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Voce d' Angelo レナータ・テバルディに捧ぐ

レナータ・テバルディの専門ブログです。情報、動画、鑑賞録など。

『椿姫』 聞き比べ(2)

本来、この聞き比べをするのはどうかと思っていました。もう並べて言及する意味はない。セットで語られていること自体がおかしいからです。全く傾向の違う歌手同士なので。しかし、色々発見があった以上、まるで意味の無いことだとは思わなくなりました。ただし、途中から自分のユーモアが非常にブラックになっていくのをどうにもできませんでした。「ついていけない」とお感じになる読者の方もおられるかと。ですが、これが「現実の音楽界」の黒々としたありようである以上、ご辛抱の上、ご熟読をお願いしたいと思います。

1. ヴェルディ 『椿姫』 第二幕 第一場  "Dammi tu forza, o cielo"


まず、第一声から。"Dammi tu forza, o cielo."特別指示はないですが、テバルディは悲しげなトーンを入れています。自分だけの力では、本心と裏腹の手紙は書けそうもない、という歌詞ですから。

「かの方」の歌い方もほとんど同じです。ただ、私には何ヘルツかわかりませんが、この"cielo"もうわずり気味に聞こえました。どこまでうわずっているか証明できないので、ここの動画は作りませんでした。

"Ed or si scriva a lui"こんなにくぐもった音源なのに、テバルディの発声はくっきりと聞こえてきます。これに文句を付けている評論があるのですから(後のシリーズでじっくりご覧頂きます)あきれます。「エド オル シ スクリーヴァ ア ルーーーイ」"va"と"a"は母音が続きますので、「子音・母音」という規則のあるイタリア語の話者には発音しにくいはずなのですが、テバルディは、"va"と"a"をはっきり発声し分けている。更に、悲しみの色がはっきりと入った声で歌っています。

次の"Che gli dirò?"の頭には、テンポの指示(Adagio)だけ。"Chi men darà coraggio?"はスタッカートが付いています。テバルディは派手に切れ切れにしてはいません。とにかく、その後しばらく、別れの手紙を書いている間、テバルディはさめざめと泣いている。それを聞いていただくため、歌っていない演奏の場所を敢えて切り出したのです。「泣け」というト書きはありません。いい加減、くどすぎるかもしれませんが、これ、殺風景なラジオの収録スタジオで普段着で歌っていたのですよ?!そして、ご存じの通り、彼女の場合、プライベートの写真は80%以上(公表されている限りで、ですが)にこやかに笑っているのです。普段はそういう気性の人が、こういうことをやってのけるには、相当「役柄に入り込まないと」不可能なはずです。ずーーーっと後になると思いますが、彼女が役柄になりきることができなかったと決めつけた文章をお書きになった「大文化人」の方のご著書についても検討させていただきます。私に言わせると、「とんでもない言いがかり」でしかありません。そう断言いたします。

「かの方」も"Ed or si scriva..."の歌い方はテバルディとほとんど変わりません。この方が表現において遙かに卓抜だったとか、役柄に没入したとかいうのはどういう根拠に基づいたお説なのでしょう?

"Che gli dirò?"は最後を消え入らせているのですが、別に感心するようなものではありません。むしろ、テバルディが"Che"と"di-"に強勢を入れていたのが比較の結果わかりました。こちらが無表情に近いので、テバルディの細かさが却って明らかになったのです。何ですかね?この「女神」様。"Chi men darà coraggio?"のスタッカートなんて、(まあ、ライブだから当然ですが)お忘れだったご様子で、特に"coraggio"が二重子音の詰まりまでダレーっとしてしまうほど、「意気消沈しています」感を表しています。が、「コラッジョ」と言うべき所を「コラーーーージョーーーーーォ」みたいにダルそうにするのが「卓抜な表現」なのでしょうか?そのあと、この方も泣いておられますが、さんざんゴージャスなお膳立てをしてもらうという「過保護」を受けているのに、それができない方が不思議ですから、できて当たり前です。しかし・・・テバルディが『トスカ』で泣き声を入れているのを酷い言葉でののしった評論家先生の文章を後でご紹介しますが、この方がすすり泣くのはお構いなしだったご様子ですね。ずいぶん都合の良い構造の脳みそをお持ちのご様子です。

その後、突然アルフレードが現れてあたふたするところはバサッとカットしました。アルフレードから、「父親」(彼女としては、さっき会ったばかりのその人ですね)のことを聞かされ、動揺する場面から。"Ch' ei qui mi non sorprenda"には(agitata)「興奮して」のト書きがあります。"Ai piedi suoi mi getterò"まではテンポ以外の指示はありません。"divisi ei più non e vorrà"には(male frenando il pianto)「涙を上手く抑えきれず」というト書きが。"sarem felici, sarem felici, perché..."は最初のフレーズが2連続でたたみかけるような調子が出るので、それだけでも激しい動揺が伝わるようになっています。

"tu m' ami, tu m' ami, Alfredo, tu m' ami, non è vero?"は全体にクレッシェンドの指示。この歌詞で、この指示ですから、相当激しい動揺が出せないといけません。テバルディは十分すぎるほど切迫感を出しています。最後は敢えて"non è vero"をクレッシェンドしていません。むしろ、声量を落とす。次もクレッシェンドが入るので、ずっと声量を上げっぱなしでは単調になる。『ラ・ボエーム』ミミの死の場面と同様に、声の大きさを敢えて揺らして動揺を伝えるのでした。一度切れて、"non è vero? tu m' ami? Alfredo, tu m' ami, Alfredo, non è vero?"も最初の"Alfredo"からクレッシェンドの指示。しかも、このたたみかけるような歌詞の繰り返し。テバルディは見事にクレッシェンドしており、最後は涙にむせんでしまう。しかも、"Oh, quanto!"というアルフレードの答えを聞いている間、彼女が後ろで"Oh!"と嗚咽しているのまで聞こえますよね。ラジオなのですよ・・・。

「かの方」。"Ch' ei qui mi non sorprenda"は確かに「興奮して」です。ですが、デカい声で、最後の"sorprenda"の"-a"を見当違いに明るく開けとは書かれていないのですがね・・・。"tu lo calma"は妙に"tu"と"lo"の間が開いていますが、何の必要でそうしたのか全く理解できない。"Ai piedi suoi mi getterò"まではテンポ以外の指示はありません。"divisi ei più non e vorrà"の「涙を上手く抑えきれず」というト書きについて何らかの表現上の工夫は聞き取れません。"sarem felici, sarem felici, perché..."ラジオでできる人がいるのに、「過保護」を受けている人が動揺を出せなかったら「大大大歌手様」の名が泣きますよね。

"tu m' ami, tu m' ami, Alfredo, tu m' ami, non è vero?"は全体にクレッシェンドの指示。だからでしょう、最初の"tu m' ami"の二連続は非常に小さくお歌いになっているので、聞き取るのも難しい。"non è vero"はクレッシェンドの指示ですが、この方もしていません。というか、何だかけだるく、間延びしたようにお歌いになっています。それがこの方の「すがりつき方」なのでしょう。そして、こういうのが、「卓抜な表現」なのでしょうね。

"non è vero? tu m' ami? Alfredo, tu m' ami, Alfredo, non è vero?"も最初の"Alfredo"からクレッシェンドの指示。この方、最初から最後までデカい声で迫っていますね。別に、ライブですからそれでも良いと思いますが。"Oh, quanto!"というアルフレードの答えに対するリアクションは、咳き込んでいるような大きな泣き声。これも、例の「評論家先生」にとっては「天にも昇るような極上の泣き方」なのでしょうね。テバルディとこの方のリアクションのどちらがわ・ざ・と・ら・し・い・かと聞かれたら、私の場合は、「この方」の方と答えますが。

"Di lagrime avea d' uopo"には何の指示もありません。彼女はここも涙声のままです。"or son tranquilla, lo vedi?"にも指示はなし。"ti sorrido... lo vedi? or son tranquilla, ti sorridi..."全体にクレッシェンドの指示。テバルディの歌は、最初の"or son tranquilla"は言葉と裏腹で、「落ち着いている」ように聞かせないのでした。その後は、強烈な声でクレッシェンドをかける。

"Sarò là, tra quei fior, presso a te sempre, sempre, sempre presso a te"は最後の"te"(全音符2つ分)にクレッシェンドの指示があるだけ。テバルディの歌はこの辺に来ると安定してくるのでした。今後何があろうと、自分は彼を愛しているのだという本心を告げるところだから。スコア通り、"te"でクレッシェンドをかけながら次のフレーズに入る。

"Di lagrime avea d' uopo"。「この方」もここは涙声です。この方はいくらお泣きになっても口汚くののしられませんから、いくらでもお泣きになれます。"or son tranquilla,"がオケに邪魔されて聞こえにくくても、それも問題ないのでしょう。"lo vedi?"こちらも聞き取りにくいですが、「この方」のエラーに近い事柄は全てセーフという大原則がありますので、これも問題ありません。ライブで観客席の隅々まで声を聞かせる必要などお感じにならなかったとしても、「女神」様の特権には卑しい観客は逆らってはならない。「この方」の「芸術の完成」のためには、末席の観客のチケット代など問題にならない。"ti sorrido... lo vedi? or son tranquilla, ti sorridi..."全体にクレッシェンドの指示。これは見事にお守りになられている。しかし・・・全部「立ち位置のせいにできるのか」少々考えさせられざるを得なくなってきました。大きく入っているところは十分声が前に出ているので、非常に不利な条件で収録されたとはどうも思えない。引っ込みすぎの所は、敢えて引っ込められたのかと。

"Sarò là, tra quei fior, presso a te sempre, sempre, sempre presso a te"は最後の"te"(全音符2つ分)にクレッシェンドの指示があるだけ。この方は"te"だけクレッシェンドするなどというケチなことはなさらない。その前から大きめなお声で、今度は末席の観客を感涙にむせぶほどお声を聞かせまくる。特に、二つの"te"より"sempre"3連続が非常に大きくて、馬鹿げたスコアのケチくさい指示を豪快に無視なさる。

"Amami, Alfredo,"は頭に(con passione e forza)「情熱と力をもって」。強弱記号はなし。"amami quan(-t)'" io t’ amo"は"quan"にアクセント、最後の"amami, Alfredo,"の頭にフォルティッシモ。 "quanto io t' amo, quanto io t' amo, Addio!"最後の"t'amo"で"diminuendo"「弱める」。テバルディの歌は、スコア通り。更に、最後の"Addio"で涙にむせぶ。ですが、「評論家先生方」のご常識からすると、この彼女の、どうしても感動してしまう熱唱に心を動かされるのは低脳な証拠らしい。そして、最後に泣くのは、また「御法度」ときついお咎めが下るのでしょう。

「かの方」。"Amami, Alfredo, Amami quanto io t'amo"たとえ、テバルディが"Amami, Alfredo"と"Amami quanto io t'amo"の二つのフレーズの間に一度しかブレスを入れていないのに対し、この方が"Amami, Alfredo" "amami" "quanto io t'amo"と2度もブレスを入れたとしても、「評論家先生方」によれば、それも「絶妙な区切り方」になるはず。それと、"io"が引っ込んでいて"i"が聞こえにくかったとしても、ここで"io"など前に出すのは「粗野」とかおっしゃるだろうと容易に推測できる。そして、テバルディの"io"がしっかり、嫌というほどはっきり、「イオ」と聞こえたとしても、「発音の不明瞭な歌手」とお咎めを下さる。誠にありがたいことです。最後のフォルティッシモの"amami, Alfredo,"が勢いよく、誠に勢いおよろしいがため、「アーーーマーーーミ」ではなく、「アーーーーアーーーーーー」のように聞こえたとしても、「間違っているのはテバルディの方なのだ」と「超」ありがたいご指摘が頂けることでしょう。 "quanto io t' amo, quanto io t' amo,"で、オケの「邪魔な」轟音のせいか、"t"がことごとく響いてこないとしても、 「これこそ、デリケートな子音の発声の極致!」というお言葉が頂戴できるでしょう。"Addio!"が異常に長いのは、ライブによくあるパフォーマンスの一つであり、歌手によくあるやり過ぎの一例で、この方程の高貴なお方がそれを「芸術としての完成のため慎む」という原則を敢えて破られたとしても、音を維持している間声がぶるぶる震えていたとしても、この方の場合、「評論家先生」に伺えば、「ありがたい黄金のお声を十分に、十分すぎくらいお聞かせくださった上、耳をマッサージするという気前の良い、度量の広いところをお見せになった」証拠とご指摘くださることでしょう。

2. ヴェルディ 『椿姫』 第二幕 第二場 "Invitato a qui seguirmi"

 

次、いきなりこの場面に飛びます。テバルディのすることなすこと全て「軽蔑すべきこと」で「かの方」のすることなすこと全て「高尚・至芸の極致」と「専門の音楽界で決定されている」以上、比較しても結論ははじめから決まっているのであれば、このシリーズを長々と続ける意義はありませんので、早めに切り上げることに致しました。

なお、比較動画中にアンサンブル場面が出てきますが、いつもの通り、全員の歌っている歌詞をご紹介するとヒロインの歌詞が読みにくいので、今回はヴィオレッタのパートのみ字幕表示させて頂きます。ご了承を。

はじめはまるで指示がありません。それどころか、アルフレードに「どこへでもついてくるか?」と言われて、ヴィオレッタが「それはできない」"Ah, no, giammai!"dで"no"にアクセント記号がつくのが最初の指示なのでしたね。それまでは全く歌手任せ。

"Invitato a qui seguirmi..."以降のテバルディの興奮気味の強い張りのある声と、"odio atroce"の"atroce"に強勢を置いて、アルフレードが自分に対して抱いているであろう、「恐ろしい」憎しみを強調しているのや、"più di mia voce"の"voce"が2点イ♭に上がるのに合わせて、目一杯声を張っていることにより、"odio atroce"と"voce"の絶妙な対照を作っていること、見事に、美しく巻けている二重の"r"音始め、その他の滑舌の美しさに感心したとしても、それは私が「低脳なリスナー」の証拠、ときっちりお叱りを頂戴することでしょう。

では、「かの方」。さすがに、お見事な滑舌で、「先生方」に絶賛をお受けになる資格ご十分のところをお聞かせくださっています。そして、特に何かの語を強調するなどという「余計なこと」はなさっていないことも、「非常に賢明な判断」と論ぜられるでしょう。更に、最後の"voce"がオケの轟音に消されていたとしても、それはオケの「横暴」により「女神様」が邪魔されて非常にお気の毒だ、という「先生方」の同情のお声の大合唱が聞こえてくるようです。要するに、マイクがオケ側に寄りすぎていたのでしょう。それはそれで仕方が無いです。ただ・・・聞かせるべき所は然るべく声を出すべきだとは思うのですが・・・。

その後の細かいやりとりは、動画が長くなりすぎるので、カット。"Ma s’ ei forse l’ uccisore! ecco l’ unica sventura ch’ io pavento a me fatale."に飛びます。テバルディは「男爵の方が勝ったらどうするの?それを恐れているのよ」をそれまでより強めて歌っています。これが、ヴィオレッタにとって最悪の事態だからでした。

"Deh, partite, e sull' istante"も強い「とにかく早く帰らせたい」というのがヴィオレッタの衷心からの願いだから。"Ah, no giammai"は、見事に"no"にアクセントがついている。ですが、「先生方」はそんな「当たり前すぎる解釈しかできないから、この歌手は無能なのだ」とお叱りになることでしょう。

「かの方」。この方も目一杯お歌いになっています。そして、"ecco l' unica sventura"の"l'unica"で少々モタついたため、オケにおいて行かれそうになっておいでになるのも、「オケの配慮不足で女神様は苦労なさったが、大変立派に困難をお乗り超えになった」ということになるのでしょう。

"Deh, partite, e sull' istante"はこの方も強めにお歌いですが、この方の場合、私にとっては「当たり前のこと」をなさっているだけだとしても、「先生方」はこぞって、「これこそ、役柄に乗り移ったがごとき素晴らしい情熱の現れ」と最大級の賛辞でお褒めになるのでしょう。"Ah, no giammai"は、見事に"no"にアクセントがついて「いません」。そんなところにアクセントを付けた「ヴェルディの作曲ミス」だというありがたいお言葉を頂戴することになるのだろう、と。

この後の指示のある箇所。"di fuggirti giuramento sacro io feci"のところで、"(fug-)gir ti""giura""-mento""sacro"ごとにスラーで区切られていて、それぞれの頭にアクセントがついていること。テバルディのは、完全にへそを曲げたアルフレードに業を煮やして"Va, sciagrato!"あたりから声に暗いトーンを入れ、指示のあるフレーズは、見事にその通り区切っていて、頭にアクセントをつけている。そんなことは「先生方」にとっては、「取るに足らない凡庸な歌手の凡庸な対応」なのでしょう。

「あなたのお父様に言われて誓った」とは口が裂けても言えないので、男爵に言われて、と心ならずも噓をつくヴィオレッタ。アルフレードに"Fu Douphol?"と言われた後の"Sì"には(con supremo sforzo)というト書きがあるけれど、テバルディはそうしていない。台本作者の狙いは、「噓でも敢えて強烈に言って、本当らしく聞かせろ」ということだろうけれど、テバルディはそれが適切だとは思わなかったらしい。やはり、噓なので、すこしためらいがちの方が、この、根は率直で善良なヒロインの性格に相応しいという判断だったのではないかと。

"Ebben, l' amo"も"Ebben"がわざわざ入っている。開き直って噓がつけるなら、"Ebben"は要らない。"Sì!"だけで良かったはず。「(あなたが)そう言うなら・・・愛しているわ」というのと、「そうよ!愛しているのよ!」というのでは違う。ので、前のフレーズのト書きは本来は不自然。さて、こちらのテバルディの歌も"l' amo"は開き直って強めに歌っているけれど、"Ebben"は、ためらいがち。無理矢理ついた「噓」なので。しかし、私がこういうのを「詰めが細かい」と思ったとしても、「先生方」はまたしても「ありきたりの下らない解釈に基づいた、下等な表現」とおっしゃることでしょう。

「かの方」。歌い方はテバルディとほぼ同じ。ただ、こちらはオケが「うるさすぎて」"pien n' avea"を歌うと言うよりまたねじ込んでいらっしゃるのも、「先生方」には「女神様」の「ご苦労がしのばれる」となるはず。"Fu Douphol?" "Sì"を特に強くしていないのもテバルディと同じでも、こちらの場合は「凡庸」とはほど遠い、「大変ユニークなご判断」となる。

"Ebben, l' amo"の"Ebben"も歌というより半ば語りでねじ込んでいらっしゃる。「ためらい」も何もなく。しかし、「先生方は」これも「卓抜至極」な表現と絶賛されることでしょう。

次も長くなりすぎるのを避けるためバッサリカットして、いきなり"Alfredo, Alfredo"から再開することにしました。ここには頭に"con voce debolissima e con passione"という細かい指示。「弱り切った声で、かつ情熱を込め」。なので、テバルディはごく静かに入り。そのまま指示がなく、レガート、レガートで歌い続け、"del tuo disprezzo"でフォルテ。ところが次の"provato io l' ho"は"ancora pianissimo"「またピアニッシモに戻して」。テバルディの歌は・・・見事にその通り。

「かの方」。お声がテバルディより多少大きめなのはライブなので弱音にしきれないというごく当然の理由があるのですけれど、どうしても私には不可解だったのが、どうしてここでうわずり気味の音程でお歌いになる必要をお感じになったのか、ということ。更に、ここでまた、「私にとっては」問題と感じられた現象が起きている。

●「女神」様のチューニング不良(2)"provato io lo"の問題

というわけで、最初の三つの音がどうも半音高く、"io"はどこかへお捨てになったご様子。ただ、変なのは、"pro-va-to-io-lo"という音節の区切りに一音ずつ与えられているのに、"io"が消えると、音符が余ってしまう。これについては、よく聞くと、"pro-va-aa-to-lo"とおやりになって、つじつまを合わされたらしい。こういうのを、私のような「低脳リスナー」は「音程のコントロール不良および歌詞の歌い間違い」と解釈するけれど、「先生方」の場合はまるで違う。「おお、これこそ、女神様がヴェルディの不完全なスコアを完璧な形に「作曲」し直された快挙の例なのである!!!」と絶賛なさるでしょう。ただ、この方はこの役を1951年から歌っておられ、もうこのときまでに既に31回お歌いになられているのですが・・・。歌い慣れた演目の歌唱でこういうことをなさるのは、私はどうかと思うのですがね・・・。

その後はアンサンブルが入ってくるので、余り弱く歌うと消されてしまう。"Ma verrà tempo, in che il saprai"は"tempo"あたりを頂点にクレッシェンドとデクレシェンド。"come t’ amassi, confesserai..."も"(ammas-)si"を頂点にクレッシェンドとデクレシェンド。 "ti salvi allora! dai rimorsi, dai rimorsi, Dio ti salvi, salvi allor!"は最初の"salvi"あたりからクレッシェンドし、"Dio"の手前あたりが最強になって、その後はデクレッシェンド。テバルディは最後の"Dio ti salvi, salvi allor"の"salvi, salvi"をまたほのかに揺らして、自分を侮辱した男に温かい思いの限りを尽くして、「救っている」というという言葉に優しいトーンを付けている。"ah! io spenta ancora t’ amerò, t’ amerò!"ここは頭の"ah"が最強でデクレッシェンドし、"io"ではもうディミニュエンド。テバルディの歌は・・・見事にスコア通り。さすがに"t'amarò, t'amerò"は彼女の裁量で少々強め。(でも、最後の"t'amerò"では前のものより音量を下げているのです)「死んでも愛し続けるわ!」熱いメッセージを弱々しく歌うのは不自然だから。ただし、この「至極妥当」で「スコアに忠実」なばかりでなく、ニュアンスに富んだテバルディの歌は又しても「平凡」で「退屈きわまりないありふれた歌」の実例という酷評を頂戴するのでしょう。

「かの方。」"Ma verrà tempo, in che il saprai"は"tempo"あたりを頂点にクレッシェンドとデクレシェンド。ここも私にはうわずり気味に聞こえるけれど、調律師ではありませんから、何ヘルツ高すぎるのかは指摘できません。それに、指摘したところで、「この方のなさることは全て正しく、見事」だと決まっているのなら、それは徒労というもの。"in che"は明らかに違う単語をお歌いになっている(何とおっしゃっているのかは聞き取れませんでした)けれど、これも「先生方」にとっては「取るに足らないことであり、女神様の作詞の方がより高尚」となることでしょう。

"come t’ amassi, confesserai..."も"(ammas-)si"を頂点にクレッシェンドとデクレシェンド。こちらは「この方」の方が、"(ammas-)si"の微妙な音程の変化をテバルディよりはっきり歌い出しておられる。"-si"と歌っている間に2点ニ音から、最後の八分音符分だけ2点ハ♯に半音下がる。テバルディもやってはいるけれど、控えめすぎてほとんど聞き取れない。こうなると、「先生方」は「鬼の首を取ったように」「それ見たことか」と大騒ぎなさり、「凡庸な歌手による歌唱ミス」として徹底的に叩きのめしに世界中からはせ参じられることでしょう。では、「かの方」の、私にとっては3つもの音を半音スコアより高くお歌いになった「ミス」は?「だから、それはこのお方が作曲し直されたのだよ、馬鹿な女よ」と更にお叱りを頂戴することでしょう。

"ti salvi allora! dai rimorsi, dai rimorsi, Dio ti salvi, salvi allor!"この方の"salvi"の方は私にはテバルディほど温かく響いてこないとしても、これも「先生方」にとっては「これこそが適切な表現であり、テバルディのようなのは効果を狙いすぎた冗長さの現れ」とされるのでしょう。"ah! io spenta ancora t’ amerò, t’ amerò!"最初が最強故、この方の声が悲鳴に近い、と私が思ったところで、「先生方」は「何と、スコアを忠実に実践なさっていることか!」と感嘆なさる。(一方でスコア通りに歌っていないのが「作曲」になり、あらゆることが肯定される「べき」だと決まっていることをお忘れなく。)"io"でディミニュエンドしすぎて"ancora"が聞き取れないなどと私が指摘しても、「下らんリスナーの世迷い言」と大変なバッシングを頂戴するでしょう。

では次に移ります。"dai rimorsi, Dio ti salvi allor, spenta ancora pur t'amero"はさすがに全員歌いまくるので聞こえにくい。特に何の指示も出ていない。録音条件の違いもあるし、歌手の立ち位置の違いも収録音量には関係してくるけれども、ここではテバルディも「かの方」も響き具合は同じくらいと聞きました。

次。"ah, spenta ancora, spenta ancora, spenta ancora t’ amerò!"に指示。ずっとクレッシェンドをかけ続けろ、という。ここはさすがに、最後の"spenta ancora"がフォルテ。こちらは完全にテバルディの声は前に出ている。「先生方」にとっては「無神経に歌いまくる凡庸な歌手らしいやり口」という評価の対象になるとしても、ここで前に出られない歌手は私にとっては「非力」と思えます。

「かの方」はデカすぎるソリスト達とオケの音に埋没。これが「正しい歌」なのでしょう。

次。また、"dai rimorsi, Dio ti salvi allor, spenta ancora pur t'amero"を繰り返す。今度は同じ歌詞でもテバルディの声はずっと前に出ている。"ah spenta ancora, spenta ancora, spenta ancora, t’ amerò,"が出てくるところに指示。こちらは"spenta"あたりからクレッシェンドをかけ、また最後の"spenta ancora"でフォルテに持って行け、と。テバルディはスコア通り歌っている上、声がずっと前に出ている。そして、実は今まで言及しませんでしたけれども、同じ指揮者に指揮されているにもかかわらず、テバルディの方が遅く振られているため、当然より長く声を張り続けなければならなかったということは一応、指摘させて頂きます。

「かの方」埋没しがちで、時折前に出ていらっしゃいますが、これが「品位の高い、奥ゆかしい歌手」の証拠というお言葉を頂戴することになるのでしょう。

最後の2つの塊は同じ歌詞です。最初の"ah! t’ amerò, io spento ancor pur t’ amerò, pur t’ amerò"では"io spento ancor"の頭にピアニッシッシモ。"pur t' amerò"でクレッシェンドし、次の"pur t'amerò"はピアニッシモ。ここはテバルディの場合、クレッシェンドの指示のある"pur t'amerò"が一番はっきり聞こえます。それが当然でしょう。スコアの指示に従えば。「凡庸」と決められていたとしてもです。

「かの方」。邪魔な連中が静かになるところで、はっきりとお声が拝聴できるようになります。それがなんと、"io spento ancor, pur t'amerò, pur t'amerò"という、ppやpの指示のある場所。それまでのクレッシェンドやフォルテの指示の場所では埋没なさっていたのに、こともあろうに一番弱く歌うべき箇所で一番はっきり聞こえるのが私には奇妙に思えたとしても、「先生方」からすれば「これぞ強弱解釈の最高のあり方」となるはずなのはわかりきっている。

2度目の"ah! t’ amerò, io spento ancor, pur t’ amerò, pur t’ amerò"は"ah"がフォルティッシモである以外は先ほどと同じパターン。

「かの方」。こちらはお声が何とか拝聴できるけれど、某有名テノールの邪魔くさい声に遮られがちで、全くお気の毒の限りでございます。

最後にだめ押しで"pur t' amerò"。ここはクレッシェンドで最後の"(t' ame-)rò"がフォルティッシモ。テバルディの"pur t' amerò"はちゃんと聞こえてきて、最後の"t'amerò"はスコア通り、"-rò"が最強になっている。

「かの方」"-rò"だけを大きめにするなどという面倒なことはなさっていません。全部同じ音量でお歌いになったご様子。ですが、聞き取りにくい。でも、それが何だというのでしょう?「この方」のお歌は、たとえどのようであれ「最高」と決まっているのなら。

 

うーん、この記事も予想以上に長引きすぎました。早く切り上げたいのは山々ですが、もう一つ新たな記事に分割します。