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Voce d' Angelo レナータ・テバルディに捧ぐ

レナータ・テバルディの専門ブログです。情報、動画、鑑賞録など。

テバルディに対するバッシング、他方で・・・シリーズ1(3)

さて、このシリーズはこの回でいい加減終わらせたいので、頑張ります。

今度は「偏愛」が強すぎる余り、「女神様」が、録音も残っていない、ドニゼッティベッリーニのオペラを創唱した歌手達と同じ声を持っていた(!)という愉快な妄想に耽る部分や、またしてもテバルディへの当てこすりに走っている部分を。

①又しても、「女神様」が等身大以上に大仰に書き立てられている部分。こんなのばっかりが出回っているのだということが、嫌でもおわかりになりましたよね?

(16~17ページから引用)

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【美学的には久しく時代遅れのものになっていた十九世紀のオペラ】 またですよ。だからあ、メトでほとんど第二次大戦中までもベル・カント・オペラはしかるべく舞台にかけられていました。それが 【美学的に時代遅れ】だったかどうかは一概には決められません。コロラトゥーラを歌う歌手も沢山いたし、レコードも沢山出ていました。聴衆が 【時代遅れ】 なので聞くに値しないと思っていたなら、そんなことは起きなかったはずなのですよ。この方は「音楽評論」では「歴史的事実」とかは無視していいとどこかで教わったのでしょうかね?

【本来の意味を取り戻した】 【本来の意味】 って何なのか?この人に説明できるんでしょうか?「女神様」の解釈が「大いなる誤解」でなかったという保証は何もないのですよ。何せ、初演当時の音源がないから、確認しようがないのです。

【彼女は一段と深い意味で、もっと別の種類の芸術家にもなった】 またしても大仰なあおり言葉。その前の 【オペラという表現世界に関心を持たない・(略)・呼び起こした】という所ですが、実は、それが「諸悪の根源」「誤解のもと」だった、と私は思っています。オペラに不案内な方々にはどういう歌唱が素晴らしくて、どういう歌唱が悲惨なのか判断できないのですよ。オペラを過たず鑑賞できるようになるには、それなりの努力が確かに必要で、それは、沢山の音源をひたすら聞きまくる、という手段しかないのです。そして、できれば歌われている歌詞の意味をよく理解すること、スコアと照合しながら歌手の歌を確認すること。でも、オペラを本当に愛していれば、それはさほど苦にならない。逆に、その熱意もなく、オペラというもの自体の特殊性について理解していない方々が、こういう著述家のあおり文句を鵜呑みにしたから、この「一歌手」は等身大以上に肥大化し、雪だるま式に偉大さを増してしまったのです。

そして、時間がたてば、本人についての正しい記憶は色あせて、神格化しようと思えばいくらでも可能になる。映画や舞台の主人公として(多分にフィクションの要素を入れ込むことが可能なメディアです)さんざん取り上げられ、「歌手」というより「悲劇のヒロイン」に変貌させられた。「かの方」自身がまるで「オペラ」の「ヒロイン」のように扱われた。そういうことにはこういう「偏愛」著述家達や、自分自身の判断力を持たない著述家達、圧倒的多数の「数の暴力」と戦う勇気のない著述家達が付和雷同的に褒め称えたことが多大な影響力を持ったのです。さらに、例の『椿姫』を演出した某有名映画監督の助手として参加し、ご自分も有名映画監督のある方(今は政治家を兼務なさっているそうです)がこの「一歌手」を主人公にした映画を作って宣伝に一役かわれたことも大いに影響したと思います。「一映画監督」ではなく、政治家という「権力者」に立ち向かうことは容易ではなく、その方が「女神様」を支持なさっておいでなのですから、本来はイタリア人中のイタリア人だったテバルディが母国で正当な評価を受ける可能性は非常に低いでしょうね。これだけは、彼女にとってとても気の毒なことだと思います。(他は卑劣な悪口として、いくらでも反論可能ですから)肥大化された「女神様」の「虚像」のほうがますます広まる。「政治的権力」を持った強力な後ろ盾がいるのですから。

現に今も、この方のフルネームでネット検索すると、やたらとセンセーショナルで興味本位の見出しが乱立しているのが一見して明らかになります。【自殺未遂】とかね。そういうのをセンセーショナリズムというのです。扇情的な言葉で人の悪しき好奇心を掻き立て、注目させようとする。過剰なイメージ戦略が、この方の人物像を散々派手派手しく飾り立てているのですよ。私生活では不幸だったということさらな宣伝は、「歌手」としてのこの方の実力と全く関係の無い、無意味な行いなのに、それに引きずられる方が多い。もっと、「歌の中身」を真剣に問うべきなのです!


②次、いよいよ「白昼夢」の段階に入ります。

(52~54ページより引用)

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ここに書かれているのは、なんと、スタンダールが「文章で」残したジュディッタ・パスタ(1797~1865)の「声」と「女神様」の声は「類似する」、という議論です!実は、人の声は1850年には録音・再生できる状態になっていたそうですが、初期のSPレコードの音質を考えると、こうした黎明期の録音装置の技術レベルでは、パスタの声がニュアンスまで聞き取れるほど鮮明に捉えられることなど不可能だったでしょう。しかも、発明され、実用化されていたとしても、実際に声が残されていないのですから、何の証拠物件もないのと同じです。

「文章」で人の声を完全に再現することなど、如何なる文豪にも不可能です。「音声」と「文字」で捉えられるものはまるで別物です。それなのに、K氏はパスタに関する「文字による文章が」「女神様」の 【声と作用を暗示的に述べているかのようだ】 と、強引に結びつけている。実はこういう主張も方々でなされて定説化している(!)ので、もはや、「事実」であるかのように認識されています。比較する一方の「物理的証拠」が何もないのに、「科学的」思考の生まれ故郷だったはずのヨーロッパでこういうことが平然と語られているのには・・・全く呆れるしかありません。それを無批判に受け売りする日本の音楽評論界にも同じ感想しか持ちません。

その後にK氏は、私も言及したラウリ=ヴォルピによる著作でも、活躍時期の違う歌手同士の同じような声の類型の結びつけがされている、といって自分の主張を正当化していますが、この二つの著作の大きすぎる違いは、私が赤で囲んだラウリ=ヴォルピの比較している歌手の声は、どちらとも「録音に残されている」ので、「物理的証拠」があり、「根拠のある」比較が可能だ、ということです。ただ「文章」で書かれた「聞こえてこない歌声」との比較とはまるで違う手法のものです!こんな所にご自分の著作を持ち出されたラウリ=ヴォルピは良い迷惑を被っているのです。「聞こえてこない歌声」と「録音された歌声」の比較が無意味であり、ましてやそれが似ている可能性が高いという含みを持たせて述べることはやはり「虚偽」の一種であり、K氏の幸せな「白昼夢」でしかないのです。

最後の紫色で線を引いた部分では、それだけでは不満だったらしいK氏が、「女神様」はそれ以上に凄かったと言い張っているところ。「女神様」は 【低・中音域では】【メゾの響きを持っていた】 けれど、【高音域は】 【「ソプラノ・レッジェーロ」に該当した】 だから、無理にメゾの声で高音を歌うという 【拡張】をした、ベッリーニドニゼッティのオペラの創唱者達は 【数年後には舞台に立てなくなる】 という羽目になった、と。勿論、【数年】 と 約10年は続いたという「女神様」の活躍期間では差があるように読める。では、その 【数年】とは正しくは何年だったのか。パスタは1816年に『ドン・ジョヴァンニ』のドンナ・エルヴィーラを歌っていますから、もうこの時点で十分、その当時の聴衆を満足させるに足る歌唱をしていたのでしょう。そして、アミーナやノルマを創唱したのは1831年。どこが【数年】?これだけでも15年経っていますよ?ノルマが歌えたということは、まだ余力があったということですから、「女神様」よりむしろキャリアが長かったと考えないとおかしいですね。マリア・マリブラン(1808~1836)は17歳で『セヴィリアの理髪師』のロジーナを歌い、1836年、落馬事故が元で亡くなるまで舞台に立っていたそうですから、こちらは19年です。さすがに事故後の舞台で満足な歌唱はできなかったでしょうけれど、彼女のため、ベッリーニは『清教徒』に手を入れる約束をしていたそうですから、不幸な事故がなければもっと活躍できたかも知れません。こういうのを 【数年】っていうのでしょうか?

(58ページから引用)

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もう一つ、同様の記述です。こちらはもっとはっきりと、【この意味においてマリブランなりパスタなりの生まれ変わりであった】 さすがに同じ歌声だったとは書けなかったので、 【歌唱が不完全】 という意味で、という但し書きを付けていますが、それは次の文章でチャラになります。 【なぜなら、自分の役を初演時の歌い手のように歌ったからである】 これは完全な、「断定」ですね。ですが、パスタとマリブランの初演時の歌唱の録音が「残っていない」のに【不完全な】 「歌い手」だから「同じ」って???ここまで来ると、「この人、頭大丈夫?」の域に達するのです。

紫色で線を引いた 【作曲するがごときオリジナリティと自発性が生み出す「創造」だったといわれていた】 というパスタについてのコメントが「女神様」にも当てはまる、というような記述を見て、何か思い出されませんか?私が「聞き比べ」で「女神様」が派手に音を外されておいでのところで、評論家先生方がおっしゃりそうな賛辞を予想して書いた文章です。こういう文章を読んでいたので、ああいう途方もない、クレイジーなことが大まじめに言われかねない、と私はお伝えしたかったのです。あの「ブラック・ユーモア」は、現実の「非常識きわまる音楽評論」のされ方を、私がわざと真似ただけのことです。ですが、実際、あれに近いことが書かれているのですから、あれはフィクションと言うよりはむしろ現実になされかねない「評論」なのが、おわかり頂けたでしょうか?

ただし、ここでK氏の自己矛盾が露呈しています。本ブログの前の項をご覧になった方は、K氏の、【豊かな響き】 と 【十分なテクニック】 を持つ歌手こそ最高で、【「良い声」】 を上回るものだ、という主張をご覧になりましたね。ところが今度は、グニャグニャと入り組んだ文章の中で無理矢理こうした「声の聞こえてこない」歌手と「同じ歌唱をしていた」と言いたいがために、「歌唱が」【不完全】 なところが同じだと無理矢理認めている。じゃあ、【十分なテクニック】 はどうなるのでしょう?一体どちらが本当なのか?結局、どちらもおかしな議論なので、「自分に都合の良い机上の空論」でしかない、というのが私の結論です。褒め称えるためなら風見鶏のように根拠が変わるのなら、信用できる書物とは言えないのです。

更に、「オペラ」を鑑賞する者としては「基本的常識」であることをK氏がすっかりお忘れのご様子なのを指摘させて頂きます。「初演時の歌手の再現」ができればそれが即ち歌手として優れているかのように必死に説いておられますが、それ自体がお笑いぐさなのですよ。「後輩歌手」は「先人」を乗り越えなければならないのです。もっと「洗練され」更に聴衆を感動させるような歌唱を目指して努力しなければならない。「同じ」だったり「劣ったり」したら、同じレパートリーを歌う意味がないのです。むろん、K氏は「女神様」の先輩歌手達が白痴美的だったのを源流に戻した、と言いたかったことくらい理解できる知性は私も持ち合わせておりますよ。でも「源流」に戻るだけでは意味が無いのです。「初演時の歌手」と同じことをしたから素晴らしいというのは・・・。(笑)この方、本当に「オペラの評論家」なんですかね?


③幸せな「白昼夢」が終わったところで、またテバルディに対する当てこすりの意図が見える記述部分を。

まずは、テバルディが高音が苦手で、初期を過ぎると比較的早くハイCが下がりがちになったことへの当てこすり。「そんなヘボ歌手と違い、女神様はひっじょーーーーに高い声をお出しになれた」ということを繰り返し強調している部分です。

(50~51ページから引用)

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この部分は、最初の二つの段落は「女神様」所属レーベルのボスが「女神様」に関して残されたコメントからで、最後の段落はK氏の記述です。K氏によると 【五線より下の嬰へ音(ブログ主注:低音はピアノの鍵穴のドより下のファの♯が出せたという意味です)から三点へ音・・・(略)にまで達していた(ブログ主注:高音はハイCより上のファまで出せたということです)】。

ただし、「女神様」所属レーベルのボスの言葉のほうには「女神様」の欠陥に関する非常に興味深い記述も見られます。メゾ・ソプラノの歌うダリラのアリアは 【低音のパッセージが彼女の声の持つ力よりもっと強い力を求めていることに気づいた。】(低音が出ると言っても、響きは薄かった)ということ、そして、【コン・フォルツァのアタック(ブログ主注:アタッカ・・・歌い出しのことだと思います)で高すぎる声を出してしまうことはあったが】 ボスは、気づいていたのですね。「うわずりがちの傾向」について。ですが、私の指摘した「音程のコントロール不良」の部分はコン・フォルツァのアタッカでも何でもない、歌唱の途中に起きているのですが・・・。

さて、「高音がこんなに出せるんだぞおおお」という、まるでオリンピック選手がウルトラEを決めたのを誇らしげに語るかのように、むやみと高い音を出すことへの賛辞はまだまだあります。

(55ページから引用)

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ここでもまたハイCより上のファまで出たと賛美。しかし、【決して鼻声にはならなかった】というのが真っ赤な噓なのは、「聞き比べ」でご紹介したとおりです。

 

 

 

(235ページから引用)

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まだあるのですよ。K氏のしつこさには全く辟易します。これは全盛期を過ぎた女神様が、それまでは常に出していた、『ルチア』で出すと決めていた変ホ音をしくじったときの話です。ハイCより上のミのフラットです。しくじったかどうかはどうでも良いでしょう。

 

むしろ問題なのは、ここに書かれている他の記述です。「女神様」にとって実は何が重要だったかの一端が見えてくるのです。その高音を歌うのは、【自分の声から音、響き、アクセント、感情、興奮状態を絞り出】 すためだったと。見当違いに高い音を出さないとそういうものが出せないとしたら、むしろ無能な歌手ということになりますけど・・・。更に、オペラの歌唱は、ここで書かれているような 【声の闘い】 なのでしょうか?むやみと高い音を出す、高音競争?先ほどオリンピック選手の比喩を出したのは無意味なことではありません。こういう記述から読み取れるのは、「むやみと高い音を出すことは芸術性とはまるで無関係で、歌手の自己満足を満たすことと、ほとんど運動競技での競争で勝利するような意味しかない」ということです。これが「聴衆に感動を与えること」とは無縁だということは明白ですね。勿論、高音が聞けると聴衆は興奮するでしょう。ですが、「芸術的」感動とは無縁の、「アクロバットの鑑賞」から得られる感動の方に、むしろ近いのでは?私は「かの方」がむやみと高い音を出せることをわざわざ披露したのは、「芸術性」が実は彼女にとって「アクロバット的技の完成」より価値の低いもので、「ヒロインの感情を雄弁に伝えて聴衆の感動を誘うこと」より、「聴衆をあっと言わせる効果を上げること」によって「自分が満足に浸ること」の方が重要だったという証拠の一つのように思えるのです。そんな音はスコアに書かれていませんし、それを出したからといって、音楽の美的な効果が倍増するということもなく、もとより、ヒロインの感情の表現とは何の関係もありませんね。

それを、私が青線を引いたところで、K氏自身が暴露してしまっているのです!私の言っていることは私の主観による個人的感想ではなくて、筆者自身が裏書きしてくれているのですよ。【声のスタントによって人を驚かせ、聴衆をあっと言わせる】 【軽業師が宙返りの最中に転落してしまったのと同じ】 結局、むやみな高音の歌唱は 【スタント】 【軽業】 になぞらえられている。「音楽的必然性」についての記載はない、というより、はじめから 【音楽的価値とは無関係である】とあっさり認めています。そして、【人を驚かせ、聴衆をあっと言わせる】 その 【心的解放】 について論じられたことがないと。(「論じられたことがないという」意味の記述箇所はここには引用しませんでしたが)「あっと言わせてやって、スカっとしたわぁ!」(これ自体が聴衆の「心の琴線」置き去りの自己満足でしかないことは言うまでもありませんが)もし、それがオペラ歌手にとって必ず必要なものだとしたら、もはやオペラは音楽でなくてもよくなってしまいます。違いますか?一人一人、「声の競技者」がステージに出て、自分の出せる最高音を出し、一番高い声を出した人が優勝トロフィーをもらえば良いのです。こういうのが「芸術性」とは無関係なのはわかりきっているから、誰も論じないし、こういう結論が出るのは都合が悪いので敢えて書かないのではないのでしょうか?


④次の当てこすりは、テバルディの方が「女神様」より明らかに頻繁に歌っていた役柄は、「実は全然大したことのない役柄」だとにおわせる記述です。

(155ページから引用)

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実は、「女神様」はマッダレーナを1シーズンだけ歌ったのですが、ここのオレンジ色の線の部分に書いてあるように、その時のある公演で失敗なさった。それが「悔しすぎて」(わかりやすすぎる・・・)【テノール向きであり、ソプラノにはほとんど活躍の場がないのである】要するに、大したことのない役だと言いたいのですね。ところが・・・【テノール向き】とかいう根拠は薄いのですよ。私はわざわざスコアの小節数を数えました。(多少の数え間違いについては御容赦下さい。)それで単純比較できないことは承知の上です。(拍子が変わると、歌っている時間の長さが変わるので、数だけではわからない)とにかく、歌わなければならない小節数は大して違いがないのです。シェニエは492小節でマッダレーナは473小節です。20小節しか違わないのに、どこが【テノール向き】で【ソプラノには活躍の場はほとんどない】のでしょうね?【音楽的にはいささか魅力に欠け】とお書きになるなら、どこがどういう理由で【魅力に欠け】るのか、はっきりお書きにならないと、このオペラに多大な魅力を感じているかもしれない聴衆の一部の全員を説得できませんよ?さらに、「大したことがない」のにちゃんと歌えないのはますます問題ではないでしょうか???この人は悔しさの余り筆を滑らせて自爆しているのに気づいておられないらしい。文章はもう少し冷静に書いて頂きたいですね・・・。

(95ページから引用)

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【この役】 というのは『トスカ』のことです。その前の長ったらしい部分を削除しましたので。こちらは今度は「女神様」はプッチーニがお嫌いだったと。これもわかりやすすぎる。レガートの多いプッチーニの曲は圧倒的にテバルディ向きで、事実テバルディはプッチーニを好んで歌っており、「好きな作曲家」と公言していました。テバルディの好きなものは「女神様」は嫌う。まるで幼稚園の子供です・・・。「私の嫌いな○○ちゃんが好きだって言うから、私は嫌おうーーーっと!」

それでは、日本で盛んに喧伝されている「史上最高のトスカ歌い」のような賛辞は「返上」して頂きたいですね。嫌いで歌っていたのなら、別にそんな賛辞は必要ないでしょう?実際。この方の『トスカ』は歌声で十分緻密な感情表現ができているかというと、そうでもないのですよ。

 

 

●トスカがスカルピアを倒す場面

 

最初は、かつて歌手だった方が半分冗談でこの場面を演じています。その次の青い画面から、色々な歌手の写真が、視聴者に、流れている歌手の歌声で誰か当てさせようという意図のため、わざと入れ替わり立ち替わり現れる。シーンの終わりに、答えとして歌っていた歌手の写真と音源のデータが出ます。

問題の「女神様」とテバルディに以外については寸評にとどめさせて頂きます。

最初はリチア・アルバネーゼ(声が非力すぎます)、次ビルギット・ニルソン(またかみついてますね、この方。)、マルチェッラ・ポッベ(イタリアでは高名な方でした。アリア集、持っています。でも、この人も非力ですし、いちいち間が開きすぎ。)次が、テバルディ(後でゆっくり解説致しますが・・・いつ聞いても手に汗握るような・・・)次、ガリーナ・ヴィシネフスカヤ(声はそれなりに出ていますが、荒っぽい上、まるでイタリア語になっていません)最後が「女神様」です。

7ヴァージョンと書いてありますが、ですから、実際は6人の「声による演技」が比較できるのです。

テバルディの方は私が散々「名演」と申し上げている、1956年のメトでの公演から。(5分20秒くらいからです)最初から凄い声が響いていて、"Questo è il bacio di Tosca!"「これがトスカの接吻よ!」がはっきり聞き取れます。次、"Ti soffoca il sangue? Ti soffoca il sangue? ah!"は「血で息が詰まるのね!ああ!」なので、スピントの効いた声で、激しく、刺さるようなトーンで歌われている。"E ucciso da una donna..., M’ hai assai torturata?!"「女に殺されるのよ、散々苦しめてくれたわね」も声を張り続けますが、刺さるよう、というよりは暗く、厳しいトーン。"Odi tu ancora? Parla! Guardami! Son Tosca, o Scarpia!"「まだ聞こえる?話しなさいよ、見なさいよ、私よ、トスカよ、スカルピア!」ここがこの公演では絶妙で、"Guardami!"が「グゥアーーールダミ」のように、少し粘っこく、嫌みたっぷりに引き延ばされ、更に"Son Tosca, o Scarpia"の"o"と"a"を明るめにして、嘲弄的なトーンを入れている。散々苦しめられた仕返しに、もう彼女に何もできなくなった卑劣な男をいじめてお返しをするからです。これが完成形なのです。よく聞けば、最後の"a"だけは嘲弄が消えている。ところが、また"Ti soffoca il sangue?"が来ると、何の無理もなく、元の厳しいトーンに戻る。次の"Muori dannato! Muori! Muori! Muori!"(ちょっとまがまがしい歌詞なので、漢字変換を置き換えます。)「氏ね、呪われた奴、氏ね、氏ね、氏ね!」はここの誰よりも分厚く、強い響きを持っている上、憎しみがこもりすぎるほどこもっていて、恐ろしくなるほどの迫力です。ところが、"È morto..."「死んだわ」になると、声がすこし弱まり、少々恐れているような調子になる。悪党でも、人を殺してしまった、という自覚が忍び寄ってきたからですね。そして、又しても絶妙なのが "Or gli perdono!"「今は許してあげる」なので、例の強烈なスピントが噓のようにすっと抜けて、暗いトーンながら、静かな調子になっている。これ程細かい詰めができている歌手が他にいましたか?

「女神様」(8分30秒くらいからです)。最初の決めぜりふが半分しか聞こえてきません。"Ti soffoca il sangue?"から強烈な声が響いてくる。これはご立派です。次。"E ucciso da una donna..., M’ hai assai torturata?!"こちらは、二番目のフレーズの方しか、強烈に響いてこない。なぜ「女に殺されるのよ」(あいにくね、という嫌みが入っている歌詞なのですね)は聞こえなくて良いのでしょうか?この方は"Odi tu ancora? Parla! Guardami! Son Tosca, o Scarpia!"は一句一句、切れ目を付けるように区切っています。「歌う」というより「台詞を読む」感覚。この方は「歌手」というより「女優」としての方が実力があったと思っています。さすがに"o Scarpia!"に嘲弄的トーンを入れるのはお忘れでない。"Muori dannato!..."からにはテバルディほどの恐ろしいくらいの迫力がない。テバルディの方が怖すぎた?でも、散々非道な扱いをした男に憎しみの限りをぶつけるのは、当然だと思われませんか?"È morto..."はヴィブラートが強すぎて聞きづらい上、今度は暗すぎる。「人を殺してしまったんだわ」ということにハッとしたテバルディとは違って、「死んで良かったわね」みたいに聞こえるのです。トスカは実は信心深くて善良な女性でなければならない。この場面で【「夜」の声】が相応しいのは、その前の"Muori Dannato!..."の方なのに、どうしてこちらの方が暗いのでしょう?"Or gli perdono"は声が陰気すぎ、見当違いに強すぎて、まるきり、「許してあげる」という感じが出ていません。要するに・・・この役、お嫌いだったのですもんね。

【キャリアの終盤にトスカを頻繁に歌うようになった】【それまで培ってきた歌唱力でこなしうる】要するに、大したことないと。テバルディが頻繁に歌う役は「大したことない」。では、先ほどの動画は何だったのでしょう?他の歌手は彼女ほどの完成度に達していないのですよ。動画主様までが"absolute favorite"「絶対のお気に入り」とお書きなのはテバルディ。(英語でお書きになっていますが、イタリアの方らしいです)「通」ぶった「先生」より、得てしてオペラをよく聞き込んでいるリスナーの方が、的確な判断をしていることの方が多い。繰り返します。「大したことのない役」を完璧に歌えないのは、かえって「実力のない証拠」と思われても仕方ない。さらに、歌手が役柄に没入する、といっても、自分が興奮しすぎて、コントロールを失ったりするのは実は良くないことなのです。「ヒロインの感情の起伏を聴衆に雄弁に伝える」には、むしろ、自分が興奮し過ぎてはいけない。私が「テバルディはライブでは「熱血派」」と言っても、スタジオより激しい傾向があるということを少々おどけて書いているだけのことです。どこでどう歌うべきか、「冷静に」考えながら歌わなければ、本当に的確な表現はできません。テバルディの歌がどれほど激烈でも、細かい詰めができているのは、彼女自身はその場の感情に完全に流されてしまうことなく、頭の隅できっちり冷静を保っていた、ということを示しているのです。こういう二律背反を成し遂げられたのは、テバルディが優れた歌手だったから、なのです。


⑤さて、長々とおつきあい頂きまして、大変なご迷惑をおかけしたような・・・。これが最後です。

(78~80ページから引用)

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例の「伝説の名演」のお膳立てがいかに「過保護」だったかを物語る記述です。(なお、この記事を投稿する前に読者の方からコメントを頂戴いたしましたが、まさに図星を指しておられるのです。そう、「総合的」に「印象深かった」から「伝説」になったのであって、「歌唱」だけからはそうは感じられないのです。)

某有名監督が御自ら、【私はただひたすら彼女のために《椿姫》を演出したのであり、私自身のためにではない】 ここまで「心酔」している方が腕によりをかけられた以上、大変「視覚的に」豪華な演出ときめ細かい演技指導が「女神様」に提供されたことが想像できます。

「女神様」のためにあつらえられた、「女神様」が 【夢のような姿になる】ようにと配慮された衣装をご用意頂いたこと。テバルディの『椿姫』のライブでの衣装も相当贅沢でしたが、ここまでこだわったあつらえをしてもらったという記録はありません。「歌手の見た目が引き立つよう効果的にあつらえられた衣装」がそれなりに、観劇に訪れた聴衆に「豪華な」「視覚的」印象を与えたであろうことは、まさにそれをこのような高名な方が仕事をなさった以上、しかるべきものだったろうと想像できます。(私は実際目撃していないので、断定は避け、控えめに、推量として、書かせて頂いております。)

舞台美術。【世界最大の舞台美術家】と書かれているほどの方が、みすぼらしい舞台を作ったはずは勿論ないでしょう。ここで赤線を引いた部分を読んだだけでも、かなり凝ったものだったことが予想できます。これまた、「伝説の名演」に居合わせる幸運を手にした観衆に「視覚的に」絶大な効果を与えたことでしょう。

担当指揮者様(テバルディの録音と同じ人ですけど)の回想部分。【私たち三人は、(略)言葉、音楽、身振りの完全な一致を目指した】。ここまでやってもらえる歌手はそうはいないでしょうね。ぞんざいで通り一遍なリハーサルでほったらかしにされる歌手の方が多かったでしょうから。全員にこういうことをしているほど、当時のオペラ界は暇ではありませんでした。今より、活気があったからです。ですが、これは「特定の歌手への不公平なまでの厚遇」を示す証拠になってしまっている、この著者の不注意が丸出しになっている箇所でもあります。余りにも「女神様」に心酔する余り、このように「貴重品扱いをお受けになった」という証言を読んで、舞い上がってしまったのでしょう。

別に、そのこと自体にはさしたる問題はありません。ただ、私が「視覚的」を盛んに強調したのには、それなりの意味があります。「音楽的」にはむしろ、「アラの目立つ歌唱」が露呈されていたこと、(しかも、あれは一部分の比較でしかなかったことをお忘れなく)に、「視覚的印象」に目を奪われた観衆は気づかなかった恐れが大きい。確かに、実演を聞きながら、細かな音程の狂いや、特定の歌詞の不明瞭さなどを確認するのは容易なことではありません。あっという間に過ぎ去ってしまうからです。何度も録音を注意深く聞くことによって初めて、そうした欠陥が発見できる。それがなければ、「アラの目立つ」歌唱が、当時の「視覚的印象に多分に引きずられた観衆の述べた感想」によって「伝説の名演」という「お墨付き・固定観念」を流布されたからには、それが、実際の舞台の見えない後世代のリスナーの冷静な判断を奪ったとしても、無理もないことです。実は、音楽的には「歌唱ミス」の多い、「女神様」にはむしろ「ご都合の悪い物的証拠」の記録であっても、強固な固定観念のため、むしろ隠した方が賢明だということすら忘れられているのです。

(81~82ページから引用)

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こちらはその描写の第二弾。何と、【合唱のメンバーに明確な性格を、娼婦達には明瞭な個性を与えた。】「女神様」以外の、合唱団にまで某有名監督は腕を振るわれ、「女神様」のための舞台が更に素晴らしく「見える」ように細心の注意を払われたことが引用文の中に記述されております。

【彼に身をゆだねた瞬間、花束が地面に落ちた。それはもう、忘れがたい感動、演劇的美の極致であった】これも多分に「視覚的印象」によって与えられた 【忘れがたい感動】を物語るものです。歌唱がどうだったかという記述がまるでありませんから。更に、このような演技は、例の某有名監督様の特訓の成果であったろう、ということも察せられる。「女神様」ご自身の思いつきでなさったかどうかの記録がありませんので。

例の"Sempre libera"をお歌いになったとき 【靴を脱いで投げ飛ばした】のも(私がかつてどこかで読んだ記録には、「室内履きを蹴り飛ばした」という表現がされていました)これも、ヴィオレッタの、「真実の愛?ばっからしいわ!」というやけっぱちな気持ちを表す「視覚的印象」に訴えた表現を記したものにすぎません。歌唱がどうだったかは、又しても書かれていないので。まあ、この方のことだから、アジリタ部分はそつなくこなされていたことは間違いありません(現に私は、手持ちの盤で、そこばかり聞いていたようなものでしたから)。それが「聴覚的に」素晴らしくなかった、とは申しません。ただし、ただしです。私の嗜好に全く合わない声質を我慢して、公平に歌唱技術のみを評価するとしたら、という限定が、いつもつきまとってはいました。

ヴィオレッタの歌の途中でアルフレードがまた"Di quell’ amor, quell’ amor ch’ è palpito"とバックステージから歌う声が聞こえる部分について。【彼女はその声を追い求め、ベランダに急ぐ。】 そこまでは良いのです。これも「視覚的印象」しか語っていないとしても。問題はその次。【その瞬間、聴衆は彼女の胸の鼓動を感じることができた。】 これはまことに美術や衣装が専門の方らしい表現ですし、全く主観的で不適切きわまりない。こういう「断定的」記述をするためには、「読み手の全てを説得しうる明白な根拠」がなければなりません。この方はそこにおいでだった聴衆にもれなく【感じることができた】かどうか、アンケートでもとったのでしょうか?繰り返しますが、他人の頭の中は覗けません。しかもアンケートをとるということをして確認していないなら、こういう表現をしてはいけない。

更に、付け加えておきます。もし、実際に「女神様」の胸が興奮のため鼓動していたとしたら、それはまずいことになる。必要以上に興奮するのはむしろ、歌唱をコントロールする邪魔になるからです。先ほど、『トスカ』の例で、テバルディがいかに激越な表現をしていたとしても、細かい詰めができているのは、本人は冷静だった証拠だと書きました。本当に興奮してしまったら、そればかりが声に出てしまって、フレーズごとの歌い分けなど不可能になるからです。思考力が働かなくなるので。

こういった「過保護」の記録、しかも多分に「視覚的印象」を物語る記録を得意そうに持ち出すことに何の意義があったのか?全くわかりません。私はK氏のこの書物のダストカバーの画像をお目にかけましたね。【伝聞・憶測に頼らず、あくまで実証的に】と書いてありました。【伝聞に頼らず】というのはまず、間違いですね。このあたりは「伝聞」つまり、当時実際に舞台を見た方々の証言の引用だからです。「実証的」って何でしょう。また岩波書店広辞苑 第五版』にご登場頂きましょう。「単に思考によって論争するのでなく、経験的事実の観察・実験によって積極的に証明されるさま。」と定義されています。「経験的事実の観察・実験」、すなわち、ご本人が体験しながら感じたことを冷静に観察した結果を記述する、あるいは実験的証拠を示す、それをしないと【実証的】にはならないのです。この方のこの書物は、どちらかというと多分に主観的な印象に基づいて書かれているか、「伝聞」に頼っていて、【実証的】とは到底言えないのです。

私がなぜこのような本を購入するに至ったかは、最初に書いたとおり、この【実証的】といううたい文句につられてのことでした。そして、本当に期待したのは、私がこのブログでしているような記述だったのです。ほとんどフレーズごとに全ての、全盛期の歌唱を分析し、歌詞やスコアと照合しながらその歌唱の優れた点、あるいは問題のある点についての専門的な指摘が読めること、でした。私のブログの場合は「専門的指摘」という語句は削除しますが、他はそれを目指したものです。ところが、K氏のこの書物の実質的著述部分、-10ページから368ページまで-のうち、【レコードを丹念に聴い】た結果を書いてある部分は285ページにやっと始まるだけだったのです。83ページしか、鑑賞録がない。6割近くがそれ以外の記述なのです!しかも、「鑑賞録」は又しても他の「権威」の言葉の引用だらけで、フレーズごとの丹念な分析など殆どありません。私自身、書店でもっとよく中身を確認すべきでしたし、このくらいのページ数では取り扱う音源を限ったとしても、ワンフレーズごとの分析など書き切れないことくらい、気づくべきだったのです。【実証的】はどこへやら、そもそもが「女神様」賛美のための「ファンタジー小説」のようなものに、ライバル歌手達への中傷の限りを足した悪書に過ぎなかったのです。

(82~83ページから引用)

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最後になります。「女神様」がヴィオレッタの死の場面でどうして「幼児声」をお出しになったか、その根拠が見えてくる記述。あんなことをしないと聴衆に説得力のあるヒロイン像を印象づけることができなかったのでしょうか?私は、未だに「気持ち悪い」としか感じていません。ですが、結局あれも「演技指導のたまもの」の一部だったようですね。

【それはまるで遺体、蝋人形館で使い物にならなくなった人形のようであり】 現実の舞台をご覧になった方の記述の引用部分ですが、又してもこの方の書きぶりは「視覚的」です。しかしながら、【蝋人形館】の人形は陳列するもので、使うものではないから、少々描写が適切とは思えないとしても、この「視覚的」印象を書いた部分は「実際の歌唱」の「聴覚的」印象に近いものがあると思いました。要するに、人間らしくなくどちらかというと人形を思わせたから、「気持ち悪かった」のです。ですが、肺結核のため亡くなる方が、「死に際に、人形のように」なるものでしょうか?ここに結核の予防目的に公的機関が出している結核についての情報ページへのアドレスを貼り付けますが、直にリンクはしません。(許可を頂いていませんので)

http://www.jata.or.jp/rit/rj/kiso.htm 読めばわかることは、結核菌は肺だけでなく、他の臓器からの出血などの症状を伴うこと、呼吸困難などに陥ることが多いということです。また「オペラとリアル」に書いたことを蒸し返すようですが、そもそも、こういう病気の末期の患者がフォルテで歌うなどと言うこと自体、現実に不可能なのはわかりきっている。オペラの歌唱に必要なのは、一般の平均的健康な人以上の肺活量を持った立派な肺だからです。だから、あのような表現をしたところで、肺結核で臨終を迎えそうな女性を現実に近い形で演じることはできないのです。「リアルな(実際にその病気にかかっている、という意味で申しております)結核患者にはオペラの歌唱自体が不可能」。臓器のほうぼうが病原菌に冒されているのに人形のようにおとなしくしていられるのは実はおかしい。ここは、苦しんでいる、ということさえ聴衆に伝われば十分なのですよ。そうでないと「エセ・リアルの押しつけ」に近くなる。

問題はその次です。又しても視覚的な描写ですが、この描写と「実際の歌唱」から受ける印象の乖離は何なのでしょう? 【彼女は輝くような微笑みでアルフレードに語る。苦しみが止み、以前の力が戻り、自分の中で新しい力がうごめいている、と。】 【輝くような微笑み】の感じられる表現でしたか?彼女に【力が戻った】ように感じられる歌唱でしたか?私には無感動のボソボソしたつぶやきがほとんど、と感じられましたから、いかに「視覚的」には当時の方にそう感じさせたとしても、音源を聴いただけでは全くそのようには感じられないのです。

最後の 【観客もまた、死を感じ取ったのである】 先ほどの引用部分でも、この方は観客全員の頭の中に何があったかわかったかのような断定的書きぶりをなさっていましたが、「女神様」に限らず、どんな歌手でも、ストーリー上「死ぬ」とわかっている場面で「死んだふり」をして、観客に「今死んだんだな」と認識させられない人の方が珍しいのですよ。どんな死に方をしようと、それは「歌手」としての実力とはほとんど関係ありません。どちらにせよ、「本当に死ぬ」ことはできないのです!こういう美術・衣装担当の映画関係者の主観的断定は特別、取り上げる価値はないのです。K氏がわざわざここを引用してきたのは、「女神様」がいかに死に方の演技に長けておられたかを読者に印象づけたかったからなのでしょうが、ただでさえ「過保護なまでに」指導を受けた人がこれだけのことができなかったら、むしろその方が問題なのではないでしょうか?

本当に問題なのは死に際の歌唱ですが、私が書いたとおり、「不自然」で「末席まで聞こえたとは思えない」つぶやきがほとんどでしたね。確かに「観客をあっと言わせる」のが目的なら、それは効果があったかも知れない。他の歌手はそういうことをしませんから。ですが、声が届かなければ、「演技による視覚的効果に寄りかかった」と言われても仕方がないのですよ。

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さて、一方、テバルディは、あの録音を、殺風景なラジオの録音スタジオで、普段着で歌っていたはず、と何度も指摘させて頂きました。それでも十分ヒロインの感情が相応しく表現されていた。もう一方はその気分にならないとおかしい、というくらいのお膳立てをしてもらったにもかかわらず、時に理解に苦しむ珍妙な声を出したり、何でもないところで音を外したりしていた、それが現実なのです。

私が『椿姫』の始めに「カエルの目玉の特別ソース和え」の方をありがたがる美食家の比喩を出したことを「?」とお思いになった方々も、今はその意味がおわかりになるのではないかと思います。オペラを理解するしかるべき努力をした人なら誰でも理解できるように表現する歌手は「ありふれたお総菜」(テバルディはそうではないですが、そういう否定的な言われ方をしていますよね)で、珍奇な表現やアクロバットを披露する歌手(コロラトゥーラはともすれば、アクロバットの要素を持ちがちです。『超絶技巧』という和訳が、その性質の一部を物語っているとはお思いになりませんか?)は「高価な珍味」と扱われる。でも、私はオペラの歌唱で「高価な珍味」だけが珍重されるのはおかしいと申し上げたかったのです。「一般人」を「愚鈍な大衆」と見なす「知的貴族」あるいは「高級志向の特別な人種」と自認している人たちが珍重するものがすなわち素晴らしいとは限らない。むしろ、こういう方々は「珍奇なもの」の持つブランド的価値や希少価値(裏付けのない価値ですが)のためだけにそれを愛しているだけで、歌手の発した一音一音まで愛して聞き込んでいないから、「明白な歌唱上の過ち」にも気づかなかったのではないでしょうか?

一般人は「権威」のある方々のおっしゃることを鵜呑みにしがちです。ですが、そういう方々が即ち、全員、良心的だとは限らない。ご紹介したのはそういう一例です。一般の聴衆を「愚鈍」扱いし、「お前達は私たちの褒め称えるものだけを愛すれば良いのだ」式の決めつけをなさる方々のおっしゃることに従う必要があるのでしょうか?私たちは誰も、他の誰かの奴隷ではないのですよ。理解に苦しむようなものを「権威筋」が押しつけるからと言って、無理して愛好する必要は全くありません。「私は無理などしていません!」本当にそうですか?「権威」による「刷り込み」に「洗脳」されてはいないかどうか、一度、お考え直しになるべきだと強くお勧めいたします。「素直」に、(「素直」であることは全く、恥ずべきことでも何でもなく、人間にとって最も自然なありようです)自分にとって「本当に素敵だ」と思えるものを愛しても何の差し支えもないのです。それがあなたにとっては「どうしても女神様」ならそれでも一向に構わない。ただ、このブログにおいでになるのは意味がありません。今後、この方には極力言及しませんので。

最後に、テバルディの例の「伝記」からある一節(P189-P190)をご紹介して締めくくらせて頂きます。(画像は原文、翻訳は拙訳です)

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【「私は極力誠実であろうとしましたから、私の感情を聞いている方々に届けることができたのです。私は瞬時に皆さんが私の意図を理解なさったと感じました。私はまるである使命を負っていたかのようだったのです。"私はしなければならなかった"、私の声で。私の歌をお聞きになっている全ての方々に幸せをもたらすと同時に、作曲家が意図したことを正確に表現する、ということを。

それは、とても美しい経験でした!私は劇場にいらっしゃる一人一人の方とお話ししているように感じたのです。私はその時、悲しい気分でいた方々に慰めを与えることができたと感じ、またその方々が理解して下さったと確信したのです。

私は、私の声が皆さんの心の中に入り込んでいったのを知っています。そして素敵な反応を呼び起こしたことを。ある人たちは、私が歌うのを聞き、もっと信仰深くなりました。ある、病気の方々は喜びを感じたと。入院している友達達は、気分が悪くなるたび、私のカセット・テープを聞いたのです。その人達は皆言ってくれました。私の歌声が、苦痛に耐えるのに必要な力を与えてくれた、と。

だとしたら、この大変な贈り物に私が感謝しないでいられるでょうか?」】

彼女は結局は「神」が与えてくれた「自分の声」についての言葉で締めくくっていますが、それを率直に認めていて、無理な謙遜でゆがめていないことが、却ってこの一節自体の説得力を増していると思います。ここで読み取れるのは、テバルディにとっては、歌うことで「作曲家の意図を伝えること」「全ての聴衆に感動を与えること」が特に重要だったのだ、ということです。シビアに読んで、彼女が自分の歌唱や姿勢について美化して語ったかもしれなくても、この一節が彼女の「歌うこと」への基本的心構えの一端を示していることには変わりないと思います。ここに書かれていることには無理がなく、矛盾がなく、とても理解しやすい。それは決して「下等なこと」ではなく、「むやみとひねくった文章」より、ずっとダイレクトに心に訴えてくる。まるで、彼女の歌が自然に心に染みいってくるように。「噓」や「大げさな誇張」の必要のない、ありのままの心情を語るときに、「無理・こじつけ」は不要だからです。テバルディはこれ程も、「人として・歌手として」愛すべき人柄を持った人でした。【感じが良い】ことが【軽蔑的賛辞】であるはずなど、決してないのです!

この彼女の懐旧談から更に発展させられる議論。「特別な声」を授かったことに対し、彼女は十分感謝し、それを生かそうとしていた。ですが、「先生方」は逆にそれを「恵まれすぎた不公平な歌手・声だけはあったが他は何もなかった歌手」と一方的に断罪する方に走られてきたし、今もその方向で走っておいでなのでしょう。まるで、「素質があったこと」が悪いことだったかのように。それがいかにおかしなことか。そして、それがどういう結果を生んだか。「本来オペラを歌う十分な素質のある人」が正当に評価される機会を極力つぶし、むしろ声のない歌手の量産に貢献なさったのです!!!全く、ご立派な先生方ですね!それも「ある方」をとにかく持ち上げたいという「偏った・著しく不公平」で、身勝手な願望、が元の動機なのです!でも、「この方」を持ち上げておくだけならむしろ「オペラ界」としては不都合はないのです。「声質」だけなら、「この方」に勝てるという自覚のある歌手は沢山いるから、敢えてつぶす必要が無いのですよ。でも、テバルディに関しては、「困る」のです。

このような不自然かつ不当きわまるバッシングがテバルディだけに浴びせられ続ける理由の一つは、私にはわかっています。彼女は、装飾音こそ歌いこなせませんでしたが、大変な素質を持っており、またそれを生かすすべを知っていた人です。そういう人の記憶ばかりがいつまでも聴衆にくっきりと残っているとどういう不都合があるか。彼女ほどの素質を持たない歌手が同じレパートリーを歌うとき、本当に「フェア」な評価がされてしまったら、どうしても負けてしまうのです。だから、テバルディは忘れられた方が良い歌手である。これが、このジャンルに携わる人々の裏側でなされた黒い結託の表れで、じっくりと音源を聞き込まないリスナーは皆、それに引っかかってしまったのです。オペラに携わっているとはいえ、こういう方々にとってはオペラ界全体の質の向上など、実はどうでも良い。自分の貧しい声ではテバルディと比べられると勝てない、だったら、評論家先生方と結託して極力彼女を無視し、リスペクトしない態度を取った方が都合が良いのです。テバルディにはっきり支持の態度を表明したマリリン・ホーンやアプリーレ・ミッロは非常に勇気のある、立派な人たちだと思います。はっきり書かせていただきますが、元々素質がある上に努力をしなければ、高度な歌唱は実現できません。しかも、その「努力」はコロラトゥーラを歌いこなせば良いというものではないのです。それは他の歌唱技術の軽視につながる。結局、「素質があり、ヴェリズモ・レパートリーにおいて高度な歌唱を披露できる歌手」は全滅しました。当の歌手達や「先生方」がその事実を隠そうとして、彼女達の不満足な歌唱を褒めあげて不都合な事実を糊塗しようとしても、かつての歌手の記録が残っている以上、隠しおおせることはない。気づく人たちは、気づいている。そういう黒い行いに罰が下らないで済むでしょうか?実は、裁きは下り始めている。厳しい競争のあった時代の歌手達の優れた歌唱は、本当にオペラを聞く耳を持ったリスナーからは愛され続けるけれど、誰かを貶めて「のし上が」ろうとする(この言葉は本来こういうときに使われるべきなのです!)歌手の底の浅さはすぐに明白になる。真の「愛好家達」は今の「オペラ」が「もどき」に過ぎないと知っています。豊富な鑑賞歴があれば、おかしな主張に騙されたりしませんから。そういう真の「愛好家」達の愛する歌手を軽視した「オペラ」はもう見放されている。それが、「本物の素質」と「努力によって培われた表現力」を貶めた罰なのですよ。

このシリーズで、私は「自分に直接危害を加えたわけでもない人」に「根拠の薄い」一方的な「中傷・マイナスな評価」を投げつけた人々(あるいは出版社)について、知って頂きました。世の中には「不快でも知っておかなければならない事柄」があるからです。尊敬すべき人を尊敬するだけでは足りません。その人が不当に「中傷」されていたら、その行為をした張本人達のことをよく覚えておく必要があるのです。そういう人間達は他方でいくら美辞麗句を並べていても、基本的な心性は死ぬまで変わらない。ですから、このような人間達の書いたものを鵜呑みにしてはならないのです。そして、こういう記述がまかり通るのには、ちゃんと、「裏のニーズ」があり、それによって有利な立場を得ようとする不当な人間達の暗躍がある。過去の録音では本人の肉声の持っていた力は完全には伝わらないとしても、そういう記録をじっくり聞き込んで、自分で歌の善し悪しを判断する能力を築き上げないと、彼らの思う壺にはまってしまうのです。更に、本当に「オペラ」という芸能を愛するのなら、誰かに先入観を植え付けられた心で聞いては「ならない」のです。

こういう現状でも敢えてテバルディを愛好している皆様の良識と、勇気(人間は人数の多い方に流されがちです。それと逆らう態度を取るのには真の勇気が要るのです)、ご自分自身の確固した考え(広く流布した「評判」の奴隷ではない、ということです)をお持ちのファンの皆様、ここで、私の七面倒くさいブログを読みに訪れてくださっている皆様に本物の、心からの敬意を捧げたいと思います。私ごときの「敬意」など皆様には無用の長物でしょうけれど、捧げたいのものは、捧げたいのですから。ただ、誤解しないでいただきたいのは、私は「テバルディ」を押しつけたり、お読みになる方々に何らかの先入観を植え付ける意図でこのブログを綴っているのではない、ということです。テバルディの歌唱の素晴らしい点、余り褒められない点を、じっくり観賞して「フェアな」立場から綴るだけです。ファンだからと言って、何でもかんでも「いい」とは書きませんし、皆様に押しつけもしません。彼女の歌唱の素晴らしい瞬間を発見するごとに味わえる喜びだけが、このブログを綴る私の原動力です。

最後は、心のねじれた文士の書き殴った悪文から来る苦い後味を完全に洗い流すため、テバルディという、真に尊敬すべき大歌手に相応しい言葉をもって救いとしたいと思います。これは、『オテッロ』でカッシオがデスデーモナについて語った言葉です。勿論、彼はイアーゴのかけた罠にかかってしまったのですが、この言葉自体はデスデーモナにも、そして、あの役を愛していたテバルディにも相応しい。"Essa infiora questo lido. Col vago suo raggiar chiama i cori raccolta." 「あのお方はこの地を花で満たして下さる。あのお方のみやびな光が人々の心を引き寄せるのだ。」テバルディの歌唱は、どんなに哀しいヒロインを演じても、浄らかで、温かい感動をもたらしてくれます。この殺伐とした世の中に生きる私たちに本当に必要なのは、彼女の歌唱がもたらしてくれる心の潤いなのではないでしょうか?


次回からは1952年、スカラ座での『ファルスタッフ』のライブ音源からのご紹介シリーズをお届けします。これがまた・・・名演なのです。本物の。