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Voce d' Angelo レナータ・テバルディに捧ぐ

レナータ・テバルディの専門ブログです。情報、動画、鑑賞録など。

オペラと「リアル」

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オペラを鑑賞していると、ときに、鑑賞者は困惑するような場面に直面することがあります。

重症の結核患者や、ティーンエイジャーの女性がオペラのヒロインであることは希ではないですね。思いつく限りでは、結核によって死ぬヒロインとしては『椿姫』のヴィオレッタ、『ラ・ボエーム』のミミが有名です。ティーンエイジャーのヒロインにワーグナー並みの歌唱を要求している例としては『蝶々夫人』があります。

これらのヒロインを歌う歌手は、では、どう歌うのが正解なのでしょうか?勿論、「正解」を決めるのは個々のリスナーの好みでしょう。ですが、「出来るだけリアルに」、という考え方につい引き引きずられてはいらっしゃいませんか?私は、以前、同趣旨のブログを展開していた間にこのことについてよく考えた結果、これにこだわるのがいかに奇妙なことであるかを理解し、そして、逆に、「本当らしさ」の演出を最大の目的とした歌唱は、真のオペラの歌唱の意義をはき違えた歌唱なのだと確信するに至りました。

「本当らしさ」というのを英語で言うと"reality"で、現在ではこれを「リアリティー」とカタカナ語で言う方が広く普及した感があります。

オペラの場合、なぜか、異常に「リアリティー」が重視されることが多いように思うのです。なぜか。オペラには演劇的要素が含まれているから、というのが大きな要因でしょう。

クラシックの中にも細かいジャンル分けがありますが、他のジャンルで「リアリティー」が演奏の素晴らしさの尺度として考慮される例があるでしょうか?まず、ない、と思います。例えば、それは、ドビュッシーピアノ曲「月の光」の演奏を評価するとき、ピアニストAとBでは、「A氏のほうが「リアルな」月の光を表現しているので優れている」と評価するのと同じ事になります。そんな妙な評論をしてしまったら、その評論家先生には二度と執筆の依頼は来ないでしょうね。サン=サーンスの『動物の謝肉祭』でも同じです。「A達の演奏の方が「リアルな白鳥」を描いているので素晴らしい」というような評論があり得るでしょうか?むしろ、そんなものを読まされた方が吹き出しそうな位ではありませんか?

他のジャンルの評論では、まず、スコアに書かれている楽曲が演奏によって適切に実現されているかどうか、そして、そこに更に、演奏家独自の解釈、カラーが表れているか、それがその楽曲の演奏として効果的で、聞いた方が感動できるものかどうか、それが問題にされるのが普通でしょう。「リアルな月の光」とか「リアルな白鳥」を持ち出すのは見当違いでしかありません。

結局、「オペラ」にも演劇的要素があるとはいえ、実は、「オペラ」というものは、非常に「様式化」された、特異な表現形態であることが、忘れられがちになっているのではないでしょうか。

「オペラ」と「演劇」は今更繰り返すのも馬鹿げているくらいですが、まったく異質のものです。例え瀕死の病人の役だろうと、「オペラ」の場合、どこまでも「歌わ」れるのが必須であり、「語り」にしてしまった瞬間、それは「演劇(それも、多分に鑑賞者の頭にあるのは近代的演劇であって、シェークスピアなどとはまるで別物です。シェークスピアのオリジナルの劇では少年が女性の役を演じることが多かったので、ジュリエットやオフィーリアは異常に若く設定されているのです。)」に変容し、「オペラ」ではなくなるのではないでしょうか。第一、何のためにわざわざセリフを歌う必要性があったのでしょう?「オペラ」を「演劇」とは違うものにしているのはまさにそこなのです。「歌」わない「オペラ」はそもそも「オペラ」ではありません。「演劇、それも近代的演劇」です。試しに、テレビをつけて、どこかドラマを放送しているチャンネルに合わせ、聞いたばかりの役者の台詞に適当なメロディーをつけて歌ってみて下さい。それが「オペラ」の尋常なあり方であって、「近代的演劇」の観点からしても相当奇妙に感じることが身に染みてわかります。

わざわざ作曲家が台本に曲を付け、歌手が「歌って」台詞の内容を伝えるという芸術形態が「オペラ」なのですから、「リアリティー」にこだわる余り、「もう死にそうなのだから、極力歌わず、つぶやくようにしよう」と考えるのは、近代的「リアリズム」の考え方の、安易な罠に陥っただけの、誤った判断だと思います。

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「能」という日本の芸術形態について考えます。『船弁慶』という比較的有名な能の演目を見に行ったことのある私は、まさに、この「近代的リアリズム」という安易な思考の罠にかかったまま抜け出せず、舞台を堪能できませんでした。なぜなら、あの演目では、義経を子役の少年が演じ、静御前を大人の男性が、能面をつけて演じるからなのです。(写真:静は左の能面を付けた大人の男性、義経は右の子役の少年)「リアリティー」という西洋近代にもてはやされた、欺瞞的であるにもかかわらず、鑑賞者を罠に落としやすい頑固な思考の枠に囚われていると、違和感から決して逃れられません。そして、あの演目を楽しむ可能性を自分で捨てることになってしまうのです。

この、「リアル」という考えそのものに、罠が潜んでいるのです。「リアル」とは何か、深く考えたことのない方ほど、この罠に陥りやすい。「リアル」な「月光」や「白鳥」って?それは、ありそうで、ないものなのです。実際にそのものはあっても、それを「リアル」かどうか判断するのは人間の知覚です。そのフィルターを通過したものしか、私達には認識できないのです。そして、音でそれを表現しろというのには大変な無理があるのに容易にお気づきになりませんか?

人間にとっての「リアル」ということを考え出すと、実は厄介な問題にはまり込むことになるのです。文学畑から出たものとしてのお話をしますと、いわゆる「リアリズム」の文学と思われているものであっても、あるフィルターを通して書いていたため、結局本当の「リアル」を写し取っていたのかどうか、はなはだ怪しいのです。19世紀末から20世紀初頭にかけては「意識の流れ」を写し取ったものこそが「リアル」なのではないか、と考えられました。思いつくままを句読点もなくずらずらと書いていくような・・・。しかし、それすらも「リアル」を実現しているかどうか、確認する術はありません。実際、人間は一度に全然関連性のないことを同時に考えていることもありますね。それを、整理された文章にしてしまうと、「リアル」ではなくなってしまうのです。文学はそもそも"art"で、「人為的」なものです。ある程度人為的な要素が加わらない「リアル」というのは、実は人間には捕らえきれない世界なのではないかと思えてならないのです。そして、万人に共通の「リアル」というのはない、と思うのです。

例えば、道を歩いていて、歩行者と自転車の乗り手が衝突した所を目撃したとしても、その事故の「リアル」は一体どこにあるのでしょうか?どの瞬間から見ていたのか、どこから見ていたのか、どちらが進路を変えたと判断するのか、スピードはどのくらいだったのか、被害者の被害の程度をどのくらいと判断するのか。実は、それぞれの目撃者のフィルターを通してしか解釈できないので、本当の「リアル」がどこにあるのか、決定的なものというのはない、ということになってしまうのです。街頭の監視カメラが一部始終を録画していれば、相当客観的な「リアル」に近づくでしょう。それでも、まだ、見る人によって、解釈は微妙にずれてしまう。万人に共通の「リアル」を押しつけることは、実はできない。せいぜい、監視カメラの映像も見た上で、そこから全員の感じた「リアル」の共通項を総合したものが、実際にあった出来事に一番近いのではないか、という判断だけしか、下せません。先に書いたとおり、自分のフィルターを通してしか「リアル」を感じられないのが人間の限界です。人間は万能ではないので、「自分は正しいリアルを知っている」と思い込むのは、ただの勘違いに過ぎません。自分個人にとっての「リアル」しか、わからないのが人間の哀しさです。「主観」と「客観」の問題を考慮に入れてしまうと、また複雑になりますが、所詮、人間は「主観」から離れられないと思います。「客観」は外から与えられるもので、自分の中で生まれるものではないし、「客観的事実」はまたもや「主観的」フィルターを通してしか理解されないのではないかと。

「オペラには演劇的要素が含まれているから・・・」云々と書きました。そして、鑑賞者はより「本当らしい」方を評価したがる、という罠に陥りがちです。しかし、「リアル」というものの絶対的正解を個々の人間が持たないのに、「本当らしさ」を評価するのは実はおかしいのではないでしょうか?しかも、「演劇」にしても、「オペラ」にしても、「リアル」を実際に舞台に持ち込むことは出来ないのです。「ヴェリズモ」というイタリア・オペラの流派が、オペラの長い歴史の中では、比較的新しく起こった潮流なのはご存じの通りです。あれは、結局、19世紀の芸術のさまざまなジャンルで(「自然主義」文学などは好例です)起こった、極力「リアルな世界を写しとろうではないか」という、これまで考えてきたことからすると、そもそも無理なムーヴメントの結果だったのです。所詮、台詞を歌わなければならない「オペラ」で「リアル」はあり得ないのですから。せいぜい、ヴェリズモ派にできたのは、貴族や神々などの物語を、当時生きていた庶民を主人公にすること、だけでした。「オペラ」という芸術様式を根本的に変えてしまったら、それは崩壊してしまうのが明らかだったのです。結局、「リアル」は諦めざるを得なかった。ただし、「極力リアルに」という考え方だけは頑固に残った、と思います。そのため、「オペラ」という様式を真に楽しむことを難しくしてしまったのではないか、と私は思うようになりました。「能」の例と同じように、「リアリティー」になど囚われず、「オペラ」という様式のあり方をきちんと踏まえた上で鑑賞しないと、「罠」に陥った鑑賞をすることになるのです。

「オペラ」であれ、それに近いと思われている「近代的演劇」であれ、所詮、持ち込めるのは、「リアルもどき」です。そうでないと、殺人が起こるシーンでは本当に人を殺さなければならないし、病人が死ぬシーンではその役者は息を引き取らなければならなくなるのではありませんか?それでも「リアルもどき」が極限まで実現されている方が優れているのでしょうか?私に言わせれば、それは「欺瞞の度合いが甚だしいだけ」なのです。本当に優れた「演劇」や「オペラ」が表現するべきものは、「リアル」の仮面をかぶった欺瞞ではなくて、人間の感情の機微ではなかったのはないでしょうか?行われていることが「リアル」である事以上に大切なのは、実は、その場に相応した感情が役者や歌手によって、「わざとらしく感じられることなく」かつ雄弁に表現されることであって、それこそが表現の見事なあり方ではないかと思うのです。それが見事であればあるほど、表現した側が感じて、伝えようとしたそのものが伝わるとは限らなくても、受け手には、「あ、その気持ち、わかる」あるいは、「この人物は嫌な人だ」と思うことはできるはずです。それは「リアル」かどうかとは別の問題、「人間の感受性」の問題なのです。「本当らしく」思えるけれど(それは、結果的に罠にはまっただけですが)、「感動できない」表現は、失敗なのではないでしょうか?

『椿姫』に関して書きますが、私は、ある歌手が、特に第三幕は、ほとんど、「歌う」というより「語る」調子で演じたのをよく知っています。その方が瀕死の病人を表現するのに「本当らしさ」を感じさせるでしょう。でも、そこが罠なのです。所詮、本物の「リアル」は実現できません。その「本当らしさ」は「欺瞞」に過ぎない。あそこで本物の「リアル」をやってしまったら、大変な事になります。前の幕から20kg以上体重を落とし、絶え間なく咳き込み、あるいは洗面器に大量に喀血しながらスコアの要求を満たし(多分、不可能です。歌える状態ではないので。)、最後には息を引き取らなければならないのではないでしょうか?勿論、カーテンコールになど出られません。そのまま遺体の安置所行きでしょう。そうでないのだとしたら、どこまでも、「リアルもどき」が演じられているに過ぎないのです。少なくとも私は、あれを聞いて、作為性は感じても、感動したことがなかったのです。

また、ミミや蝶々夫人が「末期の結核患者」だとか「15歳の日本人の少女」だという設定だから、という安直な理由から、妙に抑えた調子で歌うという作為的に聞こえる表現を敢えてして、多分、何が「オペラ」におけるあるべき表現かを深く考えたことが無い方々を「こんな斬新な表現は聞いたことがない、これがあるべきミミや蝶々夫人の姿ではないか!」と感心させていたりする歌手も。はっきり申し上げますが、それは実は思慮の浅さのなせるわざであり、かつ、いつも他の歌手の存在ばかり気にして、とにかく林立するライバルの中から突出して、自分だけをできるだけ目立たせることがその人の究極の目的でしかなかったということに、お気づきになりませんか?「どうよ、私は他のマンネリな歌を歌う歌手とは違うのよ!」という態の。それは、良心的な芸術家のすることではなく、エゴイズム丸出しの出世主義者のすることなのです。

「オペラ」は所詮、「創られた物語」であって、出てくる人物達の設定がどうであろうと、作曲家と台本作者が作り上げた(それは元々彼らが考えていた人物像から一人歩きして、設定と外れてしまうことが往々にしてあるものなのは、鑑賞する側も承知しておかなければならないのです。)架空の存在です。それに相応しい命を与えるのが歌手の仕事ではないかと思うのですが、「相応しい命」というのは登場人物の感情が生々しく聞き手に迫ってくるような表現によって初めて与えられるのであって、「設定に他の歌手の誰よりも忠実でしょう?」という歌手のエゴをむき出しにすることとはまるで方向性の違うことなのではないでしょうか?

ヴェルディプッチーニは結果的に、末期の結核患者やティーンエイジャーのヒロインにフォルテを歌わせるようなスコアを書いてしまいました。つまり、「設定に忠実かどうか」は重要ではないのです。当の作曲家達がそれを無視しているのですから。歌手は聴衆に「この人は安易に歌いまくらず、抑えて歌って、一番設定に忠実だわ、凄いわね~」と感嘆させれば良いのでしょうか?それは、オペラの鑑賞のあり方としては最低レベルのものだと思います。(苦笑)それは、作曲家と台本作者が創作した作品に感動しているのではなく、特定の歌手の自己PRに感動しているだけなのです。歌手にとって本当に重要なのは、台本とスコアから読み取れる登場人物の人物像、場面ごとの人物の感情を、聴衆に雄弁に伝えきることによって、「そのドラマそのものに引き込んで聴衆を感動させること」でなくて、何なのでしょう?

私がテバルディを褒めちぎっているのは、まさに、彼女だけ、といって良いくらい、歌うべきヒロイン像と、そのヒロインの場面場面の感情、もっと細かく言えば、同じ場面でも同一人物の内面で起こりうる感情の起伏を実に雄弁に、しかも、平均的聴衆が無理なく納得できる表現で歌い出すことができたからです。そのためには彼女はヒロインの後ろに黒子のように隠れることになりますし、(極力聴衆に奇をてらった表現を聞かせて驚かせるようなことを避けようとすればするほど、まるで歌手は何もしていないように聞こえる、注意深く聞かない聴衆にとっては一聴しただけでは工夫のない歌手の歌に聞こえるのです。それは、実は、「作為的なところから極力離れて、ヒロイン像に同化している」証拠なのです。)彼女の美声や雄大な歌声には気づいても、それ以上のことには気づかれない危険を冒すことになります。自分より、ヒロインを、ヒロインが何を感じているかを前に出すからです。彼女がそれを緻密に成し遂げていることに気づけた人たちは、この上なく、「そのオペラ」に感動できるのです。ではテバルディは?彼女は「自分に感動して下さい」とは思っていなかったと思います。実際、「伝記」の133ページに、『トスカ』で"Vissi d' arte"を歌い終えた後、彼女は延々と続く拍手に困ることが多かった、と書かれています。「私はどうしたらいいかわからなくなってしまって。無視して歌い続けるわけにもいきませんし、ドラマから離れて感謝の微笑みを送るわけにもいかないし。」喝采が嬉しくないはずはありませんでした。でも、彼女にとってはその日の自分に可能な「理想的な歌」を歌うことだったのでしょう。喝采を心から喜べたのは終演後だったのではないかと。

生の歌唱に接した聴衆は、歌手の歌が立派に聞こえれば、当然、喝采するはずです。しかし、録音されたものには即興的な熱狂はついてきません。録音されたものを後から緻密に鑑賞して、「これだけ感動的に歌えた人は・・・」と振り返るとき初めて、聴衆は彼女が偉大だったから、立派な歌唱を堪能できたのだと気づくのです。

しかし、圧倒的多数のオペラのリスナーは超絶技巧や、安直な「珍しい」表現にあっさり飛びつきがちです。そういったものは、花火のようにこれ見よがしな要素で、誰でも気づけるものだからです。ですが、問題視されるべきは、スコアの読み方やイタリア語を熟知しているべき「評論」を業として、生計を立てている方々までもが、そうした安直な鑑賞に陥って、テバルディのようにこれ見よがしなことはしない、細かい鑑賞を要求する歌手の真の実力を正当に評価してこなかったことにあると思います。装飾音が歌えない歌手は他にもいくらでもいます。高音が輝かしくても低音が出ないため、スコアを十分歌い出せていない歌手も。なのに、特に彼女のオペラ界における地位を「故意に」下げたとしか思えない評論家先生達の垂れ流した悪文の数々が、究極的には、「歌で伝える芸能」としての「オペラ」の伝統を断ち切ってしまい、(そうしても、テバルディのように、報われない存在になるのなら、磨き抜いた歌唱をする苦労の必要がどこに?)「歌えない・演技に補助を求める」歌手の量産につながり、オペラの衰退につながったと私は思っています。彼らは自分達を肥やすために特定の歌手を不当に持ち上げ、妙な方向にオペラを導き、結果的にオペラを殺したのです。これは真実だと思うので、私はこう書くことに何のためらいも感じません。その結果、歌を聞いても聞き手が「感動できない」歌手が圧倒的多数になりました。誰が責任を取ってくれるというのでしょう?

はっきり書いておきます。「本当らしいオペラ」というのは、その表現からして自己矛盾なのです。「オペラ」は「音楽の一形態」であり、「特殊な芸能形態」「創られたもの」です。演劇的要素を出しゃばらせること、なおかつ、そこで「本当らしさ」をアピールするものは、「リアル」とは何かを深く考えない鑑賞者を瞞着するものに過ぎないのです。最近は「本当らしさ」からも離れて、「理解に苦しむような奇抜な」演出が歓迎されているようですが、これは別に、「進歩」ではない、と思います。鑑賞者を驚かせることを狙った「見世物」に、むしろ「退化」しただけです。それは却って「オペラ」の「演劇的側面」を異常に強く印象づける結果となり、さらに「歌」の鑑賞を邪魔にしているに過ぎないのです。どうしてそうなったかは、もうおわかりでしょう。「あっ」といわせるような打ち上げ花火の方が、人を簡単に引き寄せられるからです。

ですが、オペラ歌手が表現する上でより重要なのは、スコアや台本から読み取れる、キャラクターの密な感情です。時には、スコアを少々無視する必要すらある、困難な作業です。スコア通り歌ってしまうと、実はつまらなくなることもあるのは以前ご紹介済みです。歌手自身の工夫によって、聞いている側に音楽の見事さが伝わると同時に登場人物の感情の機微が「いかにもやってます」という作為性を感じさせることなく、きめ細かく伝わるように歌えるのが優れた歌手である証だと思います。歌で登場人物の感情の機微が聞き手に十分伝えられないのに、死ぬ場面で実に上手く死ぬ演技をしました、という歌手の方が見事だというのはおかしなことです。その人は、「近代的演劇」としての「演技」を上手くやったに過ぎず、「オペラ」での演唱で聞き手を十分満足させたわけではないからです。


注:私の書きぶりが断定的でも、特に私の意見が絶対的に正しい、と皆さんに押しつけるつもりで書いたものではありませんので、その点誤解の無いようお願い申し上げます。


またご託???と思いになるとは思いますが・・・。早めに済ませておこうと思いましたので、もう一項、音源の紹介は延ばして、記事を書かせていただきます。