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Voce d' Angelo レナータ・テバルディに捧ぐ

レナータ・テバルディの専門ブログです。情報、動画、鑑賞録など。

1951年 ナポリ サン・カルロ劇場での『フェルナンド・コルテツ』(2)

LIVE フェルナンド・コルテツ

さて、今回から音源のご紹介に入りますが、折角CDにリブレットがついているのに、歌手の歌はまるで内容が違っているのが一聴してわかるのです。

ソロで歌われている箇所はそれでもまだ、聞き取りやすいのですが、重唱になったり、アンサンブルになってコーラスが入ると、全く聞き取れませんでした。それでも、今回はスコアを参照しながら、無理矢理(?)歌詞を付けました。聞き取れそうな可能性のある限り、そうしたところは頑張って聞き取りましたが、正しいという保証は・・・ちょっと、いたしかねます。

驚いたのは、歌詞もスコア通りでなければ、歌もスコア通り歌っていないところが・・・最後の動画のデュエットの終盤、テバルディは"a te!"というところでハイCを張るという大サービス。(どこが「高音苦手」なのでしょうね???)このオペラがなじみのない演目なだけに、聞いた瞬間、聴衆ですら、「エッ???」という反応だったでしょうから、本来はもっと囂々たる拍手が起こっても良かったのですが・・・。

そもそも、何故、こんなレアなオペラが取り上げられることになったの?というと、後でご紹介する私所蔵のテバルディ盤の付属ブックレットには、1950年が、ガスパロ・スポンティーニの生誕200周年で、その年、フィレンツェでは彼の『オリンピア』がイタリア語上演された、と書いてあります。でも、スポンティーニは1774年生まれなので、これは明らかに間違い情報。結局何故このタイミングで上演されたのかはわかりません。

もともとスポンティーニは、ナポレオンのお気に入り作曲家で、イタリア人ながらフランスで活躍し、元のリブレットはフランス語なのですが、1950年代の当時は基本的に原語上演、という原則は各国で定まっていませんでした。それで、イタリアではイタリア語で上演されたのです。問題は、リブレットが、今回のように滅茶苦茶に変えられてしまう事。筋書きには一応従っているのですが、私たちのような外国人が後から鑑賞するときには非常に困ることになるのです。

この時の『オリンピア』でタイトルロールを歌ったのもテバルディでした。「ステージへの出演回数」のエントリーをご参照頂けばおわかりになるとおり、むしろ彼女はオリンピアの方を多く歌っています(といっても、5回だけですが・・・)。まあ、こちらも、録音が残っていたとしても、聞き取れなくて、困ったことになったに違いありません。

『フェルナンド・コルテツ』の方は、すでに彼女の「王国」のようなものになっていた、ナポリのサン・カルロで上演されたので、このとおり、ライブ録音が残った、ということではないでしょうか。

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ご注意頂きたいのは、もしCDをお買い求めになるならば、IDISの盤(写真)はお避けになった方がいい、ということです。昔米Amazonで、購入者のレビューを読みましたが(私はCDを買うまえに、よく外国のショップのサイトでレビューを事前チェックします。外国人のレビューの書きっぷりは・・・とてもじゃないですが、日本人とは比較になりません。とにかく、一人一人の文章が長い!日本人は慎ましすぎると思います。)雑音がひどすぎて、テバルディの声ですらほとんど聞き取れない状態だと書いてありました。お買い求めになるなら、このHardy盤をお探しになることをお勧めします。

IDISについては、私も色々恨みつらみが・・・。最初、1953年のテバルディ出演の伝説的ライブ、スカラ座での『ラ・ヴァッリー』をIDIS盤で購入してしまいましたが、元々悪い録音状態のものに、わざわざノイズをくっつけたんじゃないんですか?と言いたくなるような音質で、これもとてもじゃないけれど鑑賞に堪える代物ではなかったのです。後でLegato盤を中古で買い直したら、ずっとましな音質でした。一体、国民的歌手の歌唱の記録にノイズを上乗せして売ることにどんな意味があるんでしょうね???IDISの意向は全く理解不能です。テバルディに限ったことではありません。他の歌手が主役のものでも、IDISの盤は音質劣悪なものが多いのです。それでも、他では手に入らない、となれば買うしかないのですが・・・極力お避けになったほうが良いと思います。

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今回使用した盤は、というわけで、Hardy ClassicのHCA 6008-2A です。(写真)ただ、新品を購入するとしたら、海外サイトで購入するしかないと思います。私はよく米Amazonも利用しましたが、商品輸送のトラッキングができる購入の仕方をすると、送料の方がCD代より高くなってしまったりするんです!困ったことではありますが、トラッキングができない状態で普通郵便で送付してもらうと、待てど暮らせど届きません・・・イライラ、ということもありました。どちらを選ぶかは、お買いになる皆様のお考え次第です。

前置きが長くなってしまいましたね。今回は第一幕から、テバルディの主な登場シーンをご紹介します。一部は聞き取りにくくて怪しい部分もあります。

録音データの詳細は、上演日:1951年12月15日 指揮:ガブリエーレ・サンティーニ、演奏:ナポリ サン・カルロ劇場管弦楽団・合唱団、フェルナンド・コルテツ:ジーノ・ペンノ、アマジリー:レナータ・テバルディ、テラスコ:アルド・プロッティ、モンテズマ:イタロ・ターヨ、大祭司:アントーニオ・カッシネッリ、モラレツ:アフロ・ポーリ、なお、結局動画には出演場面が含められませんでしたが、アルヴァーロはピエロ・デ・パルマが歌いました。

● スポンティーニ 『フェルナンド・コルテツ』 第一幕  

"Oh mio ben, Dio di noi"

 

この歌い出しからしてが、リブレットと違っているのです!本当に参りました・・・。はじめはレチタティーヴォ・アッコンパニャートです。普段こちらで聞き慣れている、ポスト・ワーグナーの作曲家の曲と違って、レチタティーヴォとアリアがはっきり分かれています。スポンティーニはロマン派が台頭する以前の作曲家ですから、どちらかというとモーツァルトのオペラ・セリアのスタイルに近いのではないかと。

最初の"Oh mio ben, Dio di noi"のあたりは"con espressione"「表情豊かに」です。こんなにビロードの声で歌えなんて書かれていませんけど・・・。そして、"Ahi, troppo è noto a me..."あたりから"con forza"「力を込めて」なので、テバルディも前のフレーズより声を張っています。「死の危険を冒してでも、これだけは伝えなければ」というヒロインの強い信念を示さなければなりませんから。

あとはしばらく、ほとんど指示がありません。テバルディは特に"e la patria è perduta"を強めに歌ってから、ずっと声を張りっぱなしです。スペイン方の一軍を捕らえたことが、却って祖国の破滅になったと。大変な反撃にさらされて、ここは廃墟と化すでしょう、と伝えることで、アルヴァーロを解放して、和睦した方が良い、と勧めたいのですね。その、"Deh, salva, deh, salva..."とアルヴァーロを救って下さい、と訴えるところでは声の張りを少し抜いて、優しく懇願する調子にしています。(何も指示はありません)

次のテラスコの入りには"con fuoco"「火のように」の指示があります。強気のテラスコと強情な祭司だけは、一貫して態度を変えないのですから。次のテバルディの入りにも特に指示はありませんが、強気の王の発言に、彼女が本当にそんな態度では先が案じられるという風情で"Io tremo pel mio re, pel mio fratello tremo."を歌っているのを聞くと、テバルディがなじみのないオペラだろうが何だろうが、一切手を抜くつもりがなかったことがわかります。

まあ・・・それにしても、あきれるほど指示のないスコアです・・・。強弱、表現、ほとんど何も書かれていません。ですから、テバルディが"d' un Dio consolator"でソフトな調子を入れて、今はこの姫君が信仰するに至ったキリストに対する心からの帰依を表しているのも、全く彼女の判断なのです。声を張りっぱなしでは一本調子の歌になったでしょう。

次の入りにはやっと指示が。"con forza"「力を込めて」です。"Mentire non saprò. Questa colpa è la mia!"何が"colpa"なのかちょっと変な感じですが、ずっとアステカ帝国の神が絶対だと信じ込まされていた人にとって、またはまだ信じている周囲の人々にとっては、別の神を信じることは「罪」にあたるのでしょう。だから、そういう考え方が支配的なヨーロッパの歌手がここを歌うなら、当然強い調子になります。「私は今までの神には罪を犯すことになっても、新しい神を信じるのよ!」です。お正月は神社やお寺をはしごし、合格祈願は神社に絵馬を付けに行き、結婚式はチャペルで挙げ、お葬式にはお坊さんを呼ぶ日本人の「何でもあり教」ぶりの現状では、こういう厳格な区別が理解しにくくても仕方がないですね。(私は何でもあり教が最高ではないか、と思っていますが・・・なんであれ、ありがたい方はありがたいと思っておけば間違いはないと・・・)

その後の肝心の"Cortez adoro..."にも何の指示もない・・・。とにかく、この頃は、歌唱のあり方は歌手の裁量にほとんど任されていたのですね。敵の将軍を愛している、と告白するので、テバルディは当然、優しく、甘いトーンを入れています。"ei mi riama"の"riama"も、ロマン派以降の作曲家なら"dolce"とか書くのでしょうが、そんなことが書かれていなくても、テバルディは"dolce"な調子で歌っています。その後は、一転して声を張って、これは個人的な思いを超えて、二つの民族の融和につながる、と、現実的な利益をも生むのだと訴えます。こちらをヘナヘナと甘ったるく歌うのは見当違いだと、ちゃんと彼女はわきまえています。

"Io rinnego quel Dio..."からははっきりした、現在のアマジリーの信仰告白になっていますから、何の指示もなくても、テバルディは強烈に歌っています。誰が何と言おうと、昔の神は野蛮なだけなのだと、この姫は思っている。それはそうです。人身御供が当然のような神ですから・・・さすがに「何でもあり教」の日本人の私でも、こういう神様は御免被りたいですね。その後の祭司の言葉がそれを物語っています。「こんな罰当たりな女は犠牲に捧げてしまえ」ですから。こういうのは駄目ですよ・・・。

次の"Empio ministro..."からはスコアに書かれていませんが、アリアに入っていますね。入ってもしばらく、何も指示がない・・・。ただ、「ドーン」とオケがなり始めてからのテバルディの堂々たる声に感嘆。こういうときにオケに負ける人じゃありませんでしたからね・・・。「これ程忠告してもわからないなら、覚悟した方が良いわよ!」という趣旨ですし。

そして、"Quando Iddio le prometteva..."からは珍しく、"teneramente"「非常に優しく」の指示。歌詞からして当然ですから、たとえ書かれていなくてもテバルディはそうしたでしょうけれど、その指示のままの非常にソフトなトーンに歌声を一転させます。その後しばらくの歌詞は・・・リブレット通り歌われていないので妙な感じですが、ともあれ「そう聞こえる」ので。結果的に祭司の手にかかって自分が犠牲にされても、今の自分にとっての神の約束する天国へ行ける、という趣旨でしょう。

"e a me d' amor..."にあたるあたりは(スコアの歌詞は違います)"con tenerezza"「優しさを込めて」なので、テバルディはこちらも非常にソフトに歌っています。死んだとしても愛は死なないで自分に与えられるのだという趣旨だと思われます。

一転して"mi abbandona al tuo braccio crudel!"先に出てきた"tu"は王に呼びかけて、「慈しんでいる人(結局、王の后か妾か誰かのことですが)」の行く末を案じて欲しいと訴えるのですが、この最後の"tuo braccio"の"tuo"は「祭司」を指しています。こちらはトーンが一変して、「あなたは残酷非道なのだ」と決めつけるのですね。非難のトーンが入るのです。なにせ、自分の母親がそういう儀式で彼女の身代わりに殺されたという前歴がある、という設定ですから。

実は、ここは相当カットがある上、スコアが変えられていて、テバルディは最後に2点イを張っています。確かに、その音はこのアリアの随所に出てくるのですが、最後にこの音を持ってくるようにはなっていないのです。やはり、最後に高音を張った方が盛り上がるからでしょう。この頃の彼女にとってはハイCも特にキツくはなかったのをさんざん確認しましたから、こんなことは全く苦にならなかったでしょう。実際のフィナーレの音はオクターヴ下ですから、効果が全く違います。スポンティーニはなぜこんな、盛り「下がる」スコアを書いたのでしょうね?

その次のモンテズマの入りから、またレチタティーヴォの指示が入ります。ここのモンテズマの歌詞には、「サン・カルロのアイドル」たるテバルディへの配慮が確実に反映されていて、もっと侮蔑的な本来の歌詞よりずっとヒロインに同情的になっています。本来の歌詞は、"Di questa svanturata il triste error non ha ogni suo dritto tolto a mia pietà...In queste piagge abbandonata resti di custodia agli Dei."「この不幸な娘は悲しい過ちによってもまだ、私の慈悲により全ての権利を取り上げられてはおらぬ。この場所で捨てられ、神々の庇護のうちに委ねられたままなのだ」ここには(con forza e sdegno)「強く、軽蔑をもって」という指示が出ていますから、本来の王の言い分はもっと、「自分のお情けで罰当たりな背教者になるのを免れている」という趣旨なのですね。それをわざわざ変えてあるのは、前に書いたような事情からとしか思えません。

次のアマジリーの入りは、一同が退散し、兄のテラスコと二人だけで話し合う部分からです。ここはレチタティーヴォの指示。それ以外には指示はありません。

この話し合いは・・・意味がないのではないかと。妹はコルテツにすっかり夢中で、母が身代わりに犠牲になったことの苦しさを忘れていませんが、兄の方は軟化した態度を取るつもりなど到底ないのですから。

何の指示もありませんが、テバルディは自分のパートに巧妙に起伏をつけています。"Oh mio fratel..."からは優しく、兄に呼びかけます。すげない返事を返されても、更に、自分たちの母親が殺された記憶を思い起こして欲しい、とすがります。"ai dì"を強調しているのは、それが母の死んだ、「特別な日」だからですね。"furibondo sacerdote uccisa"は強烈で、祭司の行為がいかに許しがたいか、彼女の怒りがこもっています。

次が・・・どうやって救われたのか訳がわからないにしても、テバルディの歌いぶりだけは絶妙で、"Un eroe mi salvò."は一転して甘美なトーンそのもので歌っています。ほとんど恍惚としているようなトーンです。最後は強く、"Ne seguo i passi vittoriosi..."。「彼の勝利(それを疑っていないのですね)の道に従うわ」と、断言して締めます。祖国に背くことになるので、相当な決意が要ります。

「先祖代々の神に背くのか」という趣旨の兄の返事に"Macchiato egli è sangue..."と答える部分は一度微妙にクレッシェンドを入れてから、今度はデクレッシェンドしています。(何の指示もありません。)ここを平たく歌うのと、起伏を付けて、"Macchiato egli"あたりまで盛り上げ、後を弱音にしていくのがどう違うか。なんとなく薄気味悪さがつくのですね。「彼は汚れているのよ!」何に、かといえば「神の子孫たる者達の血で。」最初を強めていって「穢れ」を訴え、「誰の血に」かを静かに歌ってそれがどれほど恐るべき命への冒涜かをそれとなく示す。詰めが細かいです・・・。何のイヴェントのために復活された上演か結局わかりませんが、テバルディは完全に本気モードで、「実は気に入りのレパートリーを歌いたかった」のだとしても、任せられた役を適当に歌ってお茶を濁すということは決してなかった、というのがわかります。

次のテラスコの入りからデュエットになっていきます。テバルディの入りは・・・彼女が祈りの歌を歌うときの調子はいつもそうなのですが、清澄で優しい。音色を明るめにして、清らかなトーンを入れるのです。ですから、"Oh tu che reggi..."からがそれまで以上に美しく聞こえるのです。同じように声を張っていたとしても、祭司を責めるような時とはまるでトーンが違う。清らかな心の底から、神に訴えるのです。全盛期のテバルディの声の色の操り方の巧みさといったら・・・もう、文句の付けようがないのです。

本格的にプロッティと声を合わせるところでは、さすがに声を張る必要がありますが、明るく、甘美なトーンは変えません。キリスト教に改宗した者にとっての「愛」の強さを訴えているのですから。暗いトーンや、脅迫的なトーンは全く場違いですね。

"Oh Dio di Cortez, Nume d’ amor,"からはデュエットの趣が変わります。その前は二人がそれぞれ、自分の思いを勝手に歌っていましたが、こちらは対話になっています。兄は「もうお前のことなど知るか」で、妹は「その野蛮な神を捨てて」ですから、すれ違っていますが・・・。お互いが精一杯自分の思いを訴えるので、二人とも声を張っていますし、オケもかなり鳴っています。音がひずんでしまったのは残念ですが、どうにもなりませんでした。

このデュエットも相当カットがある上、ここでは妙にピアノやフォルテの指示がついていたりするのですが、二人ともピアノにするどころか、歌いまくっています。相当カットされたので、そういう微妙な起伏を付ける余裕がなくなったのでしょう。更に、又してもテバルディに書かれていないハイCを最後に張らせています。今度はハイCなのです!なんたることか・・・。初期の彼女にとっては、さほど問題ではなかったのです。


次回は第二幕からの音源のご紹介を。