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Voce d' Angelo レナータ・テバルディに捧ぐ

レナータ・テバルディの専門ブログです。情報、動画、鑑賞録など。

アリア聞き比べ "Vissi d' arte"

スタジオ録音 アリア集

アリアの聞き比べ、今回はプッチーニ『トスカ』の"Vissi d’ arte"。

比較の対象はモンセラート・カバリエミレッラ・フレーニです。選定理由は前回書いたとおりです。

今回も、歌手の歌を交互につなげた動画を使います。最初はカバリエとの動画ですが、カバリエの音源は1970年のEMI録音のものです。『マノン・レスコー』の録音時期と大きな違いはありませんね。

●テバルディ カバリエ "Vissi d’ arte"

 

入りにはピアノの指示がありますので、テバルディは"vissi d’ arte"より"vissi d’ amore"を大きめにして、山を作っています。"non feci mai male ad anima viva"の最後は、若干、声量を落としていますが、"ad"を強めに歌ってここも平坦にはしていません。

次、カバリエ。彼女の"vissi d’arte"の歌い方には微妙な癖があります。「ヴィ」に強勢があるテバルディの発声と違い、「ヴィ」と「シー」の両方に強勢がついています。こういうことをすると、どうなるか。"vis"と"si"では音程が違い、この曲は"vissi d’ arte"とワンフレーズ歌うと2点ホ♭、2点ニ♭、1点ロ♭、1点イ♭という風に音程が下がっていくのですが、音程が下がると自然に沈み込んでいくような調子が出るところを、素直に下降ラインが描けていないように聞こえるのです。("vissi d’ amore"は"vis" "si" "d’a" "mo" "re"で5音節あり、"vis" "si" "d'ar" "te"より1音節多い分、1点ロ♭が一つ多くなっています。プッチーニはわざわざ、最初の"vis"(4分音符)にアクセント記号をつけ、次の"si"が付点4分音符になってしまうため"vis"より目立ってしまわないよう、配慮しているくらいです。"d’a"は16分音符で"si"の後に添えるように入れられ、後の二つの音節は最初のフレーズと同じようにまた4分音符で降下していきます。)こんな些細なことが何だって?自然に下降していくのと、それに逆らっているようなのと、どちらが自然に響きますか?"non feci mai male ad anima viva"には特にアピールなし。

テバルディの番です。"con man furtiva, quante miserie conobbi aiutai" "con man furtiva"は同じような下降ラインなのですが、"quan" "te" "mi" "se" "rie" "con"にはテヌート記号がついていますから、丁寧に十分延ばすと共に、"con anima"なので、"quante miserie"は非常に強く歌い、"conobbi aiutai"は静かに締めています。

カバリエ。"quante"はいいのですが、"miserie"の「リ」がはっきり聞こえず、「ミゼエエ」のように聞こえます。"conobbi"も、彼女はなぜか"b"の発音が苦手だったようで「コノッビ」と言うべき所の「ビ」がはっきり聞こえません。"aiutai"は最後の"tai"が長過ぎます。"serie co"(8分音符3つ) "nobbi, aiu" (8分音符3つ)"ta i"で(4分音符+8分音符)の三連符が3つ連なっていますから、どれかを妙に延ばしすぎると、この塊が崩れてしまいます。

次、テバルディ。今度はちょっと長いです。"sempre, con fé sincera, la mia preghiera ai santi tabernacoli salì, sempre con fé sincera, diedi fiori agl’ altar" 入りはピアノの指示。"diedi fiori agli’ altar" "al"で頂点を作ってフォルテにするクレッシェンドとデクレッシェンドの指示、この二つが突出しています。入りには"con grande sentimento"、"diedi…"には"con anima"の指示もあります。テバルディの発声・発音はケチのつけようがなく、特に"ai santi tabernacoli sali"の綺麗に開いた"a"の連続は歌の美しさに花を添えているようです。(勿論子音も綺麗に隈取られているから、それらが生きるのですが。)入りは少々大きめですが、彼女の声量では「大きい」方には入らないのでしょう・・・。"diedi fiori agl’ altar"は全くスコア通りでものすごい山を作った後、すーっとデクレッシェンドしています。どのように祈りを捧げてきたかを物語っているのですから、変なひねりは一切なく、清浄で丁寧な歌いぶりです。

カバリエ。また"b"が上手く歌えていないですね・・・"tabernacoli"のところ、また「ベ」と綺麗に"b"が響いていません。2度目の"sempre con fé sincera"は二つの"n"音が強すぎて鼻が詰まっているような響きに・・・。最悪なのは"diedi fiori agl’ altar"。前までのフレーズと強さの違いがはっきりわかりませんし、"diedi"は「ディエーイ」("d"が発音できていない)"fiori"は「フィオーイ」("r"が発音できていない) "agl’"は「アーーーーイ」("a"が長すぎる、"gli"の母音をカットした形の"gl'"が綺麗に「リ」と言えていない)・・・。「やる気あるんですか?」と思わず問い詰めたくなるような、だれた歌に。

次のテバルディが出色の出来だけに・・・。"nell’ ora del dolore, perché, perché, Signore, perché me ne rimuneri così?" 二つの"perché"の連続では前の"perché"に強勢を置き、次の"perché"も強勢がついています。後は"rimuneri"を際立たせている。ここ、3連符とレガートの記号しかないのですが、「なぜです?なぜなのです?」と彼女は必死で神に問いかけているのが痛いほど伝わってくる上、このフレーズ全体に、まるで彼女は、頬を伝って流れた涙をかみしめながら歌っているかのような、涙のトーンを入れているのです!凄すぎる・・・。

カバリエ・・・。何の感興も感じられません。大事な"perché"が「ペルケ」というより「ペリケ」と、聞こえるため、一聴して、気になります。殆ど泣いているようなテバルディの"Signore,"と比べて、彼女の"Signore"はこれ以上無感動に歌えるのか、というほど、ただ、単語を歌っただけ、なのです。

次のテバルディは区切らず、最後まで続けてしまいました。それには理由があるのです。後年の歌と比べると少し生硬な感じもありますから、彼女のベストとは言えないまでも、ケチをつけたくなるような所はない、と、やかまし屋の私も言い切ります。

テバルディの歌を区切らなかったのには、カバリエの歌の方に理由があるからです。まあ、最初からじっくり検討していきますと、まず、なぜ、"Madonna"の"do"がくっきり言えなかったのか?「マホオンナ」のようになんだかよろよろしているのです。次"diedi il canto" "diedi"が「ディエーイ」("d"が発音できていない)"canto"が「ガント」("c"がわずかに濁っている)、"agli"でまたしても"gli"が綺麗に「リ」と言えていない、"ridean"の"d"が強くないので締まりがない、"Nell’ ora del dolor"の最後の"r"が強すぎて汚く聞こえる、2連続の"perché"は、最初のがまたしても「ペリケ」に近く、2度目はなぜか今度はゆるゆるの「ペルケ」になっている、と、これでもイタリア・オペラを歌うと志した人の歌なのか?と真面目に問いたくなるような問題の数々なのです。"Signor"は危なげないですが、その次"Ah…ah…"とブレスを入れずに続ける意味は?スコアを見るとわざわざ「ʼ」が書いてあるのですから、「ここはブレスを入れましょう」ということなのですが・・・。こういうことをされると、却って嫌みに感じるだけです。「ああ、そうですね、あなたは息が長いから、ここでブレスは要らないんですね。」みたいな。そうしたからと言って、ここが立派に聞こえますか?なにか、意義深いものを感じますか?私は、感じませんでした。それより最後の"perché"がまた「ペリケ」寄りに聞こえること、"rimuneri"の"n"がまた強すぎて鼻づまりに聞こえること、"così"の延ばしすぎで、"rimuneri"の"ri"がフェルマータになっている意味が希薄になっていることなどの問題の方が印象に強く残りましたが・・・。テバルディの"così"も長いじゃないか、とおっしゃる方もいらっしゃるでしょう、が、テバルディは"rimuneri"の"ri"のフェルマータも十分に延ばして、延ばしすぎて、急いでブレスを入れたので、次に勢い込んでしまっている位なのです。そして、テバルディは「ʼ」のあるところでは必ずフレーズを区切っています。(最初の"perché"と次の"perché"の間、"Signor"と"Ah"の間、"ah"の終わりと"perché me ne…"の入りの間に、それぞれこの記号がついています。だらだらフレーズを続けさせないために、わざわざ書き入れる作曲家もいるらしいのですよ。だから、切るのが正しいのです。)アリアは息の長さをアピールするショー・ケースではありません。勿論、続けることで効果が増すなら意義がありますが、これは「神様!」といったん声を限りに呼びかけてから、自分自身の心境に浸る部分では?だから、切る方が妥当でしょう。

私はもともと、カバリエを特に好きとか嫌いとか、何らかの感情を持つ対象になる歌手とは位置づけていませんでした。でも、今回2曲を聴いて、もう彼女の歌を聞いても意味がない、特にテバルディとの比較の対象としては、と思うに至りました。正しいイタリア語の発声のできていないイタリア・オペラの歌唱は、まず、真剣な検討の対象になりません。さらに、彼女の歌には感情移入が殆ど感じられない。テバルディと比べて言うならば、「ヒロインをそのものを生きているかのような歌手と、歌えと言われたから歌っているだけの職業歌手」の違いなので、もう彼女を持ち出す必要などない、と。発音の問題については、これ以前、私は久しぶりにカール・ベームのステレオ盤の『フィガロの結婚』をたまたま聞きました。"Deh, vieni non tardar"はテバルディも初期に良く歌ったアリアですから、じっくり聞いていましたら、この盤でスザンナを歌っているエディト・マティスは"Qui mormora il ruscel, qui scherza l’aura, che col dolce sussurro il cor ristaura."というフレーズで"sussurro"を「ズッズロー」と、立派なドイツ語なまりで歌っていたのに、今更ながら気づいたのです。ラーメンをすすっているんじゃあるまいし、いい加減にしてよ!というのが第一印象でした。ここを「スッスロー」と正しく発声したときの印象の違いは絶大なものがあります。日本語に置き換えると、これでは「ささやき」ではなくて「ざざやき」になります。仮に、日本語の歌で「ささやき」という言葉が歌詞に含まれる歌曲を外国人歌手が歌って、「ざざやき」と発声してくれたら、どうお思いになりますか?寛大な皆様は「まぁ、ご愛敬じゃないの?」で済ませてあげるのでしょうか。私は、真剣な鑑賞の対象から外しますが。感情移入がなかったとしたら、それについては、弁護の余地がないでしょう。


●テバルディ フレーニ "Vissi d’ arte"

 

今度のフレーニの音源はこれまた彼女の録音としては初期のものにあたる1966年のEMIのものです。今回も、もうテバルディの歌の方には殆ど言及しません。

フレーニさん、また"In quelle…"の時と同じで、最初にコケています。"Vissi"が「ウィッシ」のように・・・。なぜ、イタリア人なのにちゃんと発声できない?歌い出しって、特に重要なのに・・・。そして、何の山も谷もない、のっぺりした歌い方にも・・・。何か工夫するところは考えつかなかったのでしょうか。彼女も感情移入が圧倒的に不足しています。

"Con man furtiva…"からのフレーズの盛り上げ方はいいです。が、どうして"furtiva"の"v"がきちんと発声できなかったのでしょう?カバリエの場合、イタリア人ではないので仕方ない、という弁解も可能なのですが、フレーニの場合は・・・。イタリアは地方訛りの強い言葉らしいですが、職業歌手は訛りを矯正するのが普通のはず・・・。

"Sempre con fé sincera…"からは、「おお、いい線行っている」と思いながら聞いていたら、"diedi"にきてガックリ。テバルディの歌いぶりに慣れている耳からするとまるで迫力がないし、第一、"diedi"の歌い出しがきっちりしていません。こんなに自信なさそうに入られたら、このフレーズはダメだろうな、と思っていたら、案の定、"altar"の"al"をフォルテに、クレッシェンドとデクレッシェンドで山を作るはずなのに、彼女は殆どずっと同じ調子で歌っています・・・。

"Nell’ ora del dolore…"は彼女のこの歌の最大の問題点が露呈している場所です。「何も悪いことをせず、信仰と愛に人生を捧げてきたのに、なぜ?」というのがこの歌の肝ですよね。ですが、フレーニのここのフレーズで最強なのは"nell' ora del dolore"で、("ora"と"dolore"の強さには驚きます。)まるで叩きつけているような勢いなのです。ピアノの指示が読めなかったのでしょうか?"perché"には特に工夫は感じられず、ましてや、テバルディのように涙をかみしめているような歌とはほど遠い出来です。

"Diedi gioielli…"からのフレーズ。"agli astri al ciel, che ne ridean più belli"の"che"は前の"ciel"と同じ1点ト音ですが、彼女は1点ロ♭で歌っています。この音は"ne"の前打音であって、"che"に宛てられた音ではありません。("ne"自体は1点イ♭)音を間違ってるって・・・。初歩的すぎるミス。

"nell’ ora del dolor, perché, perché, Signor"はまぁ、彼女としては健闘していると言えるでしょうけれど、このフレーニという人の問題は、以前私が作った同様のブログではさんざん指摘したのですが、語末の"r"を巻きすぎるという癖があることで、ここでも"dolor"の"r"が巻きすぎです。同じイタリア人なのに、発声の特色を歌に生かすとか、それを磨いて歌を美しく聞かせるとかいう意識が、テバルディと比べると決定的に不足しているのです。前のフレーズからしてそうです。"d" "g" "b"などの強い子音の響きを生かし、母音をくっきり発声する、語尾の子音は強すぎないようにするなどの、テバルディのしている配慮が欠けているので、のっぺりした、つまらない歌になってしまうのです。語尾の"r"を殆ど巻きすぎで歌うフレーニは「美意識」という芸術家に必要な、重要な感性が欠けているとしか私には思えないのです。(勿論、何を「美」と感じるかは人それぞれですから、彼女はあれが「美しいのだ」と信じていたのかも知れませんけれど・・・私にとっては奇妙な「美」意識です。)

"Ah…ah…"にデクレッシェンドの指示はありません。だから、別にフレーニの歌い方に問題はないのですが、あれをやるのとやらないのでは、聞いている方の感興も違いますね。やはり、つまらないのです。

今度は変な・・・最後の最後、"perché me ne rimuneri così?" "rimuneri"の"ri"には、確かにフェルマータがついています。テバルディも延ばしすぎたくらいです。ですが、これほど延ばすのは、はっきり言って、やり過ぎですし、フレーニの場合、スコアにないクレッシェンドが入っています。最後の"così"もそのままの声量で締めているので、完全にこの歌としてはピントが外れているのです。そう思いませんか?これはスカルピアに対する脅しの歌ではない、「どうして、どうして、よりによってこの絶体絶命の危機の時、助けて下さらないのですか?神様!」と悲しげに訴える歌ですよね。最後は"singhiozzando"というト書きとも表現指示ともつかない書き込みがスコアにあるくらいです。すすり泣くように終わらせなければならないのに、まるで、フレーニは神に喧嘩でも売っているような歌いぶりなのです。「どうして助けないのさ、エ!」というような。。。

私にとってはフレーニもカバリエと同じような位置づけでしたが、結論として、カバリエと同じように、テバルディとの比較の対象になるような歌手ではないな、と確認した次第です。テバルディの歌が、ファースト・レコーディングだということを思い出して下さい。最初からこれだけのことが出来る人と、ある程度レコーディングの経験があるのに妙な歌しか歌えない人では、比較しても無意味なのです。

これからは、あまり比較動画は作らないつもりですが、是非とも必要な場合は、作るつもりです。

 

次回からは、翌年、テバルディがチェトラに残したスタジオ録音のアリア集のご紹介です。