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Voce d' Angelo レナータ・テバルディに捧ぐ

レナータ・テバルディの専門ブログです。情報、動画、鑑賞録など。

テバルディに対するバッシング、他方で・・・シリーズ1(2)

今回からは、ある特定の評論家先生のご著書の記述の数々に見られる、「ある歌手」への極端な偏向とテバルディへのバッシングの典型的な例をご紹介します。

但し、前回のシリーズから、私が「かの方」とテバルディを持ち出してきたことについて、誤解なさった読者の方々がおられるように思われますので、一言お断り申し上げます。「そういう比較をすること自体が無意味なんですよ、あんたは馬鹿なブログ主ですねえ、あちらの方が勝ちに決まってるでしょ、まだやるの?」というリアクションが当然かと。それほど、「かの方」に対する「オペラ・ファン一般」の評価は動かしがたくなっていて、音程を外しているという事実さえ、「物理的証拠」があっても認めて頂けない。まさに、そこに問題があるから、取り上げる価値があるのです。そんなにも動かしがたい評価がどのように築かれたか、不可解にお思いになりませんか?テバルディが「神」でなかったのと同時に「かの方」も「神」ではないのですよ。「人間」はいくら非凡な方でも「神」にはなれません。私はあのシリーズを意図的に辛辣に書きましたが、「かの方」は明らかに過剰に保護されているにも関わらず(同じ人間なのになぜそんな特権を持っているのでしょう?可哀想な生涯だったから?それが一切フィクションや誇張を含んでいないという証拠がありますか?)以下のような悪口雑言をテバルディが浴びせられているのですから、おあいこではないかと。私はテバルディ自身ほど「高貴」ではないので、彼女への卑劣な中傷を放っておくつもりはない。世界にたった一人しかいない非力な弁護士であっても、すべきことはしたいだけです。

まずは表紙と出版データ。タイトルからして、嫌な予感がなさるのは明らかでしょうけれど、ダストカバーの【実証的】云々の記述にだまされて、私はこれを購入しました。それがよくある、書籍の帯についている大げさなタタキ文句の一例に過ぎなかったことは、これからの記述のご紹介でおわかり頂けると思います。

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ではこの方のプロフィールを。

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ご本国では「音楽評論界の教皇」とか呼ばれているそうですが、実際にお持ちの学位は 【ドイツ文学】(この方はドイツ人ですから、実際は「国文学」です)【英文学】 【哲学】・・・。「イタリア文学」「音楽理論」の学位は???お持ちでないようです。そして、元々の音楽との関わりは 【レコード会社の広報担当】 をなさったことから。こういう方が、私のようなど素人のブロガーと同じで「イタリア文学」と「音楽理論」の学位をお持ちでないのに、「専門家」として「音楽評論」をして生計を立てる・・・のは正しいことなのでしょうか?私はど素人として感想を書いているに過ぎませんが、それでも、「ここがこう歌われているのでこう感じた」という根拠を明白にすることだけは肝に銘じながら書いております。そして、あくまでもフェアに、「良くない」「素晴らしくない」と思う場合はそう書き、1963年の不調後のテバルディの歌に聞くべきものはほとんどない、とはっきり明記しております。「偏愛」をむき出しにした著述は、結局説得力ゼロの駄文になってしまう。ど素人のブロガーですらわきまえていることを「教皇様」がご存じないのは不可思議至極です。

 

①さて、まずはこの方(以降、K氏と書かせて頂きます)の思想傾向を顕著に物語る部分から参ります。(22ページ上段から引用)

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前後の記述を読むとわかることですが、旧西ドイツの某世論調査機関が「かの方」の印象について調査したところ、どうもK氏のお気に召すような結果が出なかった模様で、それを、この方は別の方(このクラウディア某という人をネットで検索しましたが、それらしき方はヒットしませんでした。)が何らかのご著書で用いたらしい「非常に不適切な」表現をわざわざ借りてきて、「こういう結果が出たのは」【「大衆の愚鈍」】 のせいだとおっしゃっているのです。

ここを読んだだけでも、私は非常な違和感を覚えました。この本が書かれたのは20世紀の終わり頃(1998年)で、今は21世紀です。「一般の人々」を表すのにこのような言葉を用いた上、【愚鈍】 とあっさり概括なさったのには驚きました。中に非常に知的な大学教授などが含まれていないという保証もないし、第一、「一般の人々」に対し、このような言葉遣いをするのは、「万人の平等」が「常識」となっている現代社会において、大変不適切なことだとは思われませんか?

ちなみに、また岩波書店広辞苑 第五版』に登場してもらいます。「大衆」の一般的語義は「多数の人。多衆。民衆。特に、労働者・農民などの一般勤労階級」だそうです。私は、この言葉は現代社会で用いるのは不適切だと思うのです。明らかに、ある種の職業の方々だけを特化して取り上げているニュアンスがある。職業に貴賎の区別をつけてはならないという観点からすると、そのような「特化」はそれ自体、「差別的」だと思うからです。

元の文章に戻りますが、要するに、K氏の頭の中には依然として、19世紀以前の階級社会における「知的貴族」対 【愚鈍な大衆】 という図式が確固として定着していて、「万民が平等」だという「当然のこと」がこの方にとっては「常識」ではないらしい、という驚くべきことが読み取れるのです。こういう奇妙な「エリート意識」(ご自分は「別」だということが文脈から読み取れますので)に毒された方に、果たして「客観的」かつ「常識的」・「理性的」著述ができるのでしょうか?私が「聞き比べ」で敢えて自分を「低脳リスナー」と書いたのは、この人のここの表現を意図的に置き換えて使ったのです。こういう人は「一般リスナー」をこういう風に決めつけかねない、という意味で。ですが、この人が完全に上から目線で「高尚な私が愚鈍なリスナーに教えを垂れてやるのだ」という調子で書いたこの著書が穴だらけなのはご一緒に読んでいって頂ければわかるのです。そしてそういう身振りがむしろ滑稽で、この人が単なる「裸の王様」でしかないことを暴露しているということも。

こちらを先に取り上げましたので、最初に私が赤線を引いた部分への言及が後回しになりましたが、ここに書かれているのは、要するに、「女神様」が歌手としての努力によってではなく、ある大富豪の愛人になることによって得た名声が 【破滅的】 だと言っているのです。そして、その理由が、そうした名声は 【(大衆の)悪しき本能から発する強欲を満たすことしかできない】 からだと。また、【大衆】 です。その上、このようにくくられた人々が 【悪しき本能】 をもっていると独り決めしていて更に 【強欲を満たす】 などと続けている。私は 【大○】 などという言葉は使いたくありませんので、「一般庶民」と置き換えますが、一般庶民が 【悪しき本能】 をもっている、とあなたは断言できますか?私にはできません。一人一人の性質は皆違うので、このように十把一絡げに結論するのは誠に粗雑で、乱暴なことだからです。「一般庶民」は 【強欲を満た】 したくて、いつもうずうずしているのでしょうか?中には、私のように、有名人のスキャンダルなどに全く無関心な人間もおりますし、他にもそういう方々がおいででないという保証はないのです。

現代社会に生きる人間として誠に不適切な差別意識と、一般の人々への軽蔑に満ちた著述家。K氏のそういう人間像が、もう、はっきり見えているのですよ。

( 22ページ下段から引用)

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驚くような記述は、はからずも、同じページの下段に出て参ります。【ひとりの人間を「感じの良い」と形容するほど軽蔑的賛辞はあろうか】 ・・・。これを読んで、呆然となさらない読者の方が仮にいらっしゃるとしたら、私に、どうして 【「感じが良い」】 ことが 【軽蔑的賛辞】 にあたるのか、理解できるようにお教え願いたいと思うのです。私には、どうしてこの方がこのような、またしても「常識」と「真逆」のことを平然とお書きになっているのか、全く理解できなかったからです。付けられる説明があるとしたら、ただ一つです。K氏の「溺愛」(と敢えて申します)している「某歌手」が、ここの前後でこの方自身がお書きになっているように、【感じが良い】 方ではなく、逆にK氏が「忌み嫌っている」(それを糊塗しようと骨を折って無理に公平を装っている記述もありますが)テバルディが 【感じの良い】 女性だったこと。だから、敢えて 【感じが良い】 という性質は人間として誇れるようなものではない、とまで強引な記述をなさったと解釈すれば、簡単に理解できるのです。結局、ごひいきの歌手を弁護し、嫌いな歌手を間接的にけなしているのですよ。

こんなものが「実証的」な評論などといううたい文句は、もうこの時点で「誇張した噓」であって、ただの「えこひいきと自分の愛着の対象を褒めあげる記述を展開しただけの、ナルシシズムに浸る気味の悪い著述家の白昼夢」に過ぎないということが見えてくるのです。「白昼夢」はオーバーでしょう、と今のところまでではそうお思いになるとしても、もっと読んでいくと「妄想」による記述としか定義できない箇所が現に出てきますので・・・。ま、長くなりますがおつきあい頂けばご理解頂けることでしょう。


②次、はっきりとテバルディをバッシングしている部分を早めにお読み頂きます。(この書物の色々なところに、彼女への皮肉な「軽蔑」が婉曲的に記されているのですが、この方も、「読者」はそれに気づくことはあるまいとたかをくくっておられる。何しろ、「読者」なるものは【愚鈍】と考えるような方なら、そういう不注意を犯しても何の不思議もありませんが)

(155~156ページから引用)

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青で囲った場所および、青線を引いた部分をお読み下さい。K氏は、これでも用心したつもりらしく(前の引用部分だけで正体は丸見えなのですが)【真実かでっち上げかはわからないが】 という断り書きを入れた上で、多分K氏にとっては痛快だった「某歌手」のテバルディに対する侮辱発言(本来この歌手を美化したければ、このような「恥ずべき・人として卑劣な悪口」は蒸し返さない方が賢明なのですが)を嬉しそうに引用した上で、【地元の聴衆が・・・コ○・コ○○のほうを好むことを思い知らされた】 と書いています。【でっち上げかはわからない】のなら、そもそも「女神様」のご発言を蒸し返すこと自体が不必要です。結局K氏は、その後の記述でこの表現を自分でも使いたかったから、あの発言の信憑性など実はどうでも良かったのです。そして、又しても誰か(フィッツジェラルド某)の言葉を持ち出して、「テバルディ=コ○・コ○○」と婉曲に書いているのです。要するに「某歌手」の忠実な下僕(貴族のはずのこの方はこの「女神様」に仕えるのは苦痛ではないらしい)として、「某歌手」の言葉をもう一度、自分の手でよみがえらせて悦に入っている。反論しないとわかっている人を一方的に侮辱するのがいかに卑怯で卑劣なことかということについては、この方の「良心」(あるのかどうか怪しいものですが)はこの方自身に注意を喚起しなかったようですね。

何か軽蔑的な表現をするときに誰かの言葉を借りてくる、という形を又しても取っていることの不自然さ、の説明は比較的簡単につくのです。実は、こういう表現をすることが危険なことで、批判を浴びる可能性がないわけではない、という恐れを抱いているので、「私の他にもこういうことを言っている人がいるのだ」として自分を正当化しているのです。これも「卑怯」な態度の一例でなくて、何なのでしょう?しかし、この方が躊躇して、誰か仲間を引き込んでいる原因は、「もっともな理由や根拠もなく人を軽蔑することが道徳的に忌まわしいこと」だから、ではなくて、専ら「批判を受けるのが怖いから」という自己愛のためだということにも、気づかなければいけません。要するに、「自分さえ無事なら、人を軽蔑するのは一向に構わない」と考えているのですよ。この人は。【感じが良い】 ことが 【軽蔑的】 なら、「悪魔的」なことは「最高の賛辞」になるのでしょうから(苦笑)そう言われたところで、この方には痛くもかゆくもないでしょう。


③もう一つ、はっきりとバッシングしている部分を。

(325ページから引用)

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ここは、『トスカ』第一幕で、トスカが教会から退場するシーンについて述べている部分です。

私が星印を付けた部分にまずご注目を。【月並みなディーヴァ】【市場の魚売り女のようにすすり泣く】 という記述。私はここに、二つの侮辱を読み取りました。といっても、私がここに引用した部分がそっくりそのまま二つの侮辱、とは理解なさらないで下さい。ここにはテバルディに対する侮辱と同時に、「市場で魚を売ることを仕事としておいでの女性達」に対する侮辱も含まれているのですよ。こういう表現で人を侮辱することは、先ほどのようなK氏の思考傾向を考慮に入れれば、何の無理もない。「差別意識」で凝り固まっている人は、こうした、注意の散漫な瞬間、自分のペンからつい、滑り出させてしまうのです。「不適切きわまる表現」を。「職業に貴賎はない」。先に書かせて頂いたとおり、現代人にとっての「常識」です。ある職業に携わる人をことさらに卑しめるような文脈の中で語ることは、その職業の方々を侮辱しているのに他ならない。テバルディが 【月並みなディーヴァ】でなかったことも事実なら、彼女の職業は「市場で魚を売ること」ではなかったことも事実で、ここにまず、この記述の胸が悪くなるような悪意が露呈している。その上、「市場で魚を売って生計を立てている女性方」への侮蔑的・差別的意識がにじみ出ている。ポジティヴな文脈で使われているのではなく、侮蔑的文脈の中で使われていることは明らかですから。ご本人の思惑とは裏腹に、この男(と敢えて書かせて頂きます)は、こうした女性達がおそらくお持ちのはずの品性・尊重されるべき人格をまるで持ち合わせていないのです!そういう人間に他人を侮辱する資格があるのでしょうか?

その後の「某歌手」の歌唱への賛辞は、私が「オペラとリアル」で語ったことを思い返して頂くと、実は褒めているつもりなのでしょうが、私にとってはまるで褒めていることにはならないのです。「オペラ」で「リアル」を語ることのおかしさを、私は指摘しました。「ヒロインの心痛を雄弁に感じさせる」ならよかったのです。ですが 【リアル】 は余計です。 【リアルな心痛】 って何でしょうか?「心痛」の受け止め方は人によって千差万別なので、(同じ事件に遭遇して、タフな方は「心痛」とお感じにならなくても、少々デリケートな方は「強い心痛」をお感じになる、ということもあり得ます)【リアルな心痛】 という表現はまたしても不注意な書き手の誤った表現に過ぎません。別に私は「心痛」が伝わりさえすれば、「リアル」かどうかなど問題ではないし、問題にすべきでもないと思いますので、第一幕のトスカの退場場面で歌手が実際に泣くか泣かないか、それが「リアル」(「リアル」な泣き声のとらえ方はこれも千差万別なので、どれが「それ」とは決められないのです。)かどうかは、表現の緻密さをはかる尺度にはならないと思います。私は既にテバルディのモノラル盤の『トスカ』で、テバルディがやたらと多い「泣け」というト書きの場所で実は泣いていないことを指摘しました。第一幕で唯一、ここだけ泣いたとしても、それは「リアル」に聞かせるためではなく、少々トスカにとって辛いことの多かった時間の終わりに、とどめのように恋人の裏切りを信じなければならない羽目になり、更に「神」が出てきて心が折れた、それを表す表現の手段だっただけだとしたら、別に泣いても一向に差し支えなかったと思います。その声でこちらに悲しみが伝わるならば。「リアルな泣き声」など、最初から期待していません。ただ、「あざとすぎる表現」と「許容範囲内に聞こえる表現」の違いはあると思います。泣き声がいかにもわざとらしく、却って不快感を与えるものであれば、それは表現としては問題だと思います。それはこちらの受ける「印象」に関わる問題で、「リアル」かどうかの問題ではありません。

疑問なのは、【たった一音】 で「某歌手」が 【トスカの心痛】【リアルに感じさせる】 と指摘している方が、なぜ、私には何カ所も発見できた「某歌手」の「音程のコントロール不良」には気がつかれなかったのか、ということです。それほど繊細な耳をお持ちなら、当然お気づきになられても良いはずですが???まぁ、この方は「女神様」に都合の良いことは気づいても他はなかったことになさるでしょうね。この方にとって 【感じの良い】 人が 【軽蔑すべき】 人種なら、「不都合な事実は隠蔽する人」は「立派な人間」ということになるのでしょうから。

もう一つは「聞き比べ」の際に指摘させて頂きましたが、この人の偏愛する「某歌手」様は『椿姫』で泣き声をたてておられます。『トスカ』の一幕の終わりでは泣いてはいけないけれど、『椿姫』なら良いのでしょうか?この方が一体どういう基準で「泣くのが適切・不適切」と決めておられるのかが全くわからない。一つ、無理に説明を付けようとするならば、「この方はたまたま『トスカ』の第一幕の退場場面でテバルディが泣くのに気づいたけれど、「女神様」は泣かないのに気づいた、だから、ここで泣き声を入れる歌手は 【月並み】 なのだ、と攻撃する絶好のチャンスをつかんだ、」ということです。要するにこの人にとっては泣き声を入れること自体の適切・不適切など、実はどうでも良いのです。「女神様」がお泣きになるのは良いけれど、彼女がそうしていないのに他の歌手がそうしているときは攻撃の材料に使いたい。これがこの人の本心でなくて何なのでしょうね。


④さて、段々と、ストレートな侮辱ではないけれど、当てこすりや批判的な傾向の記述のほうに移らせて頂きます。

(55ページから引用)

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ここの、青線とオレンジの線の部分をお読み頂きたいのです。ここでK氏は、【ヴェリズモ】 派の歌唱法を取る歌手(しかし、ここでなされているK氏の歌唱技術の解説文は非常に曖昧でわかりにくく、「ヴェリズモ派」の歌手の発声法と「某歌手」の発声法の決定的な違いがわかるように書かれていません。それは、この人が「歌唱法」を専門に習ったことがないからでしょう。専門家の間でさえ「ベル・カント唱法」についての説明がばらばらな現状では、具体的に歌唱法がどう違うのか、素人が理解するのは至難の業であるのと同時に、専門家の間でも定説がないのです!)の発声では 【アーティキュレーション(ブログ主注:「明瞭な発音」のことです)が不鮮明】 になるといっている。

ここは・・・怒るというよりむしろ、笑えました。私は、テバルディのイタリア語の発音や滑舌の見事さをさんざん書いてきました。彼女の歌が私のスペルミスまで教えてくれることも。こんな記述はまるで事実と違うので、全くのお笑いぐさなのです。余りにも事実と違いすぎるので、「ひょっとすると、イタリア文学を専攻しようともしなかったこの人物は、正しいイタリア語の発音がどんなものか、知らないのではないだろうか」という疑いさえ抱いたほどです。今までの記述を読んだ範囲でも、どうも「良心的」著述家とは言いがたい、と考えられるので、イタリア語の綴りと発音の関係をしっかり確認したことがあるのかどうかも疑問に思わざるを得ません。

そして、ご記憶に新しいと思いますが、「聞き比べ」の際、現に、この人の「溺愛」する「女神様」が"Amami"を「アーーーアーーーーーアーーー」としかお歌いになられていないのに、テバルディはしっかり「アーーーーマーーーーーミーー」と歌っているのを指摘させて頂きました。どちらが「発音の明瞭」な歌手なのか。「常識」をわきまえた方なら1+1の計算より易しく判断できる事柄かと。

憎しみの余りここまで「事実」が見えなくなる人って・・・「冷静」「客観的」であるべき「評論家」としての資質をそもそもお持ちではないのではないかと。


⑤次からは、実はK氏が認めざるを得なかった「女神様の悪声」のため、極力「生まれつきの美声」の価値を貶めようと必死(笑)の記述を。

(39ページから引用)

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赤の部分は、どういう人が 【プリマ・ドンナ】 と呼ばれる「べき」なのか、を教えて下さっている箇所。(そんなものの定義は非常に曖昧で、時代ごとにも揺らぎがあるので、誰かが決めるのは不適当だ、ということだけ指摘させて頂きます。)

問題はオレンジの部分。典型的な、余りにも典型的すぎるテバルディへの批判を、名指しこそ避けてはいても、婉曲に展開している部分です。

【ただ口を開き、持って生まれた良い声で聴衆に美しい響きを浴びせるだけの】 ここの 【ただ口を開き】 【持って生まれた】 という箇所に非常な悪意がある。「美声の歌手」が、何も考えないで歌う、生まれつき美声に恵まれただけの、ただ、運が良かっただけで他に取り柄のない歌手と決めつけたいという意図が読み取れない方は、著述家の中には「モラル」らしきものを持ち合わせていない人も現にいるということをもっとよく肝に銘じて頂きたいのです。K氏のモラルが非常に怪しい質のものだということは、これまで読んできた記述からもうお読みとりになれるかと。

私のブログは、勿論、テバルディの声自体のもつ温かさや美しさを楽しむ場をご提供するという意味もありますが、それよりも、このような典型的な「言いがかり」、「美声だけで、緻密な表現ができなかった歌手」という通り一遍の「評論家先生」がたの言明や一般化した認識と事実が違うことを、克明に聞き取っていく場、という意味も持っています。彼女がどこをどのように歌っているかをほとんどフレーズごとに分解しながら、聞いていくことによって新たな発見と感動を受ける度、尚更、こうすることの意義の深さを感じている次第です。

このような乱暴な「決めつけ」は一笑に付すしかありません。実際の歌唱を聞き取る際、この人がいかに雑で、いい加減かということを露呈しているに過ぎないからです。


⑥は、「天与の美声」に対する「女神様」のコンプレックスが乗り移ったかのような、「必死の弁護」。「悪声」のほうがいかに素晴らしいか、そこまで飛躍している箇所。

(60ページから引用)

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【「苦悩」の声、「残忍さ」の声、「夜」の声、「奥深いもの」のための声】ここまでは、主観的すぎて、ある人の声をそう決めつけるのは強引すぎるとしてもまだ、「偏愛のなせるわざ」と苦笑して済ませられますが、そのあとの記述には呆れます。いきなり、【ということはすなわち、「魂の状態」の表現にふさわしい声をもっていた】・・・。

これ、ほとんど爆笑するところですよ?!さっき、【ただ口を開き、・・・美しい響きを浴びせるだけの】 と書いた人が、「悪声は、それを持って生まれただけで、【「魂の状態」の表現にふさわしい声】 だという趣旨のことをお書きになっているのですから!ある声を持って生まれた、ただそれだけで、表現抜きの歌手がいると軽蔑している一方で、「悪声」を持っていればそれだけで 【表現にふさわしい】と。「悪声」の歌手は「ただ口を開いて」いても「表現」できる蓋然性が高いと!では、こういう声で「清らかな心」や「清澄な気分」や「無邪気な明るさ」は表現できるのでしょうかね?この方はそういうのを、多分、意図的に取り除いています。どちらも表現できなければ意味がない。テバルディは「無邪気な喜び」(『ファウスト』の宝石の歌)「清澄な気分(沢山ありますが、典型的なのは『オテッロ』のアヴェ・マリーア)」「どん底の悲しみ(『アンドレア・シェニエ』の"La mamma morta")」「暗い絶望(『メフィストーフェレ』の"L' altra notte")」「激しい怒り(『トスカ』、これは随所で聞けます)」などを雄弁すぎるほど雄弁に表現できました。勿論、ここに書かれているような、ヴェルディの『マクベス』のマクベス夫人をテバルディが歌うのはミス・キャストですし、何しろ装飾音が歌えないので、それはあり得ませんでした。

ですが、では、マクベス夫人が然るべく歌えればそれで全てOK?私は「某歌手」が『オテッロ』の「柳の歌~アヴェ・マリーア」だけをリサイタル盤に吹き込んだのを聞いたことがありますが、テバルディが見事すぎる余り時折フライングの拍手を受けていた例の"A------a------a--------ve----!"がブルブルのウォブルだらけのきしった声で歌われているのを聞いて、寒気がしたくらいです。こちらは、あのような清澄な祈りの境地を見事に歌うことが「できなかった」のですよ!

それを、K氏は「マクベス夫人」だけが問題であるかのようにことさら取り上げ、ヴェルディの言葉まで借りてきて、ある種の声をくさそうとしている。読み進むと更に、わっかりやすすぎて笑えてしまうほど明らかなコンプレックスがはっきりと現れています。出た! 【天使の声】という記述(!)。そりゃ、【天使の声】 の人がマクベス夫人を歌うのは少々無理があったでしょうね。(ですが、表現によってできないことはないのです。次の記事で『トスカ』でのテバルディの見事な表現を聞いて頂きますので。ただ、テバルディが『マクベス』に出たいと思ったとは到底思えませんが。)でも、ここまであからさまに、負け惜しみを露呈されてしまうと・・・笑うしかないのですよ!!!(爆)

もう一つ、ここでこの人の論述が、自分に都合の良い結論を出すためねじれているのにも気づかなければなりません。【そうした「おぞましきものの美」のための声を持っていた】(決めつけるのは強引ですよ)【ジュゼッペ・ヴェルディはこの種の声を切望する旨を記している。】とありますが、ヴェルディが実際にどう書いているか? 【「『夫人』は醜悪でおぞましくあって欲しいのです】 ここだけ読むと、ヴェルディはまさに「マクベス夫人」として「女神様」みたいな「声」の方を望んでいるかのようですけれど、注意するまでもなく、ここは「歌手の容姿」についての希望を語った部分に過ぎないのがわかりますね。「声」のほうについては、正確には、【「荒削りで押さえつけたような、さえない声を持っていて欲しいのです。」】と言っている。【「醜悪でおぞましく」】とは書かれていません。線を引き忘れましたが、【「『夫人』の声は悪魔のようであってくれることを望みます」】は、ヴェルディが前に【「天使」】を出したので対比として使った表現でしょうし、この記述も【醜悪でおぞましい】とイコールでつなげるかどうか、微妙でしかない。

要するに、自分の議論の権威付けにヴェルディを持ち出してきたのは良いけれど、ご自分が「声」について表現した言葉とヴェルディの言葉ではっきりイコールでつなげられるのは、ヴェルディの望むマクベス夫人の「容姿」についての言葉なのです。ご自分のお説に無理があるから、こうした交錯が起きてしまうのですよ。


⑦K氏がこれ程必死になるのは、「女神様」自身が実は深ーーーーーーいコンプレックスをお持ちだったから。それをわざわざ引用している箇所。(こういうのも蒸し返さない方がよかったのではないかと・・・)

(62~63ページから引用)

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【「無数の音色を持たなくてはなりません。ただの美しい声にそれは可能でしょうか?」】・・・可能ですよ。テバルディは無数の音色を持っていましたから。それから、【ただの美しい声】 という「悔しそうな」「表現」は慎まれた方が賢明だったと思いますけれど。

【「粗暴に歌うこともまた、表現のためには必要なのです」】 【粗暴】 ってどの程度のことをおっしゃっているのでしょうかね。わかりません・・・。テバルディだって、『トスカ』の時は相当激しいですが、【粗暴】 であったことはありません。そこまでやらないといけないなら、むしろ、「実力のない証拠」になってしまいますよ? 【粗暴】 と「激しさ」には明確な違いがあります。聴衆に不快感を与えても良いという趣旨のお言葉で締めくくっておられる。誠に結構です。自分の「表現」のためなら、汗水たらして稼いだお金でチケットを買って聞きに来た人たちを犠牲にするのもいとわない。誠にご立派です。まさに、【感じの良い】 人にならないように非常に注意深く身を律しておられたということですね。


⑧長くなりましたのでこれで一旦切りますが、もうひとつ、「美声」コンプレックスの弁護に必死になる余り、ほとんどわけのわからなくなっている箇所。

(44~46ページから引用)

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【「美」-これは人間の声に関する、魅力的であると同時につまらない言葉である。】 どうして「人間の声」の「美」を語ることが 【魅力的】 なのに 【つまらない】 のか、もっと辛抱強くご説明になるべきではなかったかと。この文だけではさっぱりわかりません。

セラフィンが「女神様」の声について、「余計なひとこと」(【「醜悪な声」】)を入れてしまったことについての恨みも捨てられないらしいですね。何とかしてセラフィンの言葉には問題があるように説得しようとしている。実は、この節はこのセラフィンの言葉(イタリアオペラ界では大変な「権威」を持っていた人の言葉です。私にとっては・・・どうでも良い言葉ですが。)の不都合な部分を何とか、「女神様」のため、無理矢理「毒抜き」するために捧げられているのです。【真実を噓に変え、芸術的な事柄の解明を妨げるものである】 ご自分自身が不適切な表現や牽強付会や事実と違う記述を散々してきたのに、こういうことを書く資格があるのでしょうか?セラフィンの言ったことが本当に 【噓】だと決めつけられる根拠は?何もありません。

そのセラフィンが 【奇跡の声】 の中に「女神様」を入れてくれなかったことも悔しいらしい。さっきの訳のわからない文章から、急にセラフィンの話題に移るからです。(長すぎるので略しましたが)ですが、この方のセラフィンの言葉の引用の仕方は少々都合良くゆがめられています。「私の人生の間には3人の声の奇跡がいた-カルーゾー、ルッフォ、ポンセルだ。この3人以外には、何人かの素晴らしい歌手がいた。」(図をご参照下さい。英文しか見つけられませんでした)

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【「出会いがあった」】とは書かれていない。それはそうと、どうして、「女神様」がその 【数人の素晴らしい歌手】 の一人だったことが 【容易に想像できる】 のでしょうかね???人の頭の中をのぞけるわけでもあるまいし、先ほどの引用箇所にも言えますが、こういう勝手な決めつけはまずいと思いますよ?私はその中にテバルディが入っていなかったとしても、ちっとも悔しくない。私自身が、彼女を素晴らしいとわかっていれば、権威筋の方に「保証」して頂かなくたって、何の不満もないからです。結局、K氏は、自分の「判断」に自信が持てず、「権威」とか「階級」とか、実は人為的に作られた空虚なもののほうにに重い意味を感じてしまうから、「権威のある方に認めてもらえないと悔しい」のですね。おかわいそうに。さっきはセラフィンを「嘘つき」呼ばわりするに近い記述をしていたにもかかわらず、こういうことを書くなんて・・・。

ベニニュ・ド・バシイなる方の 【「良い声」】 と 【「美しい声」】 という独特のくくり方をわざわざ持ち出して、【「良い声」】 は 【全てを表現できる】 が 【「美しい声」】 は 【何も表現できない】・・・。ずいぶん重症なコンプレックスですね。これはさっきの「女神様」のご発言に補強を加えたかった模様。 【「美しい声」】は 【何も表現できない】。 確かに「美しい」というのと「良い」というのは違う形容詞で、違う性質を表すものですが、それだけでいきなり「表現力のある・なし」を決めてしまうのは無理があるのではないでしょうか?ですが、これを引用してきたのには狙いがあるらしい。

その後はヘーゲルを持ち出してくる。【「感覚とは精神の鈍い領域」】 ?でも、音楽は「聴覚」を通してしか認識できないはず。鈍かろうが、鋭かろうが、それは関係ありません。なぜ、これを出してきたか。「感覚」について議論するためではないのです。 【アンチテーゼ】 という言葉を無理なく出すための下準備なのです。なにしろ、この言葉を有名にし、「弁証法」という理論を確立したのがヘーゲルなので。すが、こういう頭でっかちな引用だらけの文章ってそれだけで嫌みなものを感じませんか?「私はこんなに色々な理論に精通しているのだああああ」みたいに。私には逆に、自分の説得力のなさをカバーするために「権威」の力を借りまくっている、という感じを受けますが。素直な自分の言葉で語って、説得力を持った文章が書けないとしたらそれこそ「非力」の証拠なのに。

この用語を出したかっただけなのでそれ以上 【感覚】 の議論は深めず、次の議論に進んでしまいます。 【「美しい声」】が表現力に乏しいということはバシイ氏が言ってくれた。でも、【「良い声」】 がそれだけで 【全てを表現できる】 という言明は実は都合が悪いのですよ。何しろセラフィンにはっきり「悪声」という趣旨の表現をされてしまっているからです。それで、【「良い声」】 にも 【しっかりした響きと十分なテクニック】 が必要、という要素を付け加えて、バシイ氏の「決めつけ」を否定的に論ずる。

今度出てくるのはトーマス・マン(一体、K氏はどれだけの「権威筋」を動員しないといけないとお考えなのでしょうかね)。 【激怒や憎しみ】【豊かで美しい響き】 を介して表現されると。(ここに出てくる「美しい」はどう片付けたら良いか、考えなかったご様子。)【「美しい声」と「良い声」との対置は一つの補助的措置にすぎないことになる】 【ただの対置】。こういう記述からどういう意図が読み取れるか?私の見解は次の通りです。

「女神様」が【「美しい声」】を軽蔑なさっていたことは確かだから、K氏もそれに寄り添わなければなりません。(そうしないと自己矛盾に陥ります)つまり、【「良い声」】 の方のくくりに入れたいのはやまやま。でも、セラフィンの決定的な(憎たらしい)言明が残っている。 【「良い声」】 には 【「悪い声」】 という 【アンチテーゼ】 があり、「女神様」はむしろ 【「悪い声」】 に入ってしまうという致命的な事実。それをカバーするために、【しっかりとした響きと十分なテクニック】 が必要なのだと強弁。バシイ氏のあくまでも 【「美しい」】 とか 【「良い」】 とかいう形容詞が 【ただの対置】(実際こういうくくりには何の意味もないと思いますけど・・・)にすぎない、と退ける。結局、「女神様」は 【豊かな響き】 【十分なテクニック】 をもつ、【「良い声」】 以上の存在だと言いたかったのでしょうね。ですが・・・先ほどのページでは 【「醜悪な声」】 の人はそれだけで 【「魂の状態」を表現するにふさわしい】 という趣旨のことをお書きになっていたのに???わざわざこのような記述を必死でなさった意図は?・・・意図はほとんどなかったけれど、とにかく「必死」なのですね!よくわかりました!!!(爆)

ですが・・・私が「聞き比べ」で指摘させて頂いたことは、まさにこの問題なのです。「女神様」はどのような録音条件であろうと巨声を聞かせまくられる超人的な声をお持ちだったわけではなく、やはり、当時の他の歌手と同じように、収録マイクから遠ければ、それほど大きな声は入らない。つまり、「特別に豊かな【響き】を持っていたといえる確実な証拠はない」、ということ、そして、「超絶技巧だけがテクニックではないのなら、「女神様」が【十分なテクニック】を持っているというのには問題がある」ということです。これにはどういう「強弁」が返ってくるのでしょうかね???


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皆様、長ったらしい記事におつきあい頂いて申し訳ございません。ですが、こういう方が(これはほとんどトンデモ本と言っていい、と私は確信しています)ドイツでは「音楽評論界の教皇」とか言われているのですよ。

読むのもおぞましくて、わかりにくくて、うんざりなさったのはよくわかります。ですが、もうしばらくおつきあい頂きます。私が思うに、わかりにくさの一端は翻訳の問題にもあるかと。元のドイツ語の文で書かれたことが支離滅裂かつ、婉曲な当てこすりに満ち満ちているならば、翻訳に携わった方が困惑なさるのも無理はないのです。この人の原文を、「実は誰かさんを精一杯賛美してその「アンチテーゼ」の方を極力貶めたい」という本心をしっかり理解した上で読めば、きっともっとわかりやすく翻訳なされたでしょうね。ですが、こんなゴミのような本、翻訳本でつかまされただけでも「大損した」と思っている私は、原著を取り寄せようなどという気は毛頭ないのです。


今回はここまでで。