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Voce d' Angelo レナータ・テバルディに捧ぐ

レナータ・テバルディの専門ブログです。情報、動画、鑑賞録など。

1951年 『ラ・ボエーム』 スタジオ録音(1)

テバルディの歌はやっぱり、音の綺麗なスタジオ録音で聞きたい、とお考えの方も多いのではないかと思います。私がライブも含めていろいろな音源を聞き比べた結果では、スタジオのテバルディは少々大人しすぎるように思えるので、彼女のベスト・パフォーマンスにはむしろライブ音源を聞かないと遭遇できない、と考えているのですけれど、こと、『ラ・ボエーム』に関しては、さほど落差がないと思われます。綺麗な音で聞くことができるメリットが比較的大きい演目なのです。

ともかく、この年から、彼女のスタジオ全曲録音の長い歴史が始まるのは記念すべきことであることは間違いありません。どちらかというと、テバルディの歌声は、スタジオでの録音でより広く知られているであろうことは容易に想像できます。

驚くのは、録音データを改めて確認したところ、今回からの『ラ・ボエーム』と、次作の『蝶々夫人』が同じ日程で録音されていることです!ミミはともかく、蝶々夫人は大変キツい役なのに、同じ日程内で録音を済ませてしまったとは・・・。この頃のテバルディは疲れというものを知らなかったのでしょうか???

ご紹介するのは、1951年7月19日と26日に分けて収録された、モノラル録音の『ラ・ボエーム』です。指揮はアルベルト・エレーデ、演奏はローマ聖チェチーリア音楽院管弦楽団、主要キャストは、ミミ:レナータ・テバルディ、ロドルフォ:ジャチント・プランデッリ、マルチェッロ:ジョヴァンニ・インギッレーリ、ムゼッタ:ヒルデ・ギューデンですが、なんと、ショナールをフェルナンド・コレーナが歌い、ベノワはメルキオッレ・ルイーゼという歌手が歌っています。コレーナはスタジオ盤ではベノワとアルチンドロを受け持っていることは、テバルディのファンの方なら先刻ご承知でしょう。キャスティングの考え方が、歌手のキャリアと共に変わっていくのは面白いことです。

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音源に使用したのは例の「悪名高き?」全集からのCDですが、ここには一応、単売されていたころのジャケット写真を載せます。(写真)

ご存じの方も多いと思いますが、テバルディの『ラ・ボエーム』というと、すぐ連想されるのは1959年録音のセラフィン指揮のスタジオ盤で、こちらの方がはっきり言って、キャストは遙かに豪華です。しかし、テバルディに限って言えば、実は、このモノラル録音の方が歌唱のコントロールもずっと緻密だし、当然、声も若々しく、瑞々しいのです。実は、これは、大変な「名盤」と言っても良い、とすら、私は思います。

彼女の場合、若いから歌唱が未熟、とかいうことはないのです。(ご本人の認識とは違いますが。)むしろ、声の微妙なコントロールは若い頃の方が柔軟にできていました。だから、こちらを聞かないのは非常にもったいないことなのです。キャストに関しては、勿論、私にも不満はあります。プランデッリはデリケートで、ベルゴンツィより詩人らしいかもしれませんが、私には少々年寄り臭く聞こえます。インギッレーリは1894年生まれで、この年にはもう57歳だったから、尚更、年寄り臭く、若々しくて豪放さの感じられる、バスティアニーニにはかないません。ギューデンはドイツ系の歌手にしてはイタリア語に問題が「比較的」少なかったし、テバルディとの対比として考えれば妥当なキャスティングかもしれないけれど、少々奔放な感じが足りないように思えます。

テバルディのミミや蝶々夫人を敬遠する方も多いですね。キャラクターとマッチしない、というのがその理由だというのはわかるような気がします。彼女はリリコ・スピントの中でも最強の部類に入る声を持っていたので、こうしたキャラクターを歌うには声が大きすぎると。

ですが、私が思うに、問題はテバルディにあるのではなくて、問題の原点はプッチーニの女性のキャラクターの形成の仕方と、彼の書いたスコアの乖離にあると思うのです。プッチーニはやたらと、ヒロインをか弱く、もろく、清純で、しかし、情が深く、犠牲的な女性に仕上げがちでした。それが、実はとんでもない漁色家だった彼の好みの女性のタイプだったのでしょう(苦笑)。でも、現実の女というものはか弱くももろくもないし、そんなに純情でもありません。すべての女性が犠牲的かというとそれも違います。プッチーニの形成したキャラクター像にこだわりすぎると、オペラティックな歌唱は不可能になってしまうのです。末期の結核患者に、2千人から4千人は収容するオペラ・ハウスで隅々まで届く歌を歌えといっても無理な注文で、一音すら歌えないでしょう。しかも、彼のスコアの要求は結構キツイのです。

テバルディはむしろ、スコアの持つ魅力を最大限に生かそうとしたのですし、彼女なりに、プッチーニの書いたキャラクターに相応しい役作りを考えたのでしょう。ヒロイン像とスコアの要求が元々矛盾しているのに、歌手にそれを解決しろというのは無理な注文です。そして、オペラで「近代的リアリズム」にこだわることの不毛さについては既に指摘させていただきました。

彼女の歌うミミの説得力は絶大なものがあります。なにしろ、空前絶後の美声の持ち主なのです。テバルディが実は大柄で、病弱とはほど遠く見える女性だという先入観を排除して歌だけ聴けば、これ以上美しくて、女らしい女性像は考えられない、というのが私の感想です。

まずは、例によって、ミミがロドルフォに火をもらいに来る場面から始めましょう。

1. プッチーニ 『ラ・ボエーム』 第一幕 "Chi è là?"---"Che gelida manina"

 

最初のロドルフォの入りはピアノの指示があります。どのロドルフォもこのくらいですから、こんなものでしょうかね。今度はスタジオなので、テバルディの声が、入りからはっきり聞こえます。何しろ、美しくて、愛らしい。直前の『ジョヴァンナ・ダルコ』とまるで違うのがすぐわかりますね。スタジオだとおとなしめだとは言っても、やはり、彼女は役に相応しいヒロイン像を歌で表現しているのです。

はじめはスコア上の指示はほとんどないのでしたね。"Che viso d’ ammalata."で"Lento a piacere"(遅く、後は随意に)とあり、ミミの"Poco, poco"がピアニッシモでスタッカートなのは既に書いたとおりです。二人とも、スコア通りの歌になっていると思います。

ミミが鍵を落としたことに気づいたところは、スタジオだけに、遠くから聞こえるように効果が入れられています。効果の入りすぎた録音は、今となってはやり過ぎの感がありますが、このくらいはむしろ好もしいかもしれません。"Oh, sventata, sventata..."は"a piacere"(ご随意に)。テバルディがこの場面では少々声が大きめなことについての私なりの解釈は、ライブの時に書かせていただきましたが、もともとは控えめな女性であるミミが、ちょっと関心を寄せていた隣人の家でまさか失態を犯すとは思っていなかったから、テバルディは、彼女が慌てているのを最大限表したかったのではないか、というのが私の解釈です。

ミミの"Importuna è la vicina."とロドルフォの"Cosa dice! Ma le pare!"はピアノの指示がありますが、二人とも声量は特に落としていません。ただ、テバルディの声のトーンには恥ずかしそうな、消え入るような様子が聞き取れます。スタジオ録音はこういう、微細なところが聞き取れるのが嬉しいですね。強弱や表現上の指示はないのです。テバルディのミミの"Cerca?"が大きすぎるという指摘への私なりの反論は、以前既に書いたとおりです。ここでは"Cerchi!"からして大きいです。ですが、その後の"Ove sarà?"では少し声を震わせて、狼狽しているのをはっきり表しています。彼女は真剣なのです。とにかく早く見つけて、恥ずかしい状況を脱したい。それがテバルディのミミなのです。

ヘッドフォンを変えて、音声ソフトも変えたせいでしょうか、ここのテバルディの歌い方がまるで、初めて聞くかのように思えるのです。「こんなに可愛らしく歌っていたのね・・・」と。"L'ha trovata?"や"Mi parve."など、まるで、リリック・ソプラノの歌のようです。ヘッドフォンや外付けスピーカーで出費を渋っている方々、どうか、何とか費用を捻出なさって下さい!まるで違って聞こえてしまうことがわかります。これは、保証いたします。

"Che gelida manina"の入りはピアニッシモです。皆さん、そうしないみたいですね・・・。"Cercar che giova"で大きくしろと書かれていないことは以前指摘しましたが、ここも、皆さん大きめですね。しばらく指示がなく、"e qui la luna l’ abbiamo vicina."で"l' abbi"までがテヌートプランデッリの場合、スコアに忠実すぎて、テヌートが抜けた後の歌が少々不自然に急いで聞こえます。スコアに余り忠実すぎると変に聞こえる場合もある、ということはもう指摘済みですから繰り返しません。

"Vuole?"はラレンタンドなので、かなりゆっくり歌われています。次、"Chi son? Chi son, sono un poeta"となりますが、こちらの二度目の"chi son"はフォルテです。その後すぐ、"sono un..."でピアノの指示。プランデッリは几帳面な人だったようですね。その通り歌っています。

"In povertà mia lieta..."からは"dolce e legato"です。プランデッリの声質は・・・ちょっと"dolce"を歌い出せるものとは違うような・・・。"e per castelli in aria"あたりからクレッシェンドして、"l' anima ho millionaria"はフォルテでアラルガンド。強く、遅くです。少々、歌い納めまで声を張り切れていないように思います。

"Talor..."には"con molta espressione"「表情豊かに」の指示。うーん、そういう感じは受けないですね・・・。"due ladri: gli occhi belli."は"dolcissimo"なのですが、ここも生真面目すぎる。"ei bei sonni miei"はアラルガンドで"con anima"なので活気をつけ、遅くする。その通りですね。"tosto si dileguar"がソフトなのは、ラウリ=ヴォルピと同じです。こう歌うのが慣例になっていたのでしょうか?"ma il furto non m' accora"の頭に"dolcissimo poco rallentando"「甘美の極限で、少々遅めに」です。本当に几帳面な人ですね、プランデッリは。その通りにしています。が、"dolcissimo"とは少々違う気がします。"m' accora"あたりはソフトですが。

"poichè, poichè"からはクレッシェンドしていって、2度目の"poichè"でフォルテ。"la speranza!"の途中でハイCを張る。その通りです。ただ、ここもフェードアウト気味。

"or che mi..."からは"dolcissimo"でピアノ。"deh! parlate..."は"con anima stentando"「活気を込め、ゆっくり」。"vi piaccia dir!"はピアニッシモプランデッリという歌手は、スコア通りに歌うのが歌手のつとめだと思っていた?極力忠実であろうとしているのがわかりました。


2. プッチーニ 『ラ・ボエーム』 第一幕 "Sì.Mi chiamano Mimì"---"O soave fanciulla..."

 

チェトラのアリア特集でご紹介済みの例の有名アリアの方は、また、ポイントを書くだけにとどめます。

もうミミの歌い方は完全にしみこんでいる彼女のことなので、歌い出しからもう、理想的なミミになっています。"Ma il mio nome è Lucia."では、"Lucia"ではっきりと声量を落としています。(ソフトの波形にも現われていますから・・・)詰めが細かい。またしても、"La storia mia è breve"がこんなに可愛かったと気づいて、愕然。後年の臈長けすぎた声の彼女にはもうこの声は出ませんでした。だから、これは貴重な記録です。エレーデの指揮で残念なのは、フレーズごとの間の置き方がせっかちで、すぐに次に移ってしまうことです。テバルディにこれだけの余力があった頃に、セラフィンのような指揮者が振っていれば・・・。もっとゆとりのある歌に聞こえたでしょう。

"ed è mio svago, far gigli e rose"も非常に優しい、静かな歌です。ライブと違って、意地でも声を聞かせようという配慮が要らないので、これだけ静かに歌えるのですね。これはこれで聞き物です。対照的に"di parlano d' amor"あたりで、本来のリリコ・スピントらしい立派な声が聞けます。自分の気晴らしの話は、控えめに。相手の気持ちに沿うように、「詩が好きなのよ」と伝える配慮をするときは、感情を一杯に込める。これも、このヒロインらしさを出すためのひとつの工夫だったのですね。本当に、本当に詰めが細かい上に、全盛期の彼女は、いろいろな音色を駆使できたのです。そして、その解釈に、聞き手が首をひねる必要がない。自然に受け入れられる、妥当なものなのです。本当に優れた歌い手というのは、こういう人だと私は思います。聞き手をあっと言わせようとする気満々の歌は、歌手の自我の強すぎる歌でしかないのです。

聞き物の"di primavere"は、絶妙です。一番長いときで15秒ですから、このときの12秒は特に長いとは言えないのですが、これだけ高音域で(2点イ音から2点ト♯、2点ホに下がってきます)ピアニッシモを、ウォブルなく、ブレスなしで続けるのは、声のコントロールに長けている歌手にしかできない技です。以前も書きましたが、超絶技巧だけが歌唱技術ではありません。断じて。"che parlano di sogni e chimere"がまた美しい!"quelle cose..."はいつもより早めに切り上げています。

"Lentamente"の、2度目の"Mi chiamano Mimì"ですが、こんなものでしょうか。エレーデはゆったり振るタイプではなかったので。このときの"Il perché, non so."も、非常に可愛い。

"Sola mi fo il pranzo da me stessa..."から、日常をごくシンプルに聞かせ、"ma prego assai il Signor"をやや重々しくゆったり歌うのはスコア通りの歌で、歌詞の趣旨からして、全く無理がありません。"Vivo, sola, soletta"もスコアの指示通り、明るい。(しかも可愛い。女の私が聞いても、です。)

"e in cielo"の"poco rallentando"は"poco"というより、大分スロー・ダウンさせられています。やはり、締めはややポルタメントしています。

"con grande espansione"「心情を十分吐露して」の"il primo bacio dell' Aprile è mio"は雄大ですが、彼女の目一杯とは違います。別に、フォルティッシモの指示はありませんので。

"foglia a foglia l' aspio!"と"il profumo d’ un fior"が強烈なのももう彼女の歌い方としてすっかりしみこんでいます。そして、それがむしろ、スコアより歌詞の心に沿っている。

"Ma il fior ch' io faccio, ahimè"は、特に1度目の"ahimè"に心から「残念だわ」というトーンがはっきり入っています。フレーズ全体に入っているのですが、ここは特に聞き取りやすいです。"Altro di me, non le saprei narrare,"からの涼しげな、ごくさりげない締め方。ここを押しつけがましく歌うのは、このヒロインの人物像には合わないからです。

今回はスタジオなので、残念ながら(?)暴動のような拍手はありません。ので、全てのやりとりが聞けます。「先に行って場所取りを頼むよ」と言うロドルフォ。察しの良いマルチェッロの「奴は詩を見つけたんだ!」

デュエットに入ります。"O soave fanciulla..."の頭は"dolcissimo"。彼の声質の関係で、ちょっと"dolcissimo"とは違うかなと。たとえば、ステファノあたりは甘く歌えたでしょう。ですが、ステファノの場合はあまりにも適当で、スコアを無視しすぎるので、それも困るのですよね・・・。

テバルディが入って2人で歌う部分はフォルテ。プランデッリはテバルディに負けていませんから、声量がないわけではなかったのですね。

指示のない、次の"Tu sol comandi, amore"は、ライブの時と同じで、ピアノくらいに落として歌っています。次の入り"Oh, come dolci scendono le sue lusinghe al core"と"Tu sol comandi, amor"は、両方ともピアノの指示。最後の"amor"はデクレッシェンド。"amor"は二人とも大きめに入ってデクレッシェンドしています。その前の2つのフレーズのピアノを、テバルディはきっちり守っています。

"No, per pietà"の"No"にアクセントを付けるのも、彼女は忘れていません。ロドルフォの"Sei mia!"はト書きで(dolcissimo)になっていますが、「僕のものだ!」とアピールするテノールの方が多いように思っています。ここもそうですね・・・。

そのあとはしばらくト書きしかありません。ここでのテバルディは"V'aspettan gli amici"や"Vorrei dir? Ma, non oso."をまたまた非常に可愛く歌っています。これが聞けるのもこの録音の貴重なところ。"Vi starò vicina"はラレンタンドと"ritardando molto"。両方遅くする趣旨の指示でしたね。いつも通り、というか、いつも以上にゆったり、じっくり歌っています。

ロドルフォの"Dammi il braccio, mia piccina"の頭に"dolcissimo"とピアノの指示。更に"Che m' ami dì"にピアニッシモの指示。ミミの方には指示がないのでした。うーん、几帳面なプランデッリにしてはちょっと"Che m' ami di"が大きすぎるような。それに対するテバルディの"Io t' amo"は、本当にうっとりしている、という感覚が入っています。(非常に細かいですが、少々"t"が強く入りすぎてはいます。もう少し柔らかいと良かったかな、と。)

最後の"Amor!"のハイC、このときはテバルディも頑張っていて、彼女としては相当維持しています。

 

次回は例によって、ミミの出番の少ない第二幕は飛ばして、第三幕に移ります。