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Voce d' Angelo レナータ・テバルディに捧ぐ

レナータ・テバルディの専門ブログです。情報、動画、鑑賞録など。

テバルディ デッカ初録音シリーズ(1)

一連の伝記情報の記述の中でも触れたとおり、テバルディのキャリアの中で大きな比重を占めている、スタジオ録音中のエピソードなどは、私が依拠した伝記には全く書かれていません。

なので、どういういきさつで、デッカが自社のイタリア・オペラ部門における看板プリマとしてテバルディを選んだのかは、謎のままです。

テバルディの没後10周年に限定販売された、安っぽさで悪名高い、スタジオ録音の「お粗末」『大全集』にも、当然そういった説明はありません。

私がここにご紹介するエピソードは、FONO ENTERPRISEがテバルディの80歳の年に記念盤として出した、「TEBALDI The first studio recordings」のブックレット内の記述から、(英語ですけど・・・)です。(写真:この盤はデッカのよりずっと親切で、彼女の写真も豊富に載っています。)

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なんでも、テバルディはデッカ・サイドからジュネーヴに呼ばれて、3日間の予定で6曲のアリアを録音する手はずになっていたそうです。それがこれからご紹介する音源なのです。ところが、テバルディは1日で録音を一丁上がりにしてしまいました。そして、残り2日分のホテル代は返却するから帰国すると申し出たのです。デッカ側は、折角だからご滞在下さい、と返答してきたようです。(昔は太っ腹だった?)それで彼女は母とつかの間の休暇を楽しんだそうです。

しかし・・・1日でやっつけたにしては出来が良すぎる録音だというのが私の率直な感想です。経験を重ねた方が歌は練れてくる、と思いがちですし、テバルディ自身も、「年月を経て表現が深まった」と言っていましたけれど、この彼女の認識は、悪いけれど事実と違うと思います。これらの録音からは未熟なところはほとんどと言って良いほど感じられず、むしろ、後年の録音より声が自由自在にコントロールできていて、出だしからこれだけのことをやってしまったら、それからどうしたらいいんですか?と言いたくなるくらいなのです。

今更、ですが、本ブログでご紹介する動画は原則としてブログ主のオリジナル作成のものです。持ち合わせていない音源で、どうしてもご紹介したいものだけ、他の動画主様のものをお借りすることもありますが。録音データはYouTubeの動画にも必ずつけていきますが、こちらにも明記するようにします。1949年11月23日、指揮、アルベルト・エレーデで、演奏はどのオケだか不明です。

1. ヴェルディアイーダ』から"Ritorna vincitor!" (通称:「勝ちて帰れ」)

 

この曲については・・・最初の特設コーナーで嫌というほど聞いていただき、ご託を並べされていただいたので、もう何も申し上げません。他の歌手の声が入って邪魔されることなく、テバルディの歌だけをじっくりご堪能下さい。

 

2. ヴェルディイル・トロヴァトーレ』から"Tacea la notte placida"

 

テバルディは、すでに書いたとおり装飾音の処理が苦手でした。そのため、この役は彼女に相応しかったと思うのですが、とうとう舞台では歌えませんでした。ここでも、後半部は省略されています。

歌い出しに早速"a mezzavoce"の指示がありますので、いきなり大声はいけません。テバルディは指示の通り、静まりかえった夜の情景をしっとりと歌っていますが、"infino allor si muto"("mu" "to"にはフェルマータの指示があるので、長めに歌うのです。)あたりの、まるで唇に実際に手を当てて、「静かに聞いて・・・」のような調子を出しているのは...彼女のうまさが光ります。

その後は"con espansione"の指示と共にクレッシェンドとデクレッシェンドの山が2つ。"con espansione"は、「心情を目一杯吐露して」とでも言ったらいいでしょうか。"dolci sʼudiro di flebili," "gli accordi d’ un liuto"の2つのフレーズで山を作っていると同時に、彼女の歌は例のように堂々たる声。次の"e versi melanconici"はいきなりピアニッシモにしろ、と。"un trovator cantò, un trovator, un trovator cantò"は最後に向けてクレッシェンドです。テバルディの盛り上げ方は半端じゃないですが、それだけでなく、最後の"cantò"にそこはかとないあこがれと優しさのトーンを込めているところは、新人の歌とは思えない詰めの細かさです。

"Versi di prece…"以降は特に指示がありません。ですが、テバルディ、「私の名前が出てきたの!」というところで強勢を置いていますね。"un nome, il nome mio!"確かに2度目の"nome"の頭にアクセント記号がついていますが、それだけなのです。彼女はこの箇所に、感激のありったけを込めています。レオノーラがどれだけ彼に恋しているか、これだけでもわかってしまう。"Corsi al veron…"からは"animando un poco(少し活気づけつつ)"という指示がありますが、実際その時バルコニーに走って彼を見たことを回想しているのですから、そのまま自然に歌ってもエキサイトした気分が入るはずで、テバルディの歌はまさにそうなっています。

"Gioia provai che agl’ Angeli" "solo è provar concesso"はまたクレッシェンド、デクレッシェンドで二つの山を作るように指示が。彼女の歌はその通りです。この辺の、スピントの効いた、底力の感じられる歌はテバルディならでは。"Al cor, al guardo estatico…"からクレッシェンドで、"la terra un ciel"でフォルテへ持って行きます。この辺の盛り上げ方も素晴らしい。最後の"un ciel sembrò"には"a piacere stent."という指示が。"stent."が"stentare"なら、「苦労して何かを得る」などという意味に。「引きずるように歩いていく」といった意味も。だから、結局は「かなりゆっくり」という趣旨だろうと解しました。テバルディの場合、恍惚感をこめたまま、ゆっくりとフレーズを締めています。

最後の"Al cor, al guardo…"はピアノから始めて最後に向かってまたクレッシェンド。"terra"でフォルテに。テバルディはめいっぱい盛り上げています。その後の装飾は彼女にしては上出来です。"la terra un ciel sembrò."このフレーズ全体の明るい発声が、(しかも、若いテバルディの美声も寄与していますが)恋に夢中、殆ど夢見心地の女性を描き出しており、最後もため息交じりのあこがれまで感じられるほどです。スコアの指示に従っているだけでは、こうは聞こえないですね。


3. グノー『ファウスト』から "C' era un Re...Aria di gioielli" (通称:「トゥーレの王~宝石の歌」)(イタリア語による歌唱)

 

テバルディは、極力、イタリア語で歌うことにこだわった人でした。「言葉を重視」する考えからでしょうし、外国語を習得するのが苦手だったのかもしれません。一応彼女の言い分では、フランス語は鼻母音が多すぎ、ドイツ語は喉音が多すぎるので、歌唱スタイルが崩れる、のだそうです。

オペラは書かれた原語で歌うべきだと私は思います。でも、当時はまだ、各国で翻訳台本を使った上演がなされることは異常なことではありませんでした。

むしろ、外国語の不得意な歌手がいい加減な発音でお茶を濁していることが実は多いのをさんざん思い知らされた私は、(本ブログの冒頭のシリーズでも、イタリア語が母国語でない歌手の問題点をさんざん指摘させていただきました。)テバルディがイタリア語にこだわってくれて良かったと思っています。

テバルディはこの役を歌うにはちょっと立派すぎる声を持っていたと思いますが、若い彼女の声で歌われると、さほど違和感は感じません。例によって、早いパッセージの処理が今ひとつなのが残念ではありますが・・・。

入りは全く同じ音程(1点ホ音)のまま、出会ったばかりのファウストに思いを馳せる語りのような部分です。テバルディの半ば語りだけれど、歌になっているこの部分は、非常に優しく、思いにふけっているような調子が十分現れています。

"C’ era un Re…"に入ると、立派な声で歌い始めます。村娘が所在なさに古謡を歌っているというよりは・・・少々堂々としすぎてはいますが、この歌に込められているトゥーレの王の誠実な愛ほど、マルゲリータが憧れているものはないのですから、この歌にはちゃんと意味があるのですね。「そんな、立派な方が、誠実な愛を捧げて下さったとしたら・・・。」夢のような話ではあっても、若い彼女はそうしたものに憧れざるを得ないというわけです。時々、自分の感慨に引き戻されて中断しますが。テバルディは中断して自分の考えに引き戻されるときは、全く調子を変えて、声量を落とし、いかにも「ひとりごと」らしい調子を出しています。

なお、「トゥーレの王」のくだりは実はまだ続くのですが、このアリア集の収録ではカットされています。"I gran signori sol…"からはフォルテの指示があるので、テバルディも立派な声を張っています。"E il parlar lusinghier."には何の指示もないのですが、彼女は少々もじもじしているような調子で、声を落としています。この辺がいかにも若い村娘らしくて、上手すぎる!(新人の初レコーディングですよ?)"Or via…"からもなにか、不釣り合いな思いにふけっていた自分に照れているような、恥ずかしそうな様子が声のトーンに。無感動に歌うだけの歌手たちとの、大変な違いが、こうしたところに現れているのです。"Buon Valentin…"からは照れが抜けて、また再会できることを期待一杯に歌っています。シーベルが置いていった野の花を見つけるくだりは、今度は優しさに溢れ、彼の思いに答えるわけにはいかないにしても、姉のような気持ちで見守っているようなのが伝わってき、花の香りを楽しんでいる様子まで見えてくるようです。

そして、いよいよ、問題の宝石箱を発見する場面。"Che veggo là?"には彼女の驚きがテバルディの声の強さでしっかり表れています。その後は、「触るまいか、いや、誰も見ていないのだし…」という心の葛藤と共に声のトーンを微妙に変えていますね。ついに箱を開けた彼女の驚きの叫び、"Oh, ciel! quanti gioiel!"別に、ヴォーカル・スコアにはフォルテにしろという指示はありません。ですが、そんなものにお目にかかる機会があるはずもない村娘が、本物の宝石を目の前にしたのですから、驚愕が表れなくてはならず、テバルディはまさにそれを実現しています。

その後も、ずっと強弱の指示はありません。テバルディは特に"questi begli orecchini!"を強調しています。実は、実人生でもテバルディはイヤリングやネックレスなどの装飾品が大好きだったようで、彼女自身、このマルゲリータの気持ちがわかりすぎるほどわかっていたのでしょう。いろいろなのをつけてみて、どれが一番素敵に見えるか、試してみたい。男性にはわかりにくいかも知れませんが、女には、そういうところがあるのですよ・・・。

問題は「試着」してからの歌に起こります。ここから4分の3拍子になるのですが、最初の"Ah!"は付点2分音符3つ+付点4分音符1つ分2点ロ音を「トリル」で維持するのです。残念ながら、トリルが全く駄目だったテバルディはそのまま歌っているだけですね・・・。私が妙に感心してしまったのは"Margherita"という時の彼女のつややかな声。ただ自分の名前を呼んでいるだけなのに、なぜこんなに美しい???"Dimmi su, dimmi su, dimmi, dimmi, dimmi su presto"はどう聞いても可愛らしい。

次の着目点は、特に強弱の指定がないのに、"Ah! s’ è gli qui fosse, per così vedermi"、気になる「彼」に今の自分が見せられたらいいのに、というところで、テバルディは強めに歌うと同時に、「見せられないのが残念」というトーンをまじえているところです。勿論、冷静に考えれば、田舎娘の普段着に宝石はミスマッチで、変な格好には相違ないのですが、彼女は突然降って湧いた「恋心」と「宝石」故に舞い上がっているのであって、私のようなひからびた中年女が冷静に判断するような状況にないからそうなるのです。

"Come una damigella, mi troverià bella"は3度繰り返しますが、最初は控えめに、次は盛大な"Ah!"をはさんで少々強めに、3度目は少々悠然と、この上なく美しく歌われています。

その後は、またしょうもない女のさがが。"Proseguiamo l’ adornamento"完全に「とまんない」状態です。テバルディ、例によって"smaniglio ed il monil"を強調。ジュエリー狂の面目躍如(?)です。ですが、そういうところが歌に現れると、いくら田舎娘でも女らしい願望はある、というのがはっきりするのであって、ここをつまらなく、無感動に歌ったら、この純真で「女らしい」娘の気持ちが全然伝わってこないでしょう。続きは前の繰り返しと言っていいですが、テバルディはまた"Ah!"のトリルが歌えていません。こういうところは・・・本当に残念です。彼女に装飾音が全て歌えていたら・・・。間違いなくイタリア・オペラ史上最高の女性歌手と称される資格十分でした。

今度は"Come una damigella…"のくだりが終わると、"Margherita, non sei più tu…"もはや、彼女は自分自身が「王女様」のように感じられてしまうほど舞い上がってしまったのです。実は"Salta-------re"の"ta"の持続部分もトリルが要求されていますが、テバルディさん、豪快にすっ飛ばして、フォルテで歌いまくっています。トリルが歌えるに越したことはないです。ですが、この歌の気分をこれだけ十分にこちらに伝えてくれれば、トリルがどうの、と文句をつける気は起きないです。少なくとも私には。ある歌手がこれをちゃんと原語版で、装飾も完璧に歌ったのを聞いたことがありますが、彼女の歌はお通夜にしか聞こえませんでした。あえて誰とは言いません。装飾を歌うことと同じくらい、ヒロインの気分を伝えることも大切なのではないでしょうか?

 

他の三曲については次回。