。

次の"Ah! non fu in terra mai, da più crudeli angosce un core affranto!"ですが、テバルディの歌には微妙なひねりがあるのです。"Ah!"は強めに、"non fu in terra mai..."からは"terra" "mai "più"などを、くっきり発声して、「こんなに苦しい立場の人が他にいるの?」とアピール。実は、ここは三連符でくくられていて、テバルディはその頭に強調を置いているのです。スコア通りに歌うと、アイーダの思いが自然に伝わるような仕掛けになっているのですね。"crudeli angosce"は"de"で1点ホ♭→1点ニ♭ですから、相当低音に下がってくるのですが、それだけでなく、この2語にテバルディは暗い音色を加えて、「むごい苦しみ」そのものを感じさせています。"un core affranto"も、"ra"を強調しています。"angosce un core affranto"にクレッシェンドがついているからでしょう。

ポンセルの方は・・・"Ah!"は特に強くありませんね。その後の語の強調もありません。"crudeli angosce"の低音は十分出ていますが、"angosce"の発音に問題が。「アンゴッシェ」であるはずのところを、「アンゴッシエ」と発音。彼女はアメリカ人ですが、イタリア系の移民でしたから、ほとんど発音には問題がないのですが、やはり、イタリアで生まれ育った歌手とは、こういうところで違いが出てしまいます。"un core affranto!"では彼女はむしろ"un"に強勢を置いています。冠詞に強勢を置く必要はない、と思いますが・・・。

さて、ポンセルのSPが"i sacri Nomi..."のくだりを省略しているので、いきなり"Numi, pietà"へ飛びます。"con espressione"なる、やっかいな指示のある部分。ここのテバルディの歌は・・・絶句ものです。これ以上清澄な祈りの境地に入れるのか???あまりにも美しすぎるのです。"Numi, pietà del mio soffrir!"をピアニッシモで歌えという指示はありませんが、全盛期のテバルディのピアニッシモの美しさは筆舌に尽くしがたいものがありました。さらに、その後の"speme non v' ha, del mio dolor."の「スペーーーメーーノンヴァーー」の彼女のしっとりとした潤いを含んだ声!こんな美声がこの世にあり得るとは!"pel mio dolor."には彼女特有の、涙の潤いが混じっています。妙な強調を入れなくても、十分悲しみが伝わってきます。

"Amor fatal, tremendo amor, spezzami il cor, fammi morir!"は前のフレーズとは対照的に、強めて歌っています。なにせ、「いっそ死なせて!」なのですから、これだけ声を張っているのですね。しかも"tremendo"な「愛」なのです。テバルディの"tremendo"には十分感情が入っています。

ポンセルの"Numi, pietà del mio soffrir! Speme non v’ ha pel mio dolor."はほとんどそれだけで感動を誘うテバルディの歌とは別物で、フツーの歌です。彼女の歌で特に強調が著しいのは"Amor fatal, tremendo amor,"の部分。"fatal"を強調、しかも、"tremendo"は長すぎるんじゃないの?というくらい、十分延ばして「恐ろしい愛」をアピール。これはこれで一つの解釈として、頷けます。

ただ、最後の"fammi morir"で、テバルディの歌はやはり涙混じりなのに、ポンセルは無感動。本当に、本当に、テバルディの歌は、緻密な鑑賞を必要とするのです。言い換えれば、彼女がそれだけ、緻密な歌を歌っている、ということです。聞き手はそれを漫然と聞き流してはいけないのです!

最後の節に参ります。テバルディは入りで強く、"Ah, pietà, numi pietà del mio soffrir, Numi, pietà, del mio soffrir."の"Ah"で声を張ります。その後の"numi pietà del mio soffrir,"はスコアの指示通り、少々せき立てられるように歌っています。"poco stringendo"ですので。その後はスロー・ダウンしていきます。"soffrir"の締めはほとんど一人の世界に沈潜していくようです。最後の"Numi, pietà, del mio soffrir."もごく静かに、柔らかく歌って閉められています。もう一つ、この節の彼女の歌の特徴は、沢山ある"i"の音がくっきりと発声されていることです。これができるのと、曖昧なのでは、歌の聞こえ方に違いが出るのです。

ポンセルはポンセルで"Ah, pietà,"の"Ah"をやはり強く張り、"pietà,"に涙混じりのひねりを加えています。その後、ほとんど問題を指摘するような所はないのですが、最後の"soffrir"はいささか堂々と延ばしすぎ、神にすがっているという感じ・・・ではないですね。


次回はテバルディと同時期に活躍していた歌手との比較です。