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Voce d' Angelo レナータ・テバルディに捧ぐ

レナータ・テバルディの専門ブログです。情報、動画、鑑賞録など。

『ファルスタッフ』聞き比べ (1)

予告させていただきましたとおり、ご紹介済みのテバルディの音源から、テバルディの音色が顕著に変わっている部分を抜き出し、それとエリーザベト・シュヴァルツコプフの歌唱との比較動画を作りました。

シュヴァルツコップフの録音は音源がスタジオ録音ですから、テバルディのものより音がクリアーです。録音は1956年と、古いですが、十分綺麗に聞こえます。アリーチェはシュヴァルツコップフ、メッグ:ナン・メリマン、ナンネッタ:アンナ・モッフォ、クイックリー夫人:フェドーラ・バルビエーリ、肝心のファルスタッフはティート・ゴッビ、フォードはロランド・パネラーイ。指揮はヘルベルト・フォン・カラヤンフィルハーモニア管弦楽団・合唱団という陣容です。

読者の皆様がご存じかどうかはわかりませんが、シュヴァルツコップフはどちらかというと、モーツァルトやR・シュトラウス(特に『薔薇の騎士』の元帥夫人が有名でしたが・・・ザルツブルグ祝祭大劇場のこけら落とし公演の記念映画に彼女が起用されたのは裏があったようです。実際、公演では彼女は3度しか歌っておらず、他の6公演はライバル格のリーザ・デッラ・カーザが歌ったのです。)の歌唱で記憶されているほか、ドイツ・リートの名手という定評のある人でした。なにせ、ドイツ人ですから。

彼女は元々、戦前は、ベルリン・ドイツ・オペラで歌っていました。そして、ご本人は「当時は歌手には誰であれ必要だった」と説明していましたが、(事実とは違います)戦時中、ナチスの党員登録をしていたのです。証拠書類も残っている。党員登録してまで出世しようとはしなかった歌手も現にいたので、ご本人があのような説明をしたのは賢明ではなかったと思います。そもそも、高等音楽学校にいたときから、彼女は「ナチス・ドイツ学生組合」の会員77802号として登録しており、組合長だったと。ここでの役割は、東方に展開している兵士への金銭的援助の奨励だけでなく、同じ生徒の思想傾向のお目付役でもありました。(Alan Jefferson著 Elisabeth Schwarzkopf 1996年 P24)後の本格的な党員登録は、まだ駆け出しの歌手だった彼女が極力起用されるためには、そうした「細工」が必要だったらしい。彼女は1937年からベルリン・ドイツ・オペラに所属していましたが、1940年の秋にようやくツェルビネッタを歌わせてもらえたものの、それまでは『フィガロ・・・』のバルバリーナや『カルメン』のフラスキータや、せいぜい『ボエーム』のムゼッタがもらえるくらいで、端役ばかり歌っていたようです。(同書P229~233)『メフィストーフェレ』では2番手の役とはいえ、しょっぱなからエレーナを歌えたテバルディとはまるで違うのです。

とにかく、シュヴァルツコップフがナチスの党員だったことはアメリカでは知られていて、1953年にニュー・ヨークのタウン・ホールでリサイタルに出演したとき、その経歴からくる反感をかってピケを張られてしまった、という記事が(彼女が亡くなったときの追悼記事の文中ですが・・・)Los Angeles Timesに出ていました。(今も読めます)http://articles.latimes.com/2006/aug/04/local/me-schwarzkopf4

私はこのブログでは政治的な話題は取り上げません。ただ、こんなことをしないと、この人はメジャーな役がもらえなかったのです。つまり、政治的権力の後ろ盾がないと、出世できなかった。戦況が悪化して、ウィーンに逃れ、戦後そのままウィーン国立歌劇場の専属歌手になるのにも、カール・ベームカラヤンの後押しが物を言いましたし、何より、後に、当時EMIの辣腕プロデューサーとして有名だったウォルター・レッグと結婚しましたから、レコード契約は永久保証済みのようなものでした。

テバルディは自分の歌の力で役を得ていき、オーディションを受けてやっとトスカニーニに認めてもらった。勿論トスカニーニの与えたキャッチフレーズの影響力は無視できませんが、本人がその後、与えられた看板に相応しい歌唱を披露しなければ何もなりません。それができたから、彼女のキャリアはごく早く躍進したのです。私は野心的なだけで実は実力の怪しい歌手は評価しない人間です。シュヴァルツコップフの「名声」がレッグの影響力とそのもとで散々リリースされたレコードによって「宣伝され・作られた」ものなら、その「名声」には意味が無いのです。先入観を抜いて、じっくり中身を聞くことが一番重要です。私はシュヴァルツコップフがナチスの党員だったからといっても、歌とは関係ないと考えて鑑賞するようにしていますが、何よりも彼女の「歌」が私にはどうもしっくりこない。「歌声」に至っては、これだけ「後ろ盾」の鎧をまとわないといけなかったくらいですから、一聴して驚かされるような声質の、『天使の声』のテバルディとは比べものにならない、普通の一リリック・ソプラノ、という位置づけで沢山だと思っています。彼女の師匠は、それこそツェルビネッタなどを歌って有名だったマリア・イヴォーギュンですから、コロラトゥーラはお手の物でした。ですが、他のコロラトゥーラ・ソプラノのほうが遙かに美声であることが多く、わざわざ彼女のコロラトゥーラを聞きたいとは思いません。

さて、前置きが長くなりました。今回の目的は、こまごまと歌い口や声色を変えなければいけないアリーチェという役を、テバルディとシュヴァルツコップフがそれぞれどう歌っているかをじっくり聞いて確認することです。それで、特に歌い口に工夫が必要な部分だけ切り貼りした短めの動画を3本作りました。他の歌手の歌唱はほとんど入っていません。ご了承を。

1. ヴェルディファルスタッフ』 "<<Fulgida Alice>>"


最初は、同じくファルスタッフから付け文されたメッグと、アリーチェが手紙を交換して読み合うところから。ですから、最初に聞こえてくるのはメッグの声です。

<<Fulgida Meg, amor t' offro>>の"t' offro"にはスタッカートの指示。その後、メッグが読み続けて「なぜかはお聞きなさるな、だが、」で切ったところで<<t' amo.>>とテバルディが受ける。手紙を送ってきたのがとんでもない男であれ、「あなたを愛している」という歌詞をギスギス歌うテバルディではない。ソフトに、甘美に歌っています。(指示は何もありません)

そして、その直後の"Pur non offersi cagion"にテバルディは全く違うトーンをつけているのでした(指示はありません)。「付け文されるような安っぽい振る舞いはしていないわ!」と憤慨しているから、声を暗くして、怒っている様子を出している。

ここの表現ぶりをまず比べていただきたいので、皆で手紙をよく観察する場面はカットしました。

シュヴァルツコップフの方。はじめから、驚きました。ナン・メリマンの声はシュヴァルツコップフにそっくりで、最初「え?」と思ったほどです。テバルディの盤では、カナーリが頑張っていて、むしろテバルディより強く響いているくらいですが、それはテバルディの持ち声がどちらかというと「ビロード」で、余り彼女が本気を出すと強く響きすぎるので抑え気味に歌っているからです。

さて、アリーチェの入りからして、私には気になったところが。"<<Fulgida Meg! amor t’ offro...>>"ここの"Meg"の発音です。彼女のは「メッグ」というより、「メック」と聞こえる上、最後の"k"("g"ではなくて"k"になっていますから。)がきつすぎて、汚く聞こえるのです。どうしてそうなるか、というと、"k"は舌の奥を上あごの軟口蓋の奥に一瞬付けて、それをはじきながら出す音なのですが、その時、息を多めに吐きすぎると、このようにキツい音になってしまう。「音」に敏感であるべき声楽家としては少々配慮に欠ける歌唱なのですが、こういう細かいことにうるさかったレッグはこれを聞いていたはずなのにダメ出ししなかった、というのが不思議です。

現に、レッグの遺品の中にあった音楽に関するコメントをもとにまとめられた、"On and Off the Record"邦訳は『レコード・うら・おもて』(1968年第三刷)の149ページにはレッグのフィッシャー=ディースカウについてのコメントが書かれていて、【(略)何度も一緒に仕事をしてきました。ですが、友人になったことは一度もありません。(中略)多分、彼のAussprache beim singen(訳注:歌う際の発音)、つまり、特に、シューベルトシュトラウス、それにヴォルフを歌う時の、プロシャ的子音の誇張が、ほんの少々、私をイライラさせるのでしょう。】とあります。"t" "k" "p"などの無声の破裂音を発音するとき過剰に息を吐き出すと、強すぎる響きになりますが、ドイツ人の歌手にはこういう音を柔らかく発音できない人が時々いるのです。以前、『タンホイザー』の時、デュエット部分の動画でヤノヴィッツの歌唱で指摘したように。(彼女の"t"は強すぎるのです)レッグはフィッシャー=ディースカウの子音が強すぎるのが気になったのに、シュヴァルツコップフのはノー・マークだった?ただ、ずっと聞いていくと、彼女が子音をキツ目にしているのはこの場面で特に「軽蔑」を表したかったから、のようです。他は、気になるところがありませんでしたから。それが適切かどうかはこれから順に綴って参ります。

そもそも、シュヴァルツコップフは学生時代組合長だったので、英国にホームステイするチャンスを与えてもらっていましたから、英語が話せたのです。"Meg"はイタリア語ではなくて、まるきり英語の名前なのに、彼女はドイツ語式に発音している。???です。"amor t' offro"の方はOKなのですが、余りにあっさりと、切り口上ですね。カラヤンのテンポの取り方にも問題があるのでしょうが、この録音を聞いていて全体的に感じた印象は、「まるでモーツァルトのオペラみたい」というものでした。いくらアンサンブルの多いオペラだといっても、ヴェルディの音楽を、モーツァルトのスタイルで軽快な喜劇(モーツァルトの喜劇が「軽快」以外の多彩な要素を含んでいるのは承知の上です)に仕立て上げるのが適切だとは思えないのです。ただ、ここの意図を深読みすれば、「わざと吐き捨てるように"めっ「ク」!"と歌って、かつ切り口上でうんざり感を出した」のようにならなくもないのですが、親友の名前を吐き捨てるのは、いくら失礼な付け文の中での言及であれ不適当です。つまり、納得のいく説明のつかない表現なのです。

そして、同じことがまた。"Qua <<Meg>>, là <<Alice>>."の"Meg"も「メック」になっている。こちらは最初の程"k"が嫌みに聞こえませんが、正しい発音ではありません。こういうのは、気にならない方にはどうでもよくても、私のような細かい人間には非常に気になる。レッグより細かいのでしょうかね、私は。(苦笑)

こちらは、もっと問題です。メッグの朗読を受けた"<<...t’amo.>>"テバルディはこの歌詞に相応しく甘く歌っていました。なぜか。「愛しているって言ってくれ、ですってよ?!」という呆れた皮肉を込めるには、むしろ甘ったるく歌った方がうがった皮肉になるからです。ところが、シュヴァルツコップフはまた"t"が強すぎて吐き捨てるような調子が入ってしまっている。もっとまずいのはその次。"Pur non gli offersi cagion."は多少、多少声が暗くなっていますが、テバルディのような、明らかな憤慨は聞き取れない程度のものでしかありません。もっと怒らないの?もう、この時点でこの人の「詰めの細かさ」の限界が見えてしまっているのです・・・。

さて、次はいきなり飛んで、<<e il viso tuo su me risplenderà, come una stella, come una stella sull’ immensità.>>に参ります。ここは、(con caricatura)「からかうように」というト書きと"dolcissimo"という指示が出ているのでしたね。テバルディは最初は少々抑えめに歌ってから(これでも・・・)、"come una stella"で目一杯声を張って歌っています。私はそれを最初「豪華」と聞きました。ところが、比較の結果、ここにもテバルディの凄さが表われているのがわかったのです。"stella"が強いのはクレッシェンドの指示があるから、というのもあるのですが、テバルディはわざと、ここはスピントを効かせて持ち前の強い声を生かしている。つまり、歌いまくって意図的に目立たせているのです。なぜか。「(私の顔が)"星"なんですってさ!」と「からかう」ために、極力大げさに歌ったのだ、とわかったのです。こういうことは、彼女くらいのゴージャスな声の持ち主でないと到底できないのです。そのうえ、最後の"à"に特に顕著ですが、出てくる"a"を明るく発音することで馬鹿にしているような調子も出している。最後の"à"に至っては笑い混じりなくらい明るいので、(ここから既に笑っているのです)次の哄笑にすんなりつながる。まさに「イタリアの太陽」といった明るさが、喜劇に、実に相応しい。

次の皆の笑いはライブであるだけに、「本気」度が高い。そのまた次のテバルディも絶妙。<<rispondi al tuo scudiere...>>は"senza misura" "parlato"「リズムを付けず、語りで」1点ホ♯の機関銃。"John"だけが16分音符であとは8分音符の連続。テバルディは完全にリズム抜きにはしていない。そして、何よりも、送り主が太鼓腹の巨漢なので「重そう」に読んでからかっている。(指示はなし)奇をてらわなくても、おかしみの出る表現を付けるべきところでちゃんと付ける。それがすんなり納得できる効果であるから、嫌みな感じがない。

ではシュヴァルツコップフ。例の<<e ill viso tuo...>>綺麗に歌えています。これが"dolcissimo"の彼女なりの解決だったなら、それも十分理解できる美しさです。ですが、テバルディのような派手な強弱がまるで付けられていない。肝心の"stella"はむしろ響きが薄くなっています。これでは・・・「皮肉」になっていると言えるのでしょうか?綺麗は綺麗です。でも、それだけです。さすがにコロラトゥーラの名手だっただけあり、"immensità"のトリルはテバルディより遙かに上手い。でも、彼女は元来線の細いリリック・ソプラノなので、テバルディのようなふくよかな低音が出せないのです。地声に近い声で無理矢理前に出してトリルを決められても、綺麗に聞こえるどころか、かえって気持ち悪く聞こえてしまう。「リートの名手」だったのに"immensità"の締めのたった一音は、はっきり開いてはいても、笑いが混じっていません。テバルディはたったの一音に笑いを交えているのに!それで、笑いの効果に格段の差が出ていても、トリルを決める方に注意が集中しすぎたせいだと考えると仕方ないのかも知れませんが、こういうのを詰めの細かい歌唱と言って良いのでしょうか?

次の皆の笑いがいかにも義務的に、本気度が薄く聞こえても仕方が無いのかも知れません。スタジオ録音はどうしても表現が抑えがちになってしまうので。それはまあいいのですが、シュヴァルツコップフの<<rispondi al tuo scudiere...>>は、テバルディが面白おかしくからかっているのと違って、また「吐き捨てている」ように聞こえる。"Rispondi"の"Ri-"、"scudiere"の"-diere"が勢いが良すぎ、ほとんど怖い。"Falstaff"の最後の"f"音は今度は摩擦音ですが、(上の歯を下唇に当てながら息を吐き、摩擦するように声を出す音です)これもまた息の吐き方が強すぎ、「フ(ッ)」のようにキツく聞こえる。更にまずいのが"Cavaliere"の"C"。これは"k"と発音しますが、これがまた息を多く吐きすぎていて強すぎる。結果、「キツい、吐き捨てるような」調子になっているのです。アリーチェは元帥夫人ではありません。必要以上にエラそうに、ファルスタッフを「吐き捨てるように」軽蔑するのが適切なのでしょうか?違うと思います。「密会」の場面でファルスタッフがやたらと彼女を飾り立てようとおだてる所をやんわり断るところの歌詞は、アリーチェの慎ましさそのものが出ているところです。この女性は「貴族」ではない。「召使い」を雇えるくらいの富裕層であっても、思い上がった偉そうな女性ではないのです。こういう、いくら気色悪い不道徳な(2人の人妻に付け文するのですから)男が相手だといっても、吐き捨てるような軽蔑の仕方は喜劇に全く相応しくなく、むしろ、苦々しい味を残してしまうのです。

19世紀の人たちが考えていた「喜劇性」と私達の時代の「喜劇性」には違いがあります。太っている人を笑いの対象にするのは(それだけでなく、人の身体的特徴を笑いの対象にするのは、です)現代では差別的であり、不適切です。ですが、これは紛れもなく19世紀的感性の元に作られたオペラですから、そのように解釈するのが妥当でしょう。苦々しくするのが「現代的」で適切な解釈なのでしょうか?なら、なぜ20世紀に作曲されたオペラを録音しなかったのでしょう。「解釈の現代性」を根拠に褒め称える論調のオペラ評論は、私には単なる「時代錯誤」に思えます。わざわざ、設定を「現代」に変えて19世紀の人気演目ばかり舞台にかけるという現代のオペラハウスの演出の珍妙さも。「現代」にこだわりたかったら、もっと、忘れられ、聞かれる機会の少ない20世紀のオペラをしかるべき演出で舞台にかけるのが素直なやり方であって、聴衆が今まで知らなかった色々な音楽に出会う機会を増やすという有益な目的も持つものであるはず。なぜそれをしないか。聴衆の耳には圧倒的に19世紀のオペラの方がなじんでいて、チケットが売れやすいからです。ただの営利目的で上演されたものでしかないものは、それなりの価値しか持ちません。それを「斬新」のように評価するのは、ただの勘違いです。もともと「古い」考え方のもとで作られたオペラを上演するのなら、差別だらけの不適切さに気づいても(うんざりするほど気づきますが)目をつぶるしかないのです。

ここだけを聞いただけでもわかります。これは「斬新な解釈」の『ファルスタッフ』などではなく(第一、明るく笑い飛ばすのと、吐き捨てるのと、どちらが意地の悪い軽蔑でしょうか?)、「19世紀的感性の喜劇をそれらしく表現することに失敗している」『ファルスタッフ』なのです。


予定していたより長くなってしまいました・・・私の意図を極力正確にお伝えしようとすると、どうしても長文になってしまうのです。ご勘弁下さい。あとの2本は次回に回します。