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Voce d' Angelo レナータ・テバルディに捧ぐ

レナータ・テバルディの専門ブログです。情報、動画、鑑賞録など。

『椿姫』 聞き比べ(3)

前回が長引きすぎましたので、やむなくあと一回続けます。なお、このシリーズは重要なのですが、不人気のようなので、早めに投稿いたします。そして、次のシリーズも早めに開始します。そちらの内容を理解するためにはこのシリーズの音源をよく聞いて頂く必要があるのですが・・・。お忙しい皆様には余り気の進まない音源を強いて聞きたいという気持ちが起きなくても当然ではあります。ですが、必要なのですよ・・・。

なお、通例朝9:00頃に新記事を投稿しておりますが、明日の朝は用があって投稿できませんので、今日中に明日の分まで投稿します。あさっては通常通りに戻ります。

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ここは、最初、比較動画を作ったとき、導入部をカットしました。動画が長くなりすぎるのもどうかと思ったので。ですが、どうしても聞いて頂きたい、「女神」様の奇矯な(「何を言うか!この馬鹿者が!これこそ、オペラの革新的表現のあり方なのだ!!!という先生方のお声の大合唱には敢えてお答えするのを差し控えさせて頂きます。)

"Ah, non più"からしばらくは主な指示はありません。始めに、"oooooooora" "son foooooorte" "veeeeeedi"の長く書いた母音にトリルがついてきます。

その後、"Ma se tornando"の頭にピアニッシモがついている以外、主な指示はありません。では、動画を。

●女神様の幼児声


"Ah, non più"はほとんど、つぶやいておられる。やはり、末席観客のチケット代など、この方の「芸術としての完成」のためにはドブに捨てるのが相当らしい。このあたり、ずっと、幼稚園の子供の声を連想した私は「低脳なリスナー」の典型ですから、どうぞ、お構いなく。特に、"fu debolezza"で幼児性が顕著に聞き取れたのですけれど、これが、瀕死のヒロインの苦悶を「この上なく見事に表現した、どの歌手も真似のできない(それはそうでしょうよ、常識というものを歌手がわきまえていれば、こういうことはしないのが普通ですから)卓越した表現」だとおっしゃる「先生方」のお声が、耳が痛くなるほどガンガンと響いてきそうです。

突然、"ora, son forte"で元のお声に近いお声にお戻りになり、また"vedi, sorrido"で珍妙なお声に戻されるという大変な作業を成し遂げておられる上、「凡庸な」テバルディには決して歌えなかったトリルをきっちり決めておいでである。ならば、何の不都合がありましょうや???

"Fu nulla, Annina, dammi a vestire"も私にとっては、腹話術師が操っている操り人形が出している声にしか聞こえないにしても、これが「臨終の迫ったヒロインの最高の表現様式」の決定版と決まっている以上、そのような無粋な感想を抱く方がどうかしているのでしょう。"No, voglio uscire"の「ウッシーレ」の発音がぐちゃぐちゃになっているのも、「瀕死の人が綺麗に発音することの方がおかしいのである」というお声で全て解決される。

"Gran Dio, non posso"では何だか"Gran Dio"で人形を脱出されかかり、また"non posso"で戻られるという凝ったことをなさっている。さすが、「女神様」。

●「成人女性」のまま歌ったテバルディ


「先生方」とすれば、最初から最後までこういう声で歌うから、「この歌手は凡庸なのだ!!!」ということになるのかと。

例えば、"a un tempio, Alfredo, Andiamo, del tuo ritorno grazie rendiamo"のあとで、発作に襲われかかったかのように大きく息を入れたり、"È nulla, sai."を極力弱音にしたり、"Gioia improvvisa non entra mai, senza turbarlo, in mesto core."で、通常、息の非常に長い歌手がわざわざほとんど句の塊ごとにブレスを入れて息切れを表現しているのや、"E il mio malore! fu debolezza!"の最後では弱音にしつつ明るいトーンを入れ、恋人を極力安心させようという健気さを出していることなどは、すべて「ありきたりの歌手のありきたりの表現」として、あっさり却下されるでしょうね。

"ora son forte..."からは確かにトリルの痕跡も聞こえない。でも、テバルディには世界中からはせ参ずる弁護団なんてついていませんし、私は至極当たり前にその事実を指摘しています。都合が悪いからと言ってこそこそ隠そうとか、何らかの言い訳でごまかそうとかいった「フェアでないこと」は一切、しておりません。これだけはご理解頂きたいものです。

"Voglio uscire!"が強いのにはちゃんと合理的な説明が付けられます。このヒロインは自分が弱っていて出かけることができないのを信じたくない。だから、そんな思いを振り切るように、ここを強く歌うのですね。でも、そういう解釈は「平凡で何ら芸術的高尚さを感じさせないもの」と断定されることでしょう。

"Gran Dio! non posso!"の最後の"posso"にテバルディの涙が聞き取れないとしたら、耳と聴覚を司る脳の部分に問題があるので治療を要すると、私は真剣に心配するのですが、「そんなものは幻聴だ」と「先生方」は鼻でお笑いになるでしょうし、お聞き取りになったとしても、また「冗長な泣き」の例として罵詈雑言を頂戴することになる。


さて、ここからやっと比較動画に移ります。

3. ヴェルディ 『椿姫』 第三幕 フィナーレ


いきなり、"Oh, Alfredo, il crudo termine serbato al nostro amor, serbato al nostro amor!"のデュエットから。テバルディの方は声が聞こえてきますが、「かの方」は某有名テノール歌手のこれまたデカい声に邪魔されて聞き取りにくい。「先生方」は「死に際の女性がデュエットで相手を圧倒するのは不自然である」とあっさり片付けてくださることでしょう。

今更ジェルモンが到着して後悔するあたりから、ヴィオレッタの遺言。このあたりのやりとりに主だった指示はなし。

テバルディの歌は、最初は弱音で通す。"Grenvil, vedete? fra le braccia io spiro di quanti cari ho al mondo."だけは声を強め、この世で愛しいと思う人たちの見守る中で死ねることだけが、彼女に残された唯一の幸せなのだということを強調していました。

「かの方」。また幼児声あるいは操り人形に戻りかけられておられます。自分でまねをしてみるとわかりますが、「成人女性」のまま、色々なニュアンスを付けるのより、こうして「幼児声」のまねをする方が易しいのですよ。一旦声を作ったらずっとそれを通せば良いので。別に高級でも何でもありませんが、それは私のような「低脳リスナー」の考えであって、これこそ「この世に二つとあり得ない、独創性に溢れた天才的解釈」という「先生方」の絶賛のお声が嵐のようにわき起こるのが聞こえてきそうです。

「遺言」のくだり。"Più me t'appressa, ascolta, amato Alfredo"では最初のフレーズだけが強くて、"ascolta,"からは弱音で、透明な調子を出しているのがテバルディ。(勿論幼児声など出しません)「透明」なトーンで強い情念を抜いて衰弱を表す。更に、"ascolta"と"amato Alfredo"の間で大きく息をついて、辛そうな様子を出している。ですが、これも「先生方」は「平凡きわまりない、退屈至極な凡庸な表現」と断定なさるはず。

「かの方」。ここら辺は、なぜか、突如として幼児声を卒業なさいます。普通、幼稚園の次は小中学校、高校あたりを出ないと成人にはなれないのですが、「この方」には「およそ如何なることも可能」な全能の「女神様」歌手でおいでなので、このような離れ業でも難なくおできになる。さっきまで幼児だった人が急に成人らしくなるのが、いかにも奇妙に聞こえたとしても、それが何なのでしょう。その「瞬時に年齢を変えられるという技量」こそがまた「先生方」の「号泣」を誘うのであれば。

肖像の入ったロケットを渡すくだり。テバルディは、ほとんど同じ、透明、かつ、時々辛そうに息をつく、という調子で歌っています。唯一、"colei che sì t' amò"は重要なメッセージなので、何の指示もないですが、音高が2点へ♭に上がる"sì"を長めに歌って、フォルテあたりから弱音にデクレッシェンドをかけている。更に"t'amò"で入りを強くしこれもデクレッシェンドして、締めは優しい、弱音にしている。「先生方」は「言及する必要すらない、ありきたりの表現」とお切り捨てになるかと。

「かの方」。おやおや、成人なさったと思ったら、また半ば幼児に瞬間移動なさいました。"colei che sì t'amo"だけ、なんとなく中途半端に成人したような具合になっていますが、その微妙な中途半端さこそ、「先生方」によれば、「最高のコントロール力、巧妙至極な役作り」ということになるでしょう。"sì"だけがやけに長いですが、ここはテバルディと同じ理由ではないかと。ここだけ音高が2点へ♭に上がるので。ですが、「女神様」が「テバルディ」ごときと同じことをなさったなどと書いただけで、お叱りを受けそうです。

"Se una pudica vergine, degli anni suoi nel fiore"テバルディは弱音で通し、"vergine"と"fiore"だけ強調気味。ここだけ2点ホ♯に上がる箇所なので自然に歌った結果でしょう。ま、「凡庸」のお言葉を頂戴するのは分かりきったことです。

「かの方」。まだ「中途半端成人」を続けておられるようです。極力感情を表に出さず、人形か能面のようにお歌いですが、やはり"vergine"と"fiore"が目立って聞こえます。ほかは沈んでいて、特に最初の"Se una"は聞こえにくいし"vergine"の"-ne"は"n"がきつすぎて鼻にかかって聞こえます。ここの"n"は皆鼻づまり状態です。これも、「先生方」とすれば、「死期を間近に控えた女性特有の鼻づまり現象の巧妙な再現」ということになるのかと。

"a te donasse il core, sposa ti sia, sposa ti sia, io vo..."には最初の"sposa ti sia"にクレッシェンドの指示。テバルディは「成人女性のまま」"a te donasse il core"を非常に温かいトーンで歌い、スコア通り、1番目の"sposa ti sia"を相当強く歌い、次の同じ歌詞は少々苦しそうに息をつきつつ、わずかに弱音にする。"io vo"は弱音。私にはこの「温かく人間らしい声」の方が圧倒的に好もしく聞こえても、「先生方」にとっては「低脳リスナー」である揺るぎない証拠なのでしょう。

「かの方」。「中途半端成人」かつ極力能面らしく、感情を抜いて、ただスコアの指示は守っておられます。「先生方」は「滂沱の涙を流して」感激なさるのでしょう。私が「気色悪いだけでちっとも可哀想に感じない」などと言ったら、たちどころに方々からお叱りの言葉を頂戴するのはわかりきったことです。

"Le porgi quest' effigie, dille che dono ell’ è,"には"crescendo accentato con passione"という指示が。「クレッシェンド、かつ情熱を持って抑揚を付けて」です。テバルディはその通り歌っている。そして、"di chi nel ciel fra gli angeli"はクレッシェンドで"fra"あたりで最強にするように指示があります。確かにクレッシェンドがかかっていますが、"fra"なんて前置詞に強勢を置くようなのは本来、相応しくない。テバルディは"angeli"(2点イ♭)を弱音でこの上なく美しく歌って、こちらの方を目立たせる。"prega per lei, per te."はまた弱って、震えた声に戻しています。このような"angeli"に感動するのは、又しても「愚鈍かつ凡人の紛れもない証拠」という「先生方」のお叱りを頂くのは覚悟の上です。

「かの方」。どうやら、弱音は「中途半端成人」あるいは「人形」で、声を張るときだけ「成人女性」になるという離れ業をなさることに挑戦されているようです。それがまた「先生方」の絶賛の嵐に包まれることは容易に想像できるのですが、次の問題についてはどういうお言葉を頂戴できるのでしょうか?

●「女神」様のチューニング不良(3)"fra gli angeli"の問題


この"fra gli angeli"の1度目の"2点イ♭音ですが、標準の830.6ヘルツではどうしても合わない。ソフトのピッチ調整機能で、MuseScoreの出した2点イ♭を約857ヘルツまで上げると、「この方」の歌った音に近づきます。半音きっかりうわずられるなら、「新たな音符をお与えになり、作曲に貢献なさった」という解釈も成り立つでしょうが、このような中途半端なピッチのうわずりについては?ああ!聞こえて参りました!「先生方」のお声が。「おお!これこそ、女神様による、21世紀を先取りした、新たなる音のご発明なのだ!!!」という。そういうことなら、せめて私も「新しい音を発見したで賞」くらいは頂戴したいものですが・・・。さんざん罰当たりなことを申し上げた以上、それを望むのは無理なのでしょうねぇ・・・。

次はだんだん重唱に入ります。大きな指示は、こんどは、まさにこの"di chi fra gli angeli"の箇所についています。クレッシェンドして"aaaaaan(-geli)"が最強になるように指示が出ています。(フォルティッシモです)テバルディはその通り歌って、最後のメッセージを必死で伝えるヒロインの姿を描き出し、その後、苦しげに大きく息をつく。

「かの方」なにしろ、周りのソリストが邪魔で邪魔で。折角先ほど画期的な「新しい音」を発明なさったのに、その再現を聞き取ることができませんでした。聞き取れたのは入りの"Le porgi quest’ effigie, dille che dono ell’ è,"極力ほほえましい人形芝居をお続けになり、もうすぐ死ぬのに周りのソリストをかき分けるような巨声を出すなどという「不自然なこと」はいくらスコアに書かれていても守るつもりなどない、という堅いご決心を聞き取ることができます。おお、何とこの方の「ご自分のため」の「芸術としての完成」への情熱の熱いこと!

最後の最後。"È strano!"には(rianimata)「再び活気づいて」のト書き。"Cessarono gli spasimi..."以下の、音高の同じフレーズには(parlando)「語りで」のト書き。"Ah!, ma io,"はクレッシェンド。 "ah! ma io, ritorno a viver!"にはト書きで(agitatissimo)「非常に興奮して」"Oh gioia!"指示なし。"giooooooooo"が2点ロ♭まで上がり、"-ia"で2点イ♭に一音下がる。高音なので、また必然的に目立つようになっています。その後、ヴィオレッタのご臨終。

テバルディの場合、"gli spasimi del dolore"あたりは強めの声で、しかし不安定に声を前に出したり引っ込ませたりしながら半ば語る。"in me, rinasce, rinasce"は"in me"が弱いけれど、後はほとんどヒステリックなまでの勢い。"m' agita insolito vigor"は"m'agita"が強く、"insolito vigor"で引っ込む。ミミの死に際のように声の強弱を意図的に強めたり弱めたりして、不安定な調子を出し、もうすぐ最期を迎える人間の最後の活力の復活を描いている。"Ah!, ma io..."からは、スコアの指示通り。"Oh! gioia!"で強烈な声を張って、最後は急に声を途切らす。ま、「先生方」は「くさい芝居」でお片付けになるかと。

「かの方」。最初の入りは、ほとんど聞き取れないほどなので、また末席観客は犠牲にされたようですが、そんなことは「高尚な芸術」がかかっている場合、問題にならない。そのまま、語り口調でずっと頑ななまでの「職人魂」のようなものを見せつけておられる。"Ah! ma io,"も特に強くない。次の"ah! ma io"でようやくお声が響き出す。そのあとは"gioia!"が何とか聞こえるだけ。それが「至高の芸術家であり世界最高のプリマ・ドンナによる誰にも匹敵できない臨終の表現の輝かしい記録!!!」なのであれば、私がこれ以上くどくど言う必要など、何もありません。

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さてさて、「ブラック」なトーンから私もテバルディのように「トーン」を変えます。元の私に戻るということです。

相当辛抱強い読者の方々でなければ、このシリーズについておいでになるのは苦行に近いものがあったであろうと。ですが、どうしてもこれは取り上げざるを得ませんでした。

「まさか、あなたの書き方は誇張しすぎなのじゃないのですか?」というお声が聞こえるようですが、そうではないのですよ、と申し上げておきます。

こちらを訪れてくださる方々が、実際はテバルディの音源をできるだけお聞きになりたいとお思いなのは十分承知しております。ですが、私はこれ程立派な、「同じ人間の一人としてこの上なく共感できるヒロイン像」を作ることの方が重要で、「末席の観客とも歌声を通してコミュニケーションをとりたい」と考えていた、人間として、歌手として非常に立派な信念を持っていたテバルディが、見当違いな罵詈雑言を浴びせられているのを黙って見ているつもりはないのです。

「かの方」の「人形芝居」が死に際のリアリズムを目指されたものだったとしたら、はっきりと見当違いだと申し上げられますし、テバルディも別にリアリズムを目指したわけではありません。極力苦しげな表情を付けることで、痛ましいヒロインの姿を表現し、聴衆の同情と哀惜の気持ちを掻き立てたかっただけです。「幸せになって欲しいのに、死んでしまうの?そんなの酷い!」そう思わせられなければ、失敗なのですよ。「オペラとリアル」で書いたとおり、「リアル」であるかどうかは関係ありません。「造りもの」にしか過ぎないヒロイン像から、どうすれば観衆の最大限の共感や感動、興奮を引き出せるか、その方が歌手にとっては重要なのですから。

「伝説」というもののなかには、実態は中身の薄い、かさ上げされた空中楼閣であるに過ぎないものもないとは言えないのです。「伝説」という「お墨付き」がついてしまうと、その中身をじっくり確かめる必要を感じない方が沢山出てしまい、結局、それほどの値打ちがあるのかどうか、検討されることがなくなってしまう。そういう誤解の集積で、ある人の「名声」が作り上げられている可能性だってないわけではないのです。その中身を確認するために少々骨を折ったまでのことです。

そのような理由から、次からは、種々の「先生方」がお書きになった文章を詳細に検討するというシリーズを何項か設けさせて頂きます。私のこれまでの書きぶりが、大げさではなかったということがご理解いただける上、そのようなことがそっくりそのまま、「大まじめに」行われていたのをご確認なさることができるでしょう。