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Voce d' Angelo レナータ・テバルディに捧ぐ

レナータ・テバルディの専門ブログです。情報、動画、鑑賞録など。

テバルディに対するバッシング、他方で・・・シリーズ1(1) 

シリーズIというからにはIIも予定しているのですが、それは相当先のことになると思います。

とにかく、とにかく、テバルディという人はこれでもか、というほど専門家の方々のバッシングの対象にされているのです。私は、彼女が必要以上に褒められなければいけない、とは決して思いません。私が問題にしているのは、「必要もないのにマイナスな書き方をされたり、はっきりと中傷されたりして、ご生前に人権を侵害されたこと」です。そんなことをされるいわれは何もない。人権は誰もが持っている権利である以上、当然のことです。

私が考えられる彼女の欠点は、ハイCが上がりきらないことがあったこと、早いパッセージやトリルなどの装飾の歌唱ができなかったこと、引退の時期を誤ったこと、ただそれだけで、歌でヒロインの気持ちを聴衆に伝える力は十分すぎるほど持っていたし、なだらかなメロディーラインの曲を盤石の安定感で歌えるという点ではむしろ大変優れた技量を持っていた人です。舞台上での演技も上手いとは言えなかった。ですが、幼少期ポリオのため5年間もベッドから起き上がれなかったというハンデを考慮に入れるべきなのです。活発に体を動かして、運動に関する感覚をつかむため重要な時期に。そして、ご本人はそれを言い訳として一切口にしようとなさらなかった。どちらかというと思い出したくない苦しい記憶だったからです。

欠点を指摘されるのは仕方がない。ですが、優れた点についての言及は乏しい。それに、これから読んでいただくのは、そうした「明らかな欠陥とはまるで関係のないことで」彼女がバッシングされるなり、バッシングとまでは行かなくても、マイナスなイメージの記述で人格を傷つけられた例なのです。

それと同時に、そうした記述とは切っても切れないものであるかのように、前のシリーズで問題にした「かの方」が、必ず異常に持ち上げられている。これも実は非常におかしなことなのです。「必要以上に持ち上げられる」「十分な根拠を伴わないプラス評価」は明らかに不当であって、「音楽評論」を謳っている書物やインタビュー記事などで事実と違うことを書くのは、「虚偽の報道」あるいは「ねつ造」にあたってしまうのです。

本丸の「バッシング」の例は最後に回させていただきます。最初は、マイルドながら、(これでも・・・マイルドな方なのですよ)テバルディについて読み手がマイナスな印象を持つように仕向ける意図を感じる記述がなされた数例を。

今回は出版データ、引用部分ともに画像で公開させて頂きます。どれだけ酷い記述がなされているか、私が改ざんしたものではなく、実際に書かれているのだということをご理解頂くため、スキャン画像を使用するのです。なお、引用部分から、元執筆者が使用した表現を私の文中で繰り返す際には【 】で囲わせて頂きます。「 」は私がある表現を強調したいときにいつも使用してしまっておりますので、それとは別であるということを認識して頂くためです。なお、スペースの関係上、画像はある程度縮小してあります。PCの場合クリックすると原寸大でご覧になれます。(別画面に映りますので、元画面に戻るには、画像右上の小さなxをクリックすると元の画面の戻ります。)ただし、スマホでご覧の皆様はどうもタップしても拡大されないようなので、画像を拡大表示できるよう設定頂くか、アプリをご用意くださいますようお願い申し上げます。

(1)まずは、Patrick O' Connor氏が『グラモフォン』という雑誌に投稿した記事から。(あらかじめ書いておきますが、この人は完全にテバルディに否定的なわけではなく、ミトロプロス指揮の下でテバルディが残した名演のようなものは、デッカが買い取って、正規にリリースし直すべきだと、同じ記事で書いていることも確かです。)

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この記事で私が非常に奇妙に感じたのは、"analytical, Freudian approach"【分析的、フロイト的アプローチ】なるものに従った歌唱が、一体どんなものにあたるのか、わかるように示されていないことです。例えば、何年収録の何のオペラの、どこのフレーズがそれにあたる、というような具体的な記述を省いてこのようなことを書かれても、読者は困惑するだけではないでしょうか。

そして、「かの方」は一体どこでフロイトの心理学理論に基づいてある芸術作品を分析し、その解釈に基づいて歌唱するなどということを習得できたのでしょうか?「かの方」にそのような事柄を習得する暇も、機会もなかったはずです。私は学生時代、文学評論の手法をあれこれ習わされましたが、どんな天才でも、数年で「心理学的知識に基づいた芸術作品の的確な分析手法」を習得することは大変難しいのです。「歌唱法」を中心に訓練を受けていたはずの「かの方」にそれを習得するゆとりがあったとは思えません。このような表現を安易に用いたこの筆者の不注意に、まず、驚きました。

"emotion-packed"【感情の詰まった】と訳しましたが、これは翻訳が難しかったからです。結局、ここで指摘されている、テバルディの録音に「詰まっている」という"emotion"というのは、私が追っているような微細な感情表現のことではなく、「目立つ効果音」のことを指していると思われます。さすがに私でさえ、『蝶々夫人』でのテバルディの豪快な笑い声には引きますが、その他の、ミミの「咳」や「泣き声」、トスカの「泣き声」など、この手の方々が非難なさる点については、このように十把一絡げに否定的にお述べになるのは適切ではないと思います。場合によっては、入れた方が前後関係が自然に聞こえるのですから。カバリエやフレーニやスコットなどはこういう批判を気にして「効果音」を一切入れなくなりましたが、結果は「退屈」になっただけだと私は思います。こういう乱暴な批判でテバルディが叩かれたから、後輩歌手達は縮こまってしまったのですよ。

更に、ここも呆れたのですが、テバルディの歌唱について、もはや常套句的に用いられている"bland"【味気ない】という単語を、これもまた安易に用いて、彼女の歌唱の細かい点について顧みることなく、この一言で彼女の歌唱の「全て」を概括するという乱暴なことをしていることです。こうした「概括」的な評論の方が多くて、細かなフレーズごとの分析などがないことの方が多いので、私は「音楽評論」というものを信用しないのです。はっきり申し上げて、「音楽評論」は「評論家先生方」の個人的な思い入れの吐け口になっているだけで、科学的根拠や実際の演奏の部分に対する言及が少なすぎる。実際は、数値的に計測したり、音程を確認するというような「科学的分析」で見えてくることが沢山あるはずであるにもかかわらず、です。個人的な思い入れの表明なら、ただの「感想文」でしかありませんから、万人を説得できるような力のないものです。「音楽評論」の手法は余りにも時代遅れです。テバルディの歌唱が"bland"とかおっしゃる前に、ご自分たちがいかに時代遅れの手法で芸術作品を分析しているか、それを顧みられるべきではないのかと思いますが。

「文学評論」でさえ、教授に「これは科学だから、評論文を読んだ者がみな納得できる根拠が付けられないようなただの感想は書いてはならない」と厳しく指導されました。「音楽」には数値的要素も沢山ある。「文学」より遙かに「科学的評論」を確立するのは容易なはずですが・・・。

テバルディの歌が"generalaized"【一般的な】解釈だから退屈、というような記述については・・・これも呆れましたが、私の「オペラとリアル」の項をお読みいただきたいと。一般的聴衆が聞いて納得しやすい表現をしながら、ヒロインの感情を雄弁に伝えることの方が、「あっと驚くような変わった表現」で聴衆を驚かせることより難しく、より、歌手の自己顕示欲をむき出しにするのを避けた表現なのだという意味のことを書かせていただいたのです。それを"generalized"と見なすのも、この筆者が綿密な鑑賞をする努力を省いているという、何よりの証拠なのです。細かく録音の細部を指摘する記述を省いて、"generalized"な歌、と決めつけているからです。ちゃんと聞き込んでいたら、そもそもこのような感想は抱けないし、(テバルディの歌は、他の歌手のものよりずっと詰めが細かいですから)一般的聴衆が、「ああ、こういう気分を表したいのだな」と容易に予測できなくて「???」と思ってしまったら、ヒロインの感情をその歌手がどう解釈したか、伝わらなくなってしまうのです。

(2)おおもとは某出版社の定期刊行物に連載されたインタビュー記事を書籍にまとめたものから、テバルディに対するインタビューの項より。

表紙と出版データはこちら。

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こちらは、2カ所を引用いたします。

① 特に問題なのはこちらの方。

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私はA、B、Cと印を付けましたが、まず問題なのはA。この方の文章には、例えばガブリエラ・トゥッチの項もそうなのですが、歯の浮くようなお世辞が書かれていて、それがこの方のお書きになっていることの信頼性をある程度損なってしまっているのです。【若い頃と同じように瑞々しい】は事実と違います。テバルディの声は、はっきり言って、年老いてからはかなりしわがれていましたし、低く、重くなっていました。私はYouTube上で彼女が若かった頃に収録されたインタビュー映像と、年取ってからの映像を両方見ていますから、わかります。この記述はお世辞以外の何物でもない。いくらお世辞でも、噓を書いてはいけないと思います。

次、B。【確かめるように】とは何でしょう!まるで、彼女が「若い」と言ってもらいたいと期待たっぷりに待っていたかのような調子です。こういう書き方には、直接的ではないにせよ、テバルディがまるで「若さ」にしがみつきたがっていたかのような暗示を感じさせる効果があって、マイナスなイメージを受けます。その後の筆者の本当に歯の浮くようなお世辞は又しても読んでいて不快です。この筆者の誠実さが、また疑問に思えてしまうのです。

C。これが一番たちが悪い。【媚】とは何でしょうか!!!勿論、彼女の写真の中には少々「媚態」がつきすぎているものもありますが、そういうものはほんの数枚です。まるで彼女が【媚】を売って更に賛辞を引き出そうとする安っぽい女性のような印象を与える文章です。この筆者は、読者が誰も皆、それに気づかないほど鈍感だとでも思っているのでしょうか?馬鹿にしていただきたくないものです。

② もう一つ、テバルディ自身にマイナスなイメージを付加してはいないにせよ、「かの方」を「特異現象」だったかのように書き立てる、このご職業の方々の「お約束」が又しても出ている部分。

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【台風】 【一つの風俗】 【一つの時代】【音楽のあり方にも影響を与える】・・・大仰な文句のオンパレード。はっきり申し上げて、これは現実と違います。現役時代は人気はほとんど拮抗していたのです。こういう著述家たちが、こうした語法を駆使して、さんざん「かの方」を宣伝なさったが故に、あちらは等身大以上に年々肥大化しただけのことです。

【一つの風俗、一つの時代】 になるためには、誰もがその方のファッションを真似するとか、癖や趣味を真似するとかしなければなりません。ですが、現実は「かの方」の方があるハリウッド女優の専属スタイリストを許可を受けて借り受けたのです。【音楽のあり方】 が変わったというのもさんざんこれらの方々が私達読者にすり込もうとした努力の結果でしかない。「かの方」が復活させたと言われているオペラ作品は実は前から上演されていました。そして、テバルディも滅多に上演されなかったオペラを(好んでではないでしょうが)歌うため起用されていたのです。はっきり申し上げますが、「かの方」が一人でオペラの歴史を変えた、というのはこういうジャンルの執筆家による、後からの「でっち上げ」です。

テバルディの方に戻ります。【現役中、受けてよいはずの評価を受けなかった】 も又しても間違いです。現役時代は拮抗していた、と申し上げたとおりです。現状に引きずられた誤情報であって、それにテバルディ自身が同意したというのもおかしいのです。本当にこの方は彼女に直接面会して、聞いたままのことをお書きになったのか?本当は録音テープか録画がなければ確たる証拠は何もありません。取材した風を装おって出鱈目を書くこともできます。それがされていない、という保証はどこにもない。こんな書き方をされると、この記事自体の信頼性が薄くなるのです。

こういう文章を読まされると、何も知らない読者はどう思うでしょう?まさか、「拮抗していた」とは思わないでしょう。「圧倒的に負けていた」と思って当然で、そのように読者を誘導している、という責めを受けてもおかしくない記事です。これも、事実を知っている読者の存在を甘く見た、「読者を馬鹿にした」記述でしかないのです。

(3)某出版社による、オペラ歌手の紹介本より。

表紙と出版データはこちらから。

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この本は以前の私のブログでご紹介したことがありますが、中身までくどくど触れませんでした。こちらも2カ所を引用いたします。

① まずテバルディについての記述。

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ここで、最初に大変な「えこひいき」が感じられるのは章の項目の立て方。色々な歌手を平等に紹介するのがこういう書物のあり得べき姿であって、誰かを突出させるのは明らかに偏りがあると言われても仕方がないのです。ここは章の大項目に「かの方」のお名前だ・けがそっくりそのまま使われています。こういう扱い方は明らかな偏向です。

次。一見、テバルディを褒めているようですが、あらゆる書物は注意深く読まなければならないのです。何が優れていて、何が良くないか判断するときには、真剣に鑑賞されるに値するあらゆる音楽が注意深く聞かれるべきであるのと同じように。(私はBGMとして流しているときまでそうしろとは申しておりません。)

赤線を引いたところは問題なくても、青線の部分の言葉の選び方には、あたかも「サブリミナル効果」でも狙っているかのような、さりげない、マイナス・イメージのすり込みの狙いが感じられるのです。

【地味な扱いに甘んじた】 ? エリザベッタ・バルバートやオネリア・フィネスキの実力と大して違わなかったのにテバルディだけ、デッカに目を付けてもらえたからプリマになれたような記述の部分もありますが、そこは省きました。ただ、この筆者はどういう基準で 【地味な扱い】 という表現をしたのでしょうか?確かに、テバルディがロヴィーゴでデビューしたとき、マルゲリータの方を歌ったのは、フィネスキです。ですが、それだけをもって 【地味な扱いに甘んじた】 というのは明らかに彼女の歌手としての実力を蔑んでいるような表現です。

【50年12月の・(略)・ようやくシーズン開幕公演に起用されている】 これじゃあ、バルバートやフィネスキの方がずっと早くからスカラ座バンバン歌っていたみたいに感じませんか?ですが、事実は違います。

スカラ座のデータベースは、スカラ座自体が第二次世界大戦で崩壊したため、1950年からのデータしか出てきません。ですから、もしかすると、この二人の方がもっとメジャーな役に盛んに起用されていた?それは違うはずです。スカラ座は、申し上げたとおり、戦争が終わったからといってすぐには再開できませんでした。工事中だったからです!その時、スカラ座の劇団が仮に会場として使っていたのはおなじミラノにあった、Palazzo della SportやTeatro Liricoです。工事中だったから、スカラ座自体では歌えなかっただけです!テバルディは再開コンサートのあった1946年の5月、Teatro Liricoで既にマッダレーナを歌っていますし、Palazzo della Sportでの『メフィストーフェレ』では7月こそまたフィネスキがマルゲリータでテバルディがエレーナでしたが、8月にはもうテバルディがマルゲリータを歌っているのです。同年9月にはPalazzo della Sportでもうエルザを歌い、12月にはコンサートに出演。これにはここにあげられている他の2人は出演していない。これらのことはCronologiaに明記されています。マッダレーナやエルザはテノールが主演なので端役だとでも言いたいのでしょうか?大変な役だといった方が適当でしょう。再開コンサートのあった年にもうこのような役に起用されているのに、あのような書き方をするのは適切なのでしょうか?ともかく、7月の『メフィストーフェレ』は、はっきりスカラ座の楽団・合唱団との共演とCronologiaに書いてありますから、その時点でスカラ座デビューしたと言って問題ないのです。劇場が壊れていたから公式デビューではなかったかのような書き方は明らかに事実確認の不徹底を表すものでしかないのですよ。

ちなみに、データベースで確認できる限りでは、1949-1950年シーズンの記録が最初です。この1950年の最初の『ラ・ボエーム』(49年12月から1月にかけて6公演)こそ、ミミを戦前から歌っていたマルゲリータ・カロージオが歌いましたけれど、テバルディはもう50年1月に『ファルスタッフ』のアリーチェに起用されています。7公演のうち、5公演です。残りの2公演はこれも戦前に名声を確立していた、マリア・カニーリアが歌いました。アリーチェはアンサンブルの一人に過ぎないとは言っても、出演女性歌手の中では目立つ役です。そして、重要なのは、テバルディが歌う必然性はなく、もしバルバートやフィネスキの方が彼女より既に人気があったのなら、わざわざテバルディを起用する必要はなかった、ということです。劇場が再建された時点で、もうテバルディが人気を確立していたと考える方が自然なのですよ。そして、2月にはもう『アイーダ』を歌っています。【『オテッロ』でようやく】などというのはやはり、悪意のある、彼女を見くびった記述なのです。この『アイーダ』は10公演ありましたが、私は決して出鱈目を書きたくないですし、あくまでもフェアでありたいので、このうち4公演は「女神様」が起用されていることも申し上げておきます。1人で10公演歌うのは、さすがのテバルディでも負担に感じたのでしょう。このシーズンには『トスカ』も上演されましたがこれは全8公演のうち4公演をカニーリアが、残りをジンカ・ミラノフが歌っています。どう思われますか?結局、新旧歌手の交代期に大役を任せられると考えてもらえたのはテバルディと「女神様」だったのですよ。ミラノフは二人よりずっと年上だと言うことはもう「略伝」で書きました。

もう一つ、オペラ上演の歴史を正確に伝えるのが目的のはずのここの記述にはっきりと過ちがあるのも発見しましたので指摘させて頂きます。 【ようやく】 起用されたというテバルディの『オテッロ』での初出演は 【1950年12月】 ではなくて「1949年2月」だったのですよ!「開幕公演」の方にこだわりたいのなら、12月がスカラ座のシーズン開幕ですから、既に1948年12月のグノーの『ファウスト』でマルゲリータを歌っています。(このあたりの私の最初の記述には誤りがありましたので訂正いたします。)音楽専門の出版社が間違いだらけの記述や偏向に満ちた記述で書籍の信用価値を自ら落としても良いのでしょうか?一体、この会社の方々はどんな仕事をなさっておられるのでしょう?基本的な事実確認もしっかりできないような出版社の出版物など、参考にならないし、してはいけないとさえ思うのですよ!

さて、バルバートのスカラ座出演は1952年の3月に4公演、"Proserpina e lo straniero"という、私も知りませんがこちらをご覧の皆様も、もっと広く、日本のオペラ・マニアの方も多分ご存じないと思われるオペラの主役を歌っただけで、他に出演記録はありません。

フィネスキのスカラ座出演記録は1953年8月と10月に4度行われたコンサートの出演が初めてで、後は1960年になって(!)シミオナートがタイトル・ロールを歌った『カルメン』の公演でミカエラ(これが脇役だと思わない方は、このオペラを知らない方です。)を、ガブリエラ・トゥッチとのダブル・キャストとして6公演だけ歌っただけ、です。スカラ座で主役を張って歌った記録など皆無なのですよ。おまけに、16公演のうち10公演はトゥッチが歌ったのです!「女神様」と競争させられるのにうんざりしてテバルディがスカラ座を去る前には、さんざんあそこでプリマの役を歌ったことはご存じの通りです。こちらのお二方は、申し訳ないですが、あそこでほとんどお歌いになっていないし、メジャーなオペラの主役など夢のまた夢だったのが事実なのです!そういう方々が、データの残っていない年にはテバルディより盛んにプリマの役を歌ったとでも言いたいのでしょうか?それなら、なぜ、その後のキャリアがこんなに急に収縮したのでしょう?テバルディがデッカに起用されたから、52年にはもう完全に逆転されたと言いたいのでしょうか?では、先ほどの、全曲録音発売前の出演記録は?それに全曲録音が発売された(1951年)から、たった1年のうちにその前は自分より圧倒的に人気のあった歌手たちを追いやれたとでも?そんなことがあり得たと考える方が不自然です!

その後の記述にはもっと悪意に満ちた含みが。【大プリマドンナにのしあがっていく】 【のしあがっていく】 ?なぜ、「成長した」というような、中立的な表現ができなかったのでしょうか?

【のし上がる】 という日本語の語義を手持ちの岩波書店広辞苑 第五版』で引いてみました。トップの語義は、「のさばって物の上に上がる。横柄にふるまう。つけあがる。」です。圧倒的にネガティヴなニュアンスの言葉なのですよ。全くそういう人柄の人ではなかったテバルディを描写するのに、これ程不適切で悪意のある言葉の選択は考えられません。初めて読んだ瞬間から、私は不快感を覚えました。

② 次。「もれなくついてくる」、というか、こちらを本題にしたいのであって、テバルディはいわば「前座」なのが、この業界の「お約束」。

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コペルニクス的転換】 【革命】 【起爆剤】 。アッレーグリ本と申し合わせたかのような大仰な言葉のオンパレードが又しても披露されていますね。

音楽家のレパートリー選びについて 【コペルニクス的】 とかいう表現が用いられること自体が奇妙だとはお思いになりませんか?しかも、この筆者様はこの言葉を間違ってお使いなのですよ。正しくは、「コペルニクス的転回」であって「転換」ではありません。「コペルニクス的転回」の語の出所はエマニュエル・カント(哲学者です!)。原語では"Kopernikanische Wendung"です。カントは、それまで、「対象」が主で「人間の認識」が従だと考えられていたのを、「人間の主観の構成」が主であって、それから「対象の認識」が生まれるという「考え方の逆転」を唱えたのです。「あるものが存在する→私が認識する」ではなくて、「私があるものを見る→認識」なのだと。だとすると、先ほどの文章でこのような語が用いられるのは不可解千万ではないでしょうか?文脈から浮いていて、前後とつなげると意味不明になるからです。「あの方」を語るためには、無理に知ったかぶってまで高級そうな言葉を並べ立てなければならない、そういう明確な意図、強引なまでの意志が感じられる。これは、偏向でなくて何なのでしょう?

単にイゾルデやクンドリーやトゥーランドットばかり歌っていても疲れるだけで、華々しい人気がすぐに出ない、ならば人をあっと言わせやすいコロラトゥーラの入ったレパートリーを積極的に歌う方に方向転換しよう、と考えただけのことが、このように大仰に書かれなければならない必然性が、どこにあるのでしょうか?

「かの方」がベル・カント・オペラの改革者であるように称されるのも「お約束」になっていますが、そんなことはありません。【劇的な迫力】 さえ付けられれば直ちに「名演」になるとでも?私はそうは思いません。私自身、彼女の『ルチア』のライブ(カラヤンが振ったときのものです)、『清教徒』『夢遊病の女』『ノルマ』などを聞きましたし、今も所蔵していますが、正直言って、『ノルマ』以外は、いくらアジリタが上手くても、はかなげなヒロイン像とはまるでマッチしない歌唱に違和感を感じただけでした。そもそも、ベル・カント・オペラに 【劇的な迫力】 をつけるのは、演目によっては不適当になってしまう。『トスカ』や『・・・シェニエ』のようなヴェリズモこそ、【劇的な迫力】 が必要ですけれど、無理矢理「狂乱の場」を入れるのがお約束のため、大抵ヒロインが異常に繊細で、ちょっとしたショックで精神のバランスを崩さ「なければならない」一部のベル・カント・オペラに、【劇的な迫力】 は場違いなのですよ。そして、『ノルマ』だけなら、ローザ・ポンセルが既に主な部分の立派な歌唱を残しています。遙かに聞きやすい声質で。

確かに、アデリーナ・パッティや、ルイーザ・テトラツィーニや、ネリー・メルバ、アメリータ・ガリ=クルチ、ルクレツィア・ボーリ etc..etcのような戦前の歌手達がベルカント・オペラを歌っていたとしても、白痴美的と考えられがちです。しかし、これらの方々の音源は、SPの中でもどちらかというと録音技術の低かった時代にしか歌声を残せませんでした。そうすると、歌唱のニュアンスがあらかた消えて、メロディーラインを聞き取るのがやっと、の、細ーい声しか入らないという結果になるのです。(私はこうした方々の音源がCD化されたものを聞いていますから、知ったかぶってはおりません。未だに持っているものもございます。)それほど録音条件の悪い中で残された歌手の歌唱より「かの方」の歌唱の方が迫力が感じられるからと言って、直ちに 【革命】 を起こしたと決めつけて頂いては困るのです。それに、はかなげなヒロインを歌う場合は、こうした歌手の歌唱の方がむしろ好もしい位なのです。(テトラツィーニは・・・上手すぎて余計な音を付け加えたりしていますから。そういう歌唱が良いとは言いませんが)勿論、このような歌手達は、イゾルデやクンドリーを歌うというようなことはしませんでした。ですが、それは賢明な判断からです。歌手として長く活躍するためには、無理をしない必要があります。無理をしないで、声をいたわり、自分の歌手生命を保つことを大切にするのがまるで「保身」や「平凡」のように語られ、ワーグナーからベル・カントまで歌うという自殺行為をすることが「大変なお手柄」のように語られるのは不当なのですよ。他の歌手がそういう危険なことを避けたのは「職業歌手」として当然の判断で、「かの方」が少々「やりすぎた」だけの話です。それを「美談」に仕立て上げるのは、正しい音楽教育を普及させるべき出版社のすることではないはずです。

「かの方」の上演をもって初めて、ベル・カント・オペラが 【虫干し】 状態から、【熱狂】 を呼び起こす 【人気演目】に変貌した、というような記述も、読者を誤った理解に誘う誇張です。戦前からのデータが残っているのは、メトのネット資料館だけですから、(本来は、戦前は当時の大英帝国の首都、ロンドンのコヴェント・ガーデンの方に歴史的権威があったのですが、あちらのHPにはデータベースすらないのですよ)そこで調べてみました。『ルチア』に関しては、1900年1月1日から1940年12月31日までの間に141回(ただし、これはそのシーズンにこの演目が選ばれた回数を示しているだけで、実際の公演数ではありません。1シーズンに同じ演目が何日かに分けられて何回か上演されることは常識で、そこまで確認する余裕はありません。実際舞台で上演された回数は、もっと多い、ということです。)『ノルマ』は34回、『清教徒』は7回、『夢遊病の女』は16回、『連隊の娘』は27回、などなど、ベル・カント・オペラが 【人気演目】 ではなく、専門家の好奇心のためだけに上演されたのなら、とてもこのような回数、舞台にかけられることはなかったはず、と信じられる程度に、メト「だけ」でも上演されていたのです。【何十年かに一度】が聞いて呆れます。私は長めに、40年のスパンを取りましたが、【何十年かに一度】というのが明らかに誇張だというのがおわかりですよね?コヴェント・ガーデンの資料が検索できたら、もっと沢山の上演例が発見できたかも知れない。劇場は、チケットの売れない演目など上演しませんから、「かの方」が現れて初めて一般聴衆が 【熱狂】 し始めたかのような書き方は明らかに故意による読者の誘導です。「かの方」は活躍期間がそもそも短かったので、いくらご立派にお歌いになられたとしても、それほどの回数歌っておられなかったとしたら、戦前の上演回数と大して変わらなかったということになるのです。

それで、今度はスカラ座のデータベースで調べましたが、1950年から1960年と比較的広く幅を取って上演回数をチェックしました。ちなみに、私はあくまでもフェアでありたいので、メトの方は1シーズンにその演目が何回選ばれたか、しか確認しませんでしたが、「かの方」のデータについては実際の上演回数まで確認しました。それは括弧書きで但し書きいたします。『ルチア』は3回(54年7回、55年2回、56年3回)『ノルマ』は2回(52年9回、55年9回)『清教徒』は「なし」『夢遊病の女』は3回(55年に4回、57年に7回、60年に1回)[ただし、「かの方」がお歌いになったのは55年の公演だけで、後の公演はレナータ・スコットがタイトル・ロールを歌ったのです)『ヴェスタの巫女』1回(54年に5公演)『メデア』1回(53年に5公演)。勿論「かの方」は他の歌劇場でもこのような演目をお歌いになったでしょうから、トータルの回数はもっと多かったかも知れません。ですが、途方もなく頻繁にお歌いになっていたかのような印象を持つのは間違いなのです。

勿論、スポンティーニやケルビーニが舞台にかかることはなかったと言って良いでしょう。ですが、珍しいレパートリーなら、テバルディも歌っていたのですよ。スカラ座で歌ったわけではないとしても。先に書いたとおりです。ご紹介済みの『フェルナンド・コルテツ』の他にも『オリンピア』『コリントの包囲』『ジューリオ・チェーザレ』などなど。そして、このようなレパートリーが、彼女の引退と共にほとんど舞台にかけられなくなったのも、「かの方」と同様なのです。どうして「かの方」だ・け・が珍しいレパートリーに果敢に挑戦したと言う風な書かれ方をするのでしょうかね。実際、テバルディはこうしたオペラを歌うのを好んではいませんでしたが、一度歌えといわれたら、非常に真剣に取り組んだということは、音源をじっくり鑑賞すれば明らかです。

それから、ここでも対置するようにわざわざテバルディが持ち出されていて、彼女がミミからアイーダにいきなり飛びつかなかったことが、まるで「非力の証拠」であるかのようなニュアンスで書かれていますが、説得力のあるミミを歌うのは実はそんな簡単なことではない。それは『ラ・ボエーム』の鑑賞の際に詳細に検討しました。更に、Cronologiaを見ればわかりますが、テバルディは同時期に既にマッダレーナやトスカも歌っています。マッダレーナやトスカが「歌うのはさほど難しくない、大したことのない役」だと必死で読者を誘導しようとしているある評論家先生の文章については、別項でじっくり読んでいただきますが、正直申し上げて、「簡単」なはずはありません。幾多の歌手が、満足にあれらの役を歌えていない実例を私は知っているからです。もう一度繰り返しますが、急に全く毛色の違った役柄に飛びつくという自殺行為をすることが「偉業」のように語られるのはおかしいし、専門の声楽の指導者はそのようなことを生徒がしようとしたらきつく叱るはずです。だから、あの方の歌手生命は短かった。それでは実は何もならないのですよ。「芸術家はそのぐらい破天荒な方が良い」?ですが「かの方」は決して「破天荒」になりきれなかった。本当に「破天荒」なら、「フェアウェル・ツアー」でわざわざ衰えた歌声を披露しようなどということをなさったでしょうか?他の歌手でも、無理に持っている力以上のレパートリーを歌ったため歌手生命を縮めた例は沢山あります。「かの方」もそういう「一歌手」の一人に過ぎなかった、という常識的な位置づけが、どうしてこの「業界」の方々にはおできにならないでしょう???

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まとめを書かせていただきます。「音楽評論」界はとにかくテバルディについて読者にマイナスなイメージをすり込みたい。一方であちらには極力大げさな表現を使って等身大以上の存在に思わせたい。最初からそういう明白な意図がなくて、このような記述はあり得ないのです。これが「不当」でなくて何なのでしょうか?

(2)と(3)は現在の出版元こそ違いますが、元は同じ音楽雑誌の発行を専門とする出版社から世に出たものです。そこは音○○○社という業界では有名な出版社(私は個人的に音○○敵社と呼んでおります)ですが、ここの出版物、特にオペラに関する記述のある記事は偏向しているのが明らかでした。私は一時期定期的に購入していましたが、その傾向に気づいてからは、一切買わなくなりました。(この会社の入社試験では、試験官に質問されるのでしょうね、きっと、「女神様」とテバルディのどちらを好むか、と。それで、「女神様」と答えない応募者はもれなく落とすのでしょう。)それがきっかけで、「音楽評論」を信用しないことにしたのです。そして、気づきました。「自分の注意深い鑑賞によって、素晴らしいと思える歌手が発見できたのなら、誰か他の人にそれを保証してもらう必要など全くない」ということに。私にとっては、私自身の冷静な判断と、同じ歌手を愛好するお仲間たる、私と同じ一般庶民のお友達との共感の方が、「権威筋の方のお墨付き」などより、遙かに重要なのです。

このシリーズはまだ続くのですよ・・・ファンの皆様は、最後の最後に重要な、テバルディ自身の言葉をご紹介しますから、それまでご辛抱下さい。