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Voce d' Angelo レナータ・テバルディに捧ぐ

レナータ・テバルディの専門ブログです。情報、動画、鑑賞録など。

テバルディ チェトラ初録音シリーズ(1)

スタジオ録音 アリア集

さて、デッカに残された録音のほかに、翌1950年にはチェトラにもアリアが数曲、SP録音されました。こちらはデッカのようにリマスターしていないので、音質が良くないのが残念です。今回は貧しい音を極力大きくするよう調整しましたので、少々音が割れることもあります。ご了承下さい。

チェトラの方の録音については、収録CDにエピソードが載っていません。多分、デッカの録音の売れ行きが良かったので積極的に録音を進める方針になったのではないかと。チェトラは当時、デッカのイタリアでの販売元でしたから。自社でもテバルディを録音に起用したくなったのに違いありません。

これらの録音は、あの66枚のデッカ・ボックスには入っていません。FONOのCDで入手するしかないのではないかと思います。中古で発見できたら、ためらわず、ご購入下さい!念のため、CDのカタログNo.などをご紹介します。レーベルはFONO ENTERPRISE、No. FONO 1057です。

こちらも、2度目の録音にしては出来が良いと思います。ただ、デッカとチェトラ両方について言えることですが、やはりスタジオでのテバルディは大人しい傾向があります。同時期のライブ録音を聞くと驚くことになるのです。

さて、チェトラの録音は3月と5月に分けて収録されました。指揮者にニーノ・サンゾーニョ(3月)、アントーニオ・ヴォットー(5月)、スカラ座のオケが起用された模様です。

これらの録音は、『フィガロの結婚』のスザンナのアリアという、テバルディとしては異色のアリアを除けば、全て後年彼女が繰り返し歌い続けた曲ばかりです。

今回は3月に録音した4曲をご紹介します。

1. プッチーニラ・ボエーム』から"Sì. Mi chiamano Mimì"

 

あまりにも有名なアリアの、それもテバルディが何度となく歌った曲の初スタジオ録音。テバルディの録音では、何と言ってもセラフィン盤での彼女の歌唱が特に有名で、頻繁に聞かれていることと思います。ですが、あれは実は峠を越えたテバルディの歌で、本当に彼女が絶好調だった、1957年までにできていたことができなくなった後の歌なのです。堂々たるプリマの歌ではありますが、若い頃の柔軟性を失っていると思います。

音が悪いのが残念ですが、この曲を歌うときの彼女の声はパッと光が差すように明るいのが特徴です。入りには早速、"con semplicità(飾り気なく)"という指示が。彼女の持ち声で歌われると、素直で、純真な若い女性が自然と浮かんできます。彼女は本当に、ストレートに、何のひねりもなく歌っている・・・ように聞こえます。ですが、そこがテバルディの巧さなのです。"Ma il mio nome è Lucia."で、本当の名前を告げるとき、音量の指示など何もないにもかかわらず、彼女はすこし、声を控えめにしています。呼ばれ慣れない本名を告げたので、「少し照れくさいわ」というミミの気持ちが、これだけでわかってしまう。この女性のシャイなところをこんなに微細な部分にこだわって表現できる歌手を「凡庸」で片付ける人たちの不注意かつ無造作な鑑賞の仕方にはあきれます。次のメインの指示は、"Mi piaccion quelle cose,"に"dolcemente(甘美、優しさの限りで)"歌え、というもの。テバルディにとってはお安いご用、でしょう。この録音では音が悪いのが残念です。次、"di primavere"で、"ritardando"と最後の最後にデクレッシェンドの指示。テバルディの場合、"di"を強く歌ってから、"primavere"ですっと違和感なくピアニッシモに持って行って、そのまま延々と延ばすということをよくやります。この録音ではSPの収録時間も気にしたのでしょうか、それほど長くないですが。プッチーニも納得の歌でしょう。こう歌われると、本当に「春・・・」という感じが迫ってきます。

二度目の"Mi chiamano Mimì"からは"Lentamente"の指示がありますが、ここでは特に遅くなっていないですね・・・。絶妙なのは、テバルディの"Il perché, non so."ここをこんなに可愛く歌いなさいなんて書いてありません。「なぜだかはわからないんですけどね。」を照れ混じりに付け加える。テバルディの声は確かにミミとしては大きいです。でも、表現の細部は、この女性の「らしさ」を十分に出している歌いぶりなのです。

"Sola mi fo il pranzo da me stessa"あたりでまた"con semplicità"の指示。何気ない日々の営みを説明するのに、妙なひねりは必要ないですね。"Ma prego assai Signor"は"rallentando"。指示通り、テバルディは遅めに、じっくり歌います。ちょっと荘重な位に。"Vivo, sola, soletta"には"con piacere(楽しそうに)"の指示。普通、一人暮らしって、「さびしーーー」と思うものですが、ここはそうしろと指示があるので、テバルディの声は明るいです。"e in cielo"に至って"rallentando"。テバルディもその通り、テンポを緩めます。ここ、ポルタメントの指示はないんですが、テバルディはポルタメント気味に音程を上げながら次のフレーズに続けていくことが多かったように思います。

"Ma quando vien lo sgelo"には"con molta anima(大変生き生きと、心を込めて)"の指示。"il primo bacio dell’ aprile è mio!"では"con grande espansione(溢れるほど心情を吐露して)"です。どちらも全く理想的に指示を解決しており、彼女の豊かな声が響き渡る様は圧巻です。"il primo sole è mio"になると、"con espressione intensa(熱烈な表情を込め)"テバルディは特に"primo" "sol" "è" "mio"をじっくり、強調して歌ってこの要求を満たしています。「私のものなんです!」というアピールが半端じゃない。

"Germoglia un vaso una rosa"に入ると"agitando appena(少し興奮気味に)"とあります。プッチーニの指示は割とやかましいですね・・・。ですが、テバルディの歌には特に"foglia a foglia l' aspio!"などに、特にエキサイトした気分がちゃんと入っています。"il profumo d’ un fior"あたりになると、また"calmo come prima(最初の冷静さに戻って)"です。「花の香りって何て素敵なんでしょう!」ですが、テバルディは堂々たる声で歌う以上のことはしていません。最後はデクレッシェンドの指示。見事にその通りになっています。

"Ma i fior ch’ io faccio, ahimè,"からはピアノの指示。テバルディの声からも例の「底力」が抜けている上、彼女はちょっと悲しげな泣きを入れて、「残念この上ない」というミミの気持ちを表現しています。

"Altro di me, non le saprei narrare,"からは"con naturalezza(飾り気なく)"ですから、至極あっさりと、明るく、さらっとこの台詞を歌うのがテバルディの常でした。

テバルディの歌の特徴として、彼女を評価する方々の間でよく言われているのはchiaroscuroということです。元々は絵画の世界の用語で「明暗法」であることをご存じの方もおありでしょう。カラヴァッジョの絵などに多用されています。光の当たるところと暗いところのコントラストを大きくして、描かれている対象を効果的に浮き上がらせる技法と言って良いと思いますが、テバルディの歌は明暗がくっきりしているのです。一つの歌の中でもそうですが、曲によって、特にテバルディの歌は明暗がくっきりしているのです。大声でもミミらしく聞こえるのは、彼女の歌が明るいからなのです。彼女は見当違いなところで明るくしたり、暗くしたりはしません。例えば、この歌とボーイトの"L'altra notte in fondo al mare"などを比べると、彼女がいかに明暗を分けることに長けていたかがわかります。

2. プッチーニラ・ボエーム」から"D’ onde lieta uscì"


初期のテバルディの歌はとにかく、柔軟性があるのです。装飾音が処理できた、という意味の柔軟性ではありません。それは彼女にはとうとう習得できなかった技法でした。そうではなくて、強弱、明暗、長短などのコントラストが自在につけられる余裕があった、という意味の柔軟性です。

ここでは、"ritorna un' altra volta"で声を張って、"a intesser finti fior"あたりから声量を落とし、"Addio, senza rancor"ではとても静かに締めています。こういうコントラストによって、歌が単調になるのが回避されているのです。そして、そこにはちゃんと歌詞という裏付けがあります。「もう一度戻る」ということがミミにとっていかに辛いことか。その感情を彼女は爆発させます。が、二人の間にわだかまりは残したくない。そこを「恨みっこなしに」で優しく言い添えるのです。そして、この部分には、速度の指示しかなく、強弱の指示はありません。テバルディの考えで、そうしているのです!

その後のロドルフォへの頼み事も巧みに強弱がつけられ、決して単調になっていません。"quel cerchietto"にメゾ・スタッカートが付いているくらいしか指示はなく、強弱の指示はないのに、です。どうやら、テバルディが参考にしたのは伴奏についている強弱の指示のようです。それにしても、入りの節の"Donde lieta uscì"の伴奏はむしろ、歌の強弱とは逆なくらいですが・・・。

"Bada"は、本当に、あっ、と気がついた、と言う風に歌われています。(指示は何もない・・・)。

"Se vuoi..."から"Se vuoi serbarla a ricordo d’amor..."では、和訳を読んで頂ければおわかりの通り、「取っておいて頂戴」とは、敢えて言っていないのです。「そう思うなら・・・」と匂わせておいているだけなのです。こういうところにミミというキャラクターの控えめなところが現れていますが、テバルディの歌はミミの本心を的確に歌い出しています。"a ricordo d'amor..."で一杯に声を張って、「本当は持っていて欲しいのよ」という本心を歌い出しているのです。ここも強弱の指示はなく、伴奏についている記号を参考にしているようです。

驚くのは最後の"senza rancor"の息の長さ。いつまで続くの?という感があります。確かに"ran"にフェルマータがついてはいますが、8分音符なんですが・・・。(しかも"corta(手短に)"という指示付きのフェルマータ。)初期のテバルディの歌の、もう一つの特徴です。途方もなく長く息が続くのです。一体どういう肺をしていたのだろう、と思ってしまいますが、それ以上に、ブレス・コントロールが巧みだったと言う証左でしょう。彼女はインタヴューではしきりと「横隔膜」に言及していましたが、あれを口に出して言えても、実践するのはそう簡単ではないはずです。ただ、ここでは、スコアを無視しすぎでは?

3. カタラーニ『ラ・ヴァッリー』から"Ebben?...Ne andrò lontana"


まさに、テバルディ節といえる、悠々たる、滔々とした歌が聴けます。別々のSP盤から寄せ集めてCDを作ったのか、ミミのアリアはひどい音でしたが、これはましです。

最初はピアノで入れという指示。しかも"con molto sentimento(非常に情感を込めて)"楽じゃないですね・・・。あとは細かいクレッシェンドやデクレッシェンドなどがありますが、特別な表現上の指示はありません。テバルディの歌はとにかく、堂々としています。なぜ、そうなのかは、このオペラを特集する際にこのヒロインの性格についてご説明いたしますが、ヴァッリーはどちらかというと「女傑」的なひとなのです。だから、ここで父親から家を追い出されても、涙ながらにすがりついたりしないのです。むしろ、自分から「黄金の雲の中」へ行くのだ、と宣言しているのですね。だから、ミミの時とはまるで違うテバルディの歌いぶりなのです。「懐かしい母の家」(このヒロインに優しかったのは母親だけだったのでしょう)から去るのが悲しいのは確かだけれど、ためらったりするのはこの役には不似合いなのです。テバルディは役によって表情をがらっと変えるすべを知っている、本当に偉大な歌手だったのです!

"laddove la speranza"はフォルテの指示。テバルディは声を一杯に張って、徐々に声を落としていき、"è rimpianto, è dolor!"で悲しみに沈みます。途中"la speranza"を頂点にクレッシェンド、デクレッシェンド、"rimpianto è"の"è"を頂点にクレッシェンド、デクレッシェンドの指示がありますが、テバルディは全体に沈み込ませているのです。"rimpiant"や"dolor"などという単語が出てくるのに、いくら「女傑」だからといっても元気に強く歌ってどうするのでしょう?それに、ここで絞っておくことで、次のフレーズの頭のピアノの指示に無理なく入れるのです。

"O della madre"は、そういうわけで、ピアノで入ります。おまけに"dolcissima con espressione(ごく優しく、表情豊かに)"です。テバルディの"casa gioconda"が強調気味に聞こえるのは、テヌート記号がついているからです。前の節の"dolo"で泣きが入った後で、ここでは清澄な響きの声で歌われています。"da te lontana assa"はピアニッシモ。ちょっと声が大きいかも知れませんが・・・、いかに「女傑」でも辛そうな、かすかに涙の混じった表情がついています。

"e forse a te"は"animando(活気づきながら)"、"non farà mai più ritorno"ははっきり"con anima(活気を込めて)"で、"non farà"にはフォルテがついています。ここがヴァッリーらしいと言えば言えます。離れるのは辛いけれど、決めたことはやり通す人、なのです。

"Mai più, mai più!"二度目の方はピアノになっています。ここまで落としてくるのですね。テバルディは悲しげな表情をつけています。(指示はなし)"Ne andrò, sola e lontana"と再開するときはピアニッシモの指示。"come l’ eco della pia campana"のあたりの温かいテバルディの美声・・・。音が悪くてもちゃんと伝わってきます。指示はなくても、彼女は山や谷を作っています。

"ne andrò, ne andrò sola e lontana, là, fra le nubi d’ or..."は次第に切迫していきます。二度に分けてクレッシェンドし、"lontana"でフォルテの指示があるからです。ちょっとここの入りが早すぎたようで、それが惜しいですが、これまた異常に息が長いです!"e fra le nubi d’ or!"もフォルテ。最後の歌の締めくくりでフェード・アウトしてしまうのも残念。声を張ったままで終えて欲しかった・・・。

『ラ・ヴァッリー』の彼女の歌唱は、デッカの全曲録音が有名ですが、残念ながらあれはもう彼女の美点が失われた後の録音で、何故もっと早く録音しなかったのかと悔しい思いで一杯です。あれが彼女のヴァッリーだと思って頂いては困るのです。もっとも、1953年にスカラ座で収録された素晴らしいライブがありますが。これはその年のエントリーにたどり着いたらご紹介します。

4. ジョルダーノ『アンドレア・シェニエ』から"La mamma morta"

 

マッダレーナはテバルディの代表的なレパートリーで、トスカニーニによるオーディションでも彼女はまずこれを歌ったことはすでに書いたとおりです。

余談ですが、実は、この歌い出しの翻訳は妥協の産物です。実際、私にはこの文の本当の意味が解釈できませんでした。英訳併記のリブレットには「彼らは母を私の部屋のドアのところで殺しました」という意味の英語が書いてありますが、イタリア語のavere(英語のhaveにあたる)に「殺す」という意味はありません。TreccaniやGarzantiといった大伊伊辞典のオンライン辞書にもそういう意味の見出しはありませんでした。hannoだから英語で言えばThey haveですが、They have・・・何をしたか、が書かれていないのです。

有名な日本公演のDVDの訳は「彼らは亡くなった母を運んできました」という趣旨ですが、あれも変です。この文のportaは名詞として使われているので、portareという動詞とは関係ないからです。じゃあ???。仕方なく、hannoをThey getの意味に解釈しました。「私から取った」という風に。自分でも納得いっていませんが、仕方ありません。「殺す」と書いてもいないのにそこまで意訳するのもどうかと思ったので。

この歌の前半も「暗」のテバルディが聞けます。フランス革命の怒濤の中、貴族の令嬢であった彼女が悲惨な境遇に墜ちていく様を苦しげに物語ります。

入り、強弱の指示も、表現の指示もありませんが、テバルディは暗めの、沈んだ声で歌い出します。当然・・・。苦痛な思い出の回想ですから。"poi a notte alta io con Bersi errava"に至っては"a piacere(随意に)"だそうで。。。そう言われても困ると思うんですが。テバルディはあまりここをひねらないのが常だったように思います。素直に物語っていくのが。

"un libido bagliore"くらいから猛スピードになるのは、♩=50だったのが♩=108になるからです。倍以上のスピードでまくし立てるのですね。さすがテバルディ、滑舌がバッチリです。"Guarda!"あたりになると元のスピードに戻りますが、伴奏の方に"trattenendo(維持する)"とあるだけです。テバルディの並外れているところは、このような楽譜の指示に従って歌うことである程度醸成される気分(この場合、屋敷が燃え上がる様を歌うところでテンポが倍になることで、自然と興奮した調子が出ますね。)に、さらにその場にふさわしい自分の声のトーンを加えて、楽譜の指示以上の効果を上げる能力です。この場合、興奮→絶望の気分を盛り上げています。("Guarda"からの沈んだ歌い方。勿論、音程も下がってきますから自然に沈んだ調子になるのですが、彼女はそこに、暗い声色を加えるのです。)ここだけではありません。彼女の歌い方全てに言えることです。

"E intorno il nulla..."にははっきりと”primo tempo(最初のテンポで)"の指示。ここからの彼女は暗さそのもの。悲惨な現状を物語っているのですから。富裕な貴族の暮らしから貧窮の極みに転落したのですから、彼女の苦悩はほとんど耐えがたいものに違いないことは容易に想像でき、それをそのままテバルディの歌は表現しています。

忠実な侍女のベルシが娼婦に身を落として彼女を養う羽目になったことを苦しげに語るときの彼女の歌もまさに、こうあるべき、という歌になっています。ベルシの「純潔」を語るときは明るめの声で歌い、自分のために彼女を犠牲にしてしまった、という自責の念を語り始めたとたん、声が暗くなります。最後は、殆ど、自分に怒っているような・・・。「私を慈しんでくれる人たちを不幸にしてしまうのよ!!」と。この歌はあまり詰めを細かくしてしまうとわざとらしく聞こえるのですが(レナータ・スコットの全曲盤をお聞きになった方はおわかりになると思います。)、テバルディは迫力で引っ張るだけでなく、表現のツボはちゃんとおさえています。

愛が語りかけているくだり"dice: vivi ancora"はピアノの指示、"Io son la vita"も頭はピアノです。"Ne miei occhi è il tuo cielo"はフォルテ。"Tu non sei sola"はピアノです。なんとめまぐるしい・・・。テバルディは必ずしもその通りにしていません。妙に音量を上下させると却って変に聞こえる、という判断からだったのでしょうか。"La lagrime tue io le raccolgo"は"poco più animato(ほんの少し活気づいて)"ですかね。"e ti sorreggo"はテヌート、かつデクレッシェンド。"Sorridi e spera"は別にフォルテにしろとは書いていませんが、伴奏の方がフォルテです。テバルディも例の底力を発揮。"tutto intorno è sangue e fango?"あたりは♩=100ですからテンポを速めなければいけません。"Io son oblio!"は"blio!"を2点へ♯で2分音符4つ分維持。この辺のテバルディの歌は・・・。圧巻です。装飾音は歌えなかった代わりに、長い音符を鉄壁の安定感で維持できるのが彼女のすごさでした。聞く方は、変な揺れや震えを聞かされて不快になる心配が全くないのです。"fa della terra un ciel, Ah!"はクレッシェンドしていって、2点ロ音でフォルテ。ここは微妙です。2通りの旋律が用意されているのですが、テバルディは途中まではOppureのほうで歌っていき、最後に2点へ♯を前に置いてから(それはOppureの場合、歌わないのです)2点ロ音を歌うことが多かったですね。その方が、確実に"Ah!"を決められたからでしょう。最後は表現上の指示も、強弱の指示も特にありません。テバルディは最後の最後で弱めて締めています。ちょっとこのときは急いでフェードアウトしすぎですね。とにかく、こんなに強烈で堂々たるマッダレーナは、もう望むべくもありません。

 

以上は1950年3月の録音分です。5月の録音分は次回に。