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Voce d' Angelo レナータ・テバルディに捧ぐ

レナータ・テバルディの専門ブログです。情報、動画、鑑賞録など。

1951年 ナポリ サン・カルロ劇場での『ラ・ボエーム』(4)

LIVE ラ・ボエーム

1951年1月10日、ナポリ サン・カルロ劇場で行われた『ラ・ボエーム』のライブ録音シリーズの最終回です。

1. プッチーニ 『ラ・ボエーム』 第四幕 "Musetta! C' è Mimì"

 

以前作ったブログでは、この場面の動画は作成しませんでした。ですが、やはりこの場面も重要ですから、今回はここも作ることにしました。

テバルディが、その気になればオケの強奏を超えるような声を張れることはもうおわかりだと思いますが、この死に瀕した幕では彼女は極力弱々しく聞こえるように配慮しています。(いつもそうなのですが、このときも極力そうしているのがわかります。)彼女の歌は、1,2幕、3幕、4幕で、全部違うトーンで歌われていて、それがいかにも適切で自然に聞こえるのです。作為的な歌とは違いますし、(衰弱しているからといって、歌詞を語るようにブツブツ歌うようなことは全くしていない、という意味です。そのほうが、オペラとしては自然に聞こえませんか?)フォルテで歌わなければならないところまで声を落としてはいません。彼女は「女優」と「歌手」の違いをちゃんとわきまえていた人でした。

いろいろな人が入ってきますが、主にミミのパートを追っていきます。第一声は、全く、このヒロインにとっては適切な、"Rodolfo!"これにはト書きで(con grande passione)「大いに情熱を込めて」とあります。弱々しくも、情熱を込めるって・・・。難しいですね。テバルディのここは、オケが相当鳴っているのに、ちゃんと聞き取れ、しかも、弱々しいのがわかり、哀調がこもりながらもとにかく、彼に呼びかけたい、という必死の思いが伝わってきます。(必死なのがわかるのは、オケが鳴っていてもちゃんと聞こえるからです。でも、弱っている様子がはっきりわかる。)ライブでこういうことがやれる人って・・・。オケに消されてニュアンスまで伝わらないのが普通なのでは?と。録音条件も相当悪いのに・・・。

次は"O mio Rodolfo! Mi vuoi qui con te?" 弱っているので、最低限、言いたいことを言うのが精一杯なのですね。せめて本当に愛した人のそばで死にたいからという一心で。オケは相当鳴っていますし、録音も悪いですが、彼女の声は「弱っているように聞こえる」のに、かつ「ちゃんと聞き取れる」という二律背反を成し遂げています。"Mi vuoi con te?"は音高が上がるので、聞き取りやすくなっていますが、とくに声量をあげてはいなかったのでは、と。高い声の方が響くので。

次、ムゼッタの説明が入った後(「説明」なんて無味乾燥な言葉を使うには痛ましすぎる内容ですが・・・。)のミミのパート。"Mi sento assai meglio"って・・・そんなはずはないのですが。このヒロインの健気なところが伝わる歌詞です。ちょっと聞き取りにくいのは比較的低音だからです。"Lascia ch' io guardi intorno"は途中までラレンタンドで"intorno"だけ"a tempo"です。ですから、かなりゆっくり歌っていますね。

"Ah, come si sta bene qui!"にはト書きで(con dolce sorriso)「優しい微笑みと共に」って・・・。どこまで可哀想にすれば気が済む・・・プッチーニさん。痛々しすぎる。。。強弱の指示はありませんが、テバルディはクレッシェンドをかけています。そして、"Si rinasce, si rinasce, ancor sento la vita qui..."ここはダイナミックに歌うのが彼女の常でした。変に弱々しいままだと「よみがえる」という感じが出ません。オケもかなり鳴りますしね。ここで、この歌詞で、声を張られると、却って悲痛で、嫌でも聞いている方の耳に余韻が残ります。

"No, tu non mi lasci più!"はいろいろな人が入ってきますが、音高が高く書かれているので、弱音で歌っても十分聞こえます。ただ、ピアノで高く歌って、安定させるのは結構難しい技なのですが・・・。全盛期のテバルディにとってはお安いご用だったようです。

"Ho tanto freddo!" "Se avessi un manicotto!" は本当に寒そうに声が震えています。次の"Questo mie mani riscaldare non si portanno mai?"にはピアノの指示がありますが、「大きすぎるんじゃないの?」とお思いの方もおいでかもしれませんね。ですが、ここはオケがppppなので、声が目立っているのです。それから、ずっと2点ニ音のまま"potra-"まで歌うことになっています(音符の長さの違いも微妙です)から、下手をするとまた機関銃のような単調な響きになります。それで、テバルディは"riscaldare"を強めに歌って(ちょうど"-dare"はそれまでのほぼ8分音符と4分音符の連続だったのが、4分音符2つ分与えられていますから)たっぷり歌って、逆に最後の"potranno mai?"を消え入るように歌っています。「温めたい」は本来の願望ですから強めて、「そうできないかしら?」はお願いですから、このヒロインの控えめな性格からして、遠慮がちにしているのですね。まさに、「歌うことになったから歌っている」のではなくて、「そのヒロインを生きている」歌手の歌なのです。

前のフレーズの後で咳き込むことになっていますので、次の歌詞になります。"Ho un po' di tosse. Ci sono avvezza."ここは簡略に歌っています。「大したことじゃないのよ」という気持ちを伝えるのに、べったり、どっしり歌ったら逆効果ですよね。手短に軽く歌うのが、その通りの気持ちを伝えるのに相応しいのです。(指示は何もないところです)

次は居合わせている一同に"Buon giorno"と挨拶するところです。これも痛々しい・・・。彼女は「衰弱している」という抑制をかけた上で、その範囲内で極力明るめに歌っています。見当違いなほど明るくはありません。ですが、暗く歌ってはいけない。無理をして愛想良くしたほうが、痛々しさが増すからです。それがこの歌詞の心であって、それをテバルディはちゃんとわきまえて歌っています。しかも"Buon giorno Marcello"まではレガートなのでそのとおり、なめらかに歌っていますが、その後は声を途切れさせがちにしています。弱っているのにずっとなめらかなのはまずいからです。テバルディがどれほどスコアの真意を読み取れる人だったことか!ここだけでもわかりますね。

"Tutti qui, tutti qui, sorridenti a Mimì"ここは最初の"Tutti qui, tutti"を大きめに歌い(指示はありません)"qui, sorridenti a Mimì"は声を震わせています。「歌手」であることはやめない(「女優」ではないのですから)けれど、歌で表現できる限りのことは表現する、テバルディらしさの極意です。本当はロドルフォと二人きりでいたいけれど、折角見守ってくれている彼の友人達にも好意を伝えたい・・・。「みんながここで微笑みかけてくれるのね」だから、「みんながここで」を強調。(誰一人欠けていないなんて、という感慨が入っているのですね)でも、最後までしっかり言葉を続けられないほど弱っている。それがわかる歌なのです。

「話しちゃ駄目だよ」というロドルフォにまた"Parlo pian. Non temere."これもあっさりと聞こえるようにして、「心配ないから」と強いて安心させようとしています。

その次は、ここまで連れてきてくれたムゼッタがいかにいい人か、マルチェッロに是非伝えなくては、という思いの歌詞。"Marcello, date retta, è assai buona Musetta." "buona"が強調気味に聞こえるのは音高が上がっているからです。ただ、"Marcello date"まではラレンタンド、"buona Musetta"から"poco rallentando"になっているのですが、前半が少々早すぎますね。

"Tu non mi lasci?"には何の指示もありませんが、テバルディは割合強く歌っています。これだけは確認しておきたくて、必死だからです。もう自分は死ぬのだから、愛する人から離れたくない!なのですね。

ここでいったん切って、次はラスト・シーンです。


2. プッチーニラ・ボエーム』 第四幕 "Sono andati?"

 

ここは最後の聞かせどころです。(それまでも彼女が全く手を抜いていなかったことはさんざん書いたとおりですが)第一声から"con grande espressione"ですから「大いに表情を込めて」です。

"Sono andati?"は弱々しく歌われています。"Fingevo di dormire"は声を震わせ、いつもの盤石のテバルディとは別人です。しかるべき表現をするときは、敢えてこういうこともする人が、「味のない歌を美声で歌っただけの人」なのでしょうか???"Perché volli con te sola restare"はだいぶ安定させていますが、やはりわずかに声を震わせています。

"Ho tante cose che ti voglio dire"の"tante"が強調気味に聞こえるのは音高が上がるからですが、それに合わせて強調も入れていく。それが、ここでは歌詞の内容を歌い出すのに相応しいからです。"o una sola, ma grande come il mare"1点ト音が最高で、ずっと低音域で歌われ、最後は1点ハ音に沈むここは、低音の出ないソプラノだと消えてしまうでしょう。テバルディの声はひどい音にもかかわらず、ちゃんと響いています。

"Come il mare profonda ed infinita"非常に意味の重い歌詞ですね。ここは1点ハから始まって、急に2点音域すれすれの所をかすめながら歌うという所ですので、音高が上がると声が響きやすくなっています。が、オケもピアニッシモからピアノになるので、消されないためにはその分、頑張らないと。"Sei mio amor e tutta la mia vita"ではオケがフォルテ。しかも、"amor"は2点ト音に上がり、"mia vita"は"mia"が2点ロに上がります。ハイCのすぐ下まで上げろと!瀕死の女性に・・・。"vita"の"vi"も2点イです。だから、ここでテバルディは声を張ります。ですが、スコアがそうなっているから、だけではないはずですね。これが、ミミの、最後に是非とも言い残しておきたいことだからです。最後の力を振り絞っている、という感がする、ここも痛ましいです・・・。

次に同じ歌詞を繰り返すときはピアノで、"dolcissimo" "sostenendo"の指示がありますから、弱めて、丁寧に延ばして歌わないといけません。テバルディの本当の"dolcissimo"は本来、もっと、ずーーーっと甘美ですので、敢えて不安定に歌い、直前に力を使い果たして、どっと衰弱した、という感じを出しています。凄い・・・。

ここでは聞き取るのが少々難しいですが、"Son bella ancora?"は少し明るいトーンを入れるのがテバルディ流でした。なぜそうするかというと、「美しい」と言われるとつい嬉しくなるのが女らしい女のありかたで、それはもう死に瀕していても変わらない、というのを表したかったからでしょう。もう、「女らしさ」というのを一方的に決めつけるのは今となっては適切とは思われていませんが、これは19世紀のドラマですから・・・。テバルディの緻密さがここにも表われています。この、古いドラマで、ここを無感動に歌う歌手は、古風な「女らしさ」を理解していない歌手なのです。

"Hai sbagliato il raffronto"このあたりは恋人同士の他愛ない会話ですが、ここの彼女の声は・・・またしてもビロード。"volevi dir bella come un tramonto." "volevi dir"は"poco animando"。ここで活気づけって?"bella come un tramonto"は"poco rallentando"。その通り、ゆっくり、じっくり歌っていますね。悲しすぎる歌詞ですが・・・。彼女は少し悲しげなトーンを入れるのを忘れていません。もう命の終わりが近いのをヒロインは自覚している。それがはっきり伝わります。

その後は、初めての出会いの時の回想です。"Mi chiamano Mimì"自分の自己紹介を反芻する彼女。一度目はメゾ・フォルテで、"più sostenuto"「極力音価を保って」、しかも"chiamano Mi"までクレッシェンドでその後デクレッシェンドになります。入りが少々弱かったですが、後はその通りなのに驚きます。歌い終わった後、苦しそうに息をのむ声、聞こえますか?ここまでやっているのです!

そして、同じ歌詞をもう一度。こちらは厄介な"come eco"「こだまのように」でピアニッシモ。"Mimì"は"molto rallentando"相当遅くしていかないといけません。同時に"Mi"を頂点にクレッシェンドとデクレシェンドの指示もあります。どういうのが「こだまのよう」なのか、ちょっとわかりませんが、テバルディは極力弱音に落としていますが、クレッシェンドとデクレシェンドを微妙ながら、実践しているのには脱帽。それでも声は聞き取れるし(ひどい音なのに!)、歌唱は安定しています。大変な技術を必要とするところです。

"il perché non so" "non"にはスタッカート記号がついていますが、それに合わせてテバルディは呼吸が乱れている様子を出しています。これほど緻密なミミって、実はいないのですよ・・・。

次の入りはト書きで(gaiamente)「非常に陽気に」とあります。当然です。出会いの日にロドルフォに買ってもらったボンネットを、まだ彼が持っているのを見つけたからです。忘れられない、思い出の品・・・。ここのテバルディの声!本当に嬉しさが心の底から表われているのです!誰でもそうするかというと、できない歌手が現にいますので・・・。もう持ち出しませんが。

絶妙の"Ah"に続いて(ポルタメントの指示はないのですが、彼女はポルタメント気味にして、次に続けています)"Te lo rammenti quando sono entrata prima volta, là?"はまた弱々しい様子で、少々辛そうに歌っています(ご本人は元気ではち切れんばかりだっただろう、というのは言うまでもありません)。この辺の会話には指示がありません。

"il lume s' era spento""E a cercarla tastoni ti sei messo"はさほど辛そうにはしていません。むしろ、懐かしさに浸っているような風情です。

"Mio bel signorino, posso ben dirlo adesso"になると指示が。ト書きで(graziosamente)「愛らしく」と。そして、"Mio bel signo-"までリタルダンドですが、"-rino"で"a tempo"。愛らしくないテバルディのミミって、そっちを想像する方が難しいです。(声の大きさは関係ないのです。表情の付け方で、これだけ愛らしくできる人がいないのです。)テンポは指示の通りだと思います。可愛いお咎め、といったところでしょうか。「本当はすぐ見つけちゃったくせに・・・」と。

"lei la trovò assai presto"と、その通りの歌詞が出てきます。ここは"con grazia"「優しさを込め」とラレンタンドの指示。前から続けて読んでくると、"signorino" ("signore"の指小形。適切な日本語はちょっと思いつきません)"lei"(親称の"tu"ではないのにご注目を)冗談めかしてわざと改まった言葉遣いになっているのですね。テバルディはビロードの声で、最後を消え入らせて歌っています。優しいというか、敢えて弱々しく、不安定にしていても、美しい・・・。

"Era buio, e il mio rossor non si vedeva"は特に指示はありません。ここも最後の二音以外は4分音符の連続ですので、テバルディは"buio" "si" "vedeva"などに強調を付けて、機関銃になるのを回避しています。

ロドルフォが言った言葉を回想する次のフレーズ。"Che gelida manina, se la lasci riscaldar"には"dolcissimo"の指示。ごく静かに、優しく歌っています。次も。"Era buio, e la man tu mi prendevi"最後の"-devi"がラレンタンドです。その後、力尽きて、咳き込むからです。スタジオだと「やりすぎでしょ」と批判の多いテバルディの「効果音」(咳や泣き声)ですが、あれはスタジオだから、聞こえてしまうのです。ライブだと、同じようにやっているはずなのに、音が悪いとこのように、聞こえません。スタジオの彼女しか聞いていない人の、一方的な批判に過ぎません。

慌てるロドルフォと、戻ってきたショナールの驚きに、"Nulla, sto bene"と答えるミミ。ここは"rallentando molto"で"quasi a piacere"テンポを遅くする、というのはわかりますが、「大体思うままに」って?それとも「楽しいかのように」?ここは不明です。テバルディは、少々強めに、「心配要らないのよ」と、極力安心させようとしています。

「静かにしてなきゃダメだよ」というロドルフォに"Sì, sì perdona. Or sarò buona"と答えるところは"poco rallentando"「少々」というより、だいぶ遅めにじっくり歌っていますが、苦しげなトーンが入っています・・・。

ムゼッタ達が戻ってきて、彼女に綺麗なマフをもらうと、感激するミミ。"Oh! come è bello e morbido, non più, non più, le mani allividite, Il tepore le abbellirà. Sei tu che me lo doni?"頭にラレンタンドの指示しかないこのあたりはフレーズの切れ目ごとに休符が入っていて、途切れがちになるように聞こえるよう、工夫がなされています。

"Chi parla?"には何の指示もありませんが、テバルディはだるくて辛そうに、ゆっくり歌っています。"Oh! come e bello e morbido"は"Oh"と"bello"を強調して感激を表し、"morbido"は弱音に落として、心地よさを表しています。

"Sei tu che me lo doni?"からのテバルディの声はそれまでよりだいぶ大きくなっています。テヌート記号がついているせいでしょうか。"Tu! Spensierato! Grazie. Ma costerà."も。ムゼッタへの感謝を何としても伝えたい、という意図でしょうか。ちょっと大きすぎるかもしれません。

ロドルフォが泣き出すので、"Piangi? Sto bene. Pianger così, perché?"ここも"Sto bene"が少々強すぎるかもしれません。"Pianger così..."からはラレンタンドです。もうすぐ息を引き取るので、衰弱が極限に達するのですね・・・。

"con voce debolissima...sempre più affievolendosi"(弱り切った声で...どんどん弱めながら)とある、"Qui, amor...sempre con te! Le mani"まで。"al caldo... e... dormire..."は最後の歌詞ですが、"molto rallentando"ですから、「大変遅くしていきながら」です。

テバルディの歌は、声自体を落としきると言うよりは、切れ切れに歌って(確かに休符でほとんど一句ごとに区切られています)死を迎えるヒロインの様子を表現しています。彼女の"al caldo...e...dormire"が少々だるそうなのは"molto rallentando"の指示のせいだったのですね。ここも切れ切れです。とにかく・・・最後まで彼女が健気なだけに哀しい・・・。

ここのテバルディの独特の最後の歌い方について、面白い表現をした記述をある本で見つけました。Wayne Kostenbaumという著者の書いた"Queen's Throat"という書籍(Da Capo Press 2001)の236ページです。(英語の本です)この著者ははっきり言って「もう一人の方」のファンですから、私は彼の著書に書かれていることを全て支持しているわけではありません。

ここに該当部分の拙訳を載せます。「リチア・アルバネーゼは眠り込む、青ざめ、疲れ切って。レナータ・テバルディは、音符にしがみつき、ピッチ(音の高さ)を滑り落ちる。まるで、ぐらぐらした石に指で捕まりながら、高い崖からぶら下がっていたかのように。」

この著者がどの録音の彼女の歌を指してこう表現したのかはわかりません。"sempre con te..."からはずっと1点イのフラットで、スコア上は音の高さは変わりません。しかし、確かに、この最後のテバルディの歌(ほとんど朗唱になっています)は明らかに同じ音高を続けていません。そうするとまた機関銃に・・・。

確かに、ぎりぎりまで崖っぷちにしがみついているような歌いぶりなので、皮肉るつもりだったのかどうか著者の意図は明らかではないにせよ、(テバルディは音程がぶら下がりがちだったという嫌みでもあり得ますから・・・)この表現は当っていなくもないなと。善意に解釈すれば、テバルディのミミは、最後まで生きる気持ちをあきらめていない、とでも言いましょうか。

この後は他のキャストの愁嘆場なので・・・省略します。もう、1951年の段階でテバルディのミミは完成形になっていたようです。それも、素晴らしい形で。


次回は、ヴェルディの珍しい初期の作品、『ジョヴァンナ・ダルコ』(ジャンヌ・ダルク)のラジオ放送用録音からの音源をご紹介します。