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Voce d' Angelo レナータ・テバルディに捧ぐ

レナータ・テバルディの専門ブログです。情報、動画、鑑賞録など。

1953年 ミラノ・スカラ座での『ラ・ヴァッリー』(2)

第二幕、ゼルデンでの因縁のダンスのある幕です。

まず、ヴァッリーの登場シーンから。

1. カタラーニ 『ラ・ヴァッリー』 第二幕 "Eccola qua!"


もう例の頑固親父が亡くなって、後を継いだヴァッリーは、女地主様そのもののゴージャスさで登場。こういうのは、人によって「素敵」と感じるか「嫌味」と感じるか、微妙なところでしょう。ハーゲンバッハは「挑発的」と感じた、というわけです。

第一声は"Sei tu, mio Walter?"(こんなことをわざわざ聞くからには、この少年[実際に演じているのはレナータ・スコットですが]も、いつもと違っておめかししているからでしょう。)指示はありませんが、テバルディの声は明るい。ダンスに来たのに、コワモテなはずはないですよね。

早速若者達から「踊りの相手をして下さいますか?」と続々聞かれて、"E perché no?"これも底抜けに明るい。直訳は「なぜノーと言う必要が?」という感じですが、私の字幕はご覧の通りに致しました。

"Io danzerò con chi vorrà il capriccio..."ここはレチタティーヴォの指示が出ていますが、テバルディは「歌っている」ような感覚です。後の指示は例の、"a piacere"「ご随意に」・・・。なので、テバルディは目一杯「可愛く」歌っています。最後はやはり、ほとんど語りです。指示はレチタティーヴォですから。"capriccio..."「気まぐれ・戯れ」は言葉通りの、すこしおどけた声色もプラスされている。ここまで配慮できて、強烈な声が出せて、あるときはビロードで・・・という歌手が他に?

何の「気まぐれ・戯れ」かというと、"pel piacer di danzar!"だと。なぜこの二つのフレーズが休符で区切られているのかは、結局、これがヨーロッパの言葉特有の落ちの付け方なのでしょう。日本語だと、最後に動詞が来るので、そこで、今まで言ってきたことからすると意表を突くような結論を付けると絶妙の落ちが付きますが、インド・ヨーロッパ語族に属する言葉は最後が目的語(または補語)なので、「何を」(どんな)が最後になります。ここでは別に笑いを取るためではないですが、ちょっと聞き手を待たせて、焦らしているような効果が出るのではないかと。「なんて言ってくれるのだろう?」という期待を持たせるのですね。結局彼女は当然のことしか言ってくれないので、「あーあ」となる。

そこで、老兵が本当に言わせたいことをずけずけと聞くのですね。"Anche la danza del bacio?"「ダンス中にキスを盗むダンスも?」と。テバルディ、この後に軽い笑い声を入れている。ライブの醍醐味です。

次のフレーズの頭には(provocante)「挑発的に(色っぽくの意味もあります)」という指示。まさに。ちなみに、私が記事を書く順序は、歌詞を確認して、指示を確認して、音源の該当箇所を聞いて、感じたことを書く、です。そのフレーズに来るまでは、どんな指示が出ているか知りません。この記事の頭に「挑発的」という言葉を使ったのは偶然です。ここを見て、「やっぱりね」と思ったのは、このヒロインのこれまでの性格描写を見てきたからですし、あらすじも知っているからです。テバルディが第一幕や、これまでに、見当違いな歌を歌っていたら、そうは思わなかったでしょう。

さて、そのフレーズ。"Lo so...che le fanciulle vostre nascondon la voglia che han di baci nell’ uso di tal danza!"結局、ヴァッリーはホーホシュトッフという村の人で、別の村であるゼルデンに乗り込んできたのですね。だから、「おたくの村の娘さんはそういうダンスを利用してわざとキスしてもらおうとするらしいわね」とちょっと嫌みを言うのです。それで、"Io no, e poi" 「私は違いますよ。それにね・・・」とくる。"Io no"にはわざわざ(risolute)「断固として」のト書き。「それに」の後は、当然「私はそんなに安くない」となるでしょう。誇り高い人ですから。ですが、こういうことを言ったから、後で裏目に出る。皆に嗤われる結果を招いてしまうのです。

"Non facil cosa saria forse, Strapparmi un solo bacio!"これには"con forza"「力を込め」と"Sostenuto"「音価を十分保って」という指示。そうなると、かなりしっかりした宣言になります。「そう簡単にはいかないわよ!」と。ここのテバルディの歌は、まさしく"con forza"そのまま。強烈です。ここまで強烈だから、結果、ダンスの後がみっともなくなってしまうのですね・・・。

しつこく食い下がる老兵に、また断固と宣言。"Finor non m’ han baciata"の頭には"ben ritmato e sostenuto"「しっかりリズムを取り、音価を十分保って」厄介ですね・・・。しかもほとんどの音節にアクセントが付いている。結局、強調気味に歌うのですね。ここから歌われる内容は、要するに、神が創造した天然自然のものとしか口づけしたことがないのよ、ということです。確かに、「安くない」ですね。テバルディは、まぁ、見事に立派な声で歌い出しています。最後の"vento"が一旦強まって消え入るのは、クレッシェンドとデクレッシェンドの指示があるからです。彼女は、時にはスコアの指示が抜けるときがありますが、ほとんどは守られている。初めて覚えるとき相当注意深くスコアをさらったのでしょう。ライブである程度忘れるのは仕方ないと思いますよ。私はもう中年ですから記憶力が落ちていますので、何度も同じアリアの記事を書いていても、全然スコアの注意なんて覚えていませんから。ましてやオペラの役のパート全体を正確に覚えるとなったらお手上げです。テバルディは正確な方ですし、指示まで覚えていたらしい。その上自分の工夫も付けていたのです!

"La rugiada imperlata,"の頭には"sempre ben sostenuto"「常によく音価を保ち」ですから、せっかちな歌はアウトです。そして、"le stelle in firmamento" は最後の"(firmamen-)to"以外には皆音節にアクセントが付いています。2つのフレーズは違う歌い方をしなければなりません。最初が早すぎると思いますか?8分音符3つと16分音符2つ、後は4分音符と8分音符です。だから、別にこれで問題ありません。こちらの「雲」はソフトに歌われていて、「星」の方はアクセントが付いていますから、強めになっている。"fiiiiirmameeeeentooooo"という歌い方も音価に合っているのですよ。"fiiiir-"は付点8分音符にフェルマータが付いている(しかも前打音があります)"-ma-"は16分音符一つ。"-meeeeen-"は2分音符、"toooo"は4分音符と8分音符がタイで結ばれている。「雲」と「星」の対照といい、この歌い方といい、お見事の一言に尽きます。

"m' ebbi il bacio di fiore, m' ebbi il bacio del prato"どちらも"m' ebbi il ba(-cio)"の音節にアクセントが付いています。音程としては若干しか違いが無いのに、最初が強力に聞こえるのは、明らかにテバルディがアクセントを意識しているからです。ここまで完璧だと・・・。怖いくらいです。

"della neve il candor, il bacio suo m' ha dato"「雪」の方は1点音域の中途半端な音程。"il bacio suo"になると2点音域に上がり、アクセントも付く。テバルディの歌は「雪」の方が甘美で、アクセントの部分は十分強力。これも凄い。

"mi dier baci coll' ali gli augelli del Signore" "gli augelli del"にテヌートが付いています。が、音価自体は前の"aaaali"の方が長い。4分音符+8分音符ですから。テヌートの部分は8分音符3つと付点8分音符一つ。だから、テヌートしても違いを聞かせるのはちょっと無理でしょう。

"Solo baci immortali, La Wally ebbe finor."これが結論。なので、"immmortaaaaaa(-li la) Wally ebbeee finoooor"は括弧の部分以外はアクセント付きで、"(immor-)taaaaa(-li)"はテヌートで、2点イの4分音符。"(eb-)beee"は付点8分音符にフェルマータが付いています。"immortaaaaaali"は完璧に決まっていますが、"ebbe"のほうはむしろ"eeeeeeebbe"と歌ってしまいましたね。音高は同じですが、記憶違いです。アクセントが付いているだけに強烈に歌われているのはスコア通りですし、「誇り高い女の誇らしげな宣言」に相応しい。でも、決して、一本調子ではなかったし、「神」の出てくる歌詞の部分をテバルディが汚く歌うということはないに等しかったので、とにかく美麗な歌でした。

"Cosi prezioso don quel uomo mai potria rubarsi?"ここは"a piacere"「ご随意に」ですし、ほとんど8分音符と16分音符"quel uomo mai"だけテヌートが付いている。意図は明白。「神様のお創りになった永遠のもの」と「人の男」(人も神の創ったものですよね・・・でも、「死すべきもの」"mortale"という含みがあるのでしょう)ではまるで違うので。"mai potria"のほうが音高が高いので、目立ちますが、"potria"は16分音符2つだけなので、あっさり終る。結局"mai"が目立つ。テバルディは特にどこか強調したり、強めたりはしていません。前までで、言いたいことは言い切ったということでしょう。これは付け足し、ということ。「わかったと思うけど、・・・ということよ。」程度の意味だからでしょう。ただ、少し音色は暗め。結局前の宣言が真面目で、真剣だったから、ヒロインの気分がここに到達したのですね。登場したときの気軽な歌とは音色が違っているのです。

この老兵もゲルナー並みのしつこさ。"E se alcuno potesse?"って・・・。そこまで言わせたい?何だか、ちょっとセクハラ気味です。無理矢理色っぽい反応を引き出そうとするような調子です。19世紀だとキスくらいでもこれだけ大変な意味があったのですね。今となっては、どうってことないという感覚ですが。

ヴァッリーの答え。"Quell’ uom? Quell' uom?"はピアノで、"affrettando"「急いで」です。"Sarebbe mio!"は一転してフォルテで"ritenuto"「テンポを緩めて」です。「もし、そんな男性がいるとしたら...」彼女の頭にあるのは当然、ハーゲンバッハでしょう。少し、照れとためらいが入るのですね。でも、その後がこのヒロインらしい。直訳では「私のものになるでしょう」です。が、ムードがなさ過ぎるので字幕のように意訳しました。テバルディは特に最初のフレーズを急いではいません。そして、後ろのフレーズも彼女にしてはフォルテとは言えない。スコア通りではないですが、ここを強靱に歌うべきではないという判断からでしょう。当然、ハーゲンバッハを意識した発言のはずだから、むしろ優しく歌ったのですね。彼女が目一杯声を張ってしまったら、まるで挑戦状を叩きつけているようになってしまいます。そうしてはいけないと判断したから、テバルディはこう歌ったのでしょう。それは正しい判断だったと思います。このヒロインが実は彼に夢中なのがわかる歌いぶりです。結局、彼女は意図的に彼を見つめるのですし・・・。

そもそも聖体の祝日なので、ミサが重要なのですから、全員教会へ向かいます。ここで一旦動画を切りました。

2. カタラーニ 『ラ・ヴァッリー』 "Sei tu?" "Son io!"


ヴァッリーも教会に向かおうとしますが、ヴェールを着けるのに手間取っているうちに、隠れていたゲルナーにつかまる、という設定です。

ミサよりヴァッリー、というところがゲルナーの狂熱ぶりを表わしていますが、それ以上に、この男のなんとなく後ろ暗い、おどおどした、生来陰性なところを物語るのが、ヴァッリーが親父さんに追い出されるきっかけを作ってしまったからというので、それまで彼女に挨拶にも行けなかった、というくだりです。

それを済まなく思っているのなら、すぐに謝りに行くべきなのですが・・・。うじうじと隠れているところがこの男の性格を物語っており、女としては堂々としすぎているくらいのヴァッリーと全く相容れないのは明らかすぎるくらいです。しかも、あきらめが悪い。

"Da che son la padrona, tu sol, dei miei, non sei venuto a me."ここはピアノで"con molta tranquillità"「非常に冷静に」です。このヒロインはうじうじした男に迫られたところで怯えない。むしろ、婉曲に、「挨拶に来なかった」ことを「責めて」いるのですね。1点ホ音まで下がる低音域ですが、暗い音色は入れていません。「冷静」だからです。『運命の力』とは違うのです。当たり前の事実を「冷静に」言い渡すので、低音でも暗くはしない。低音が綺麗に歌えない歌手だと、実はこうはいかないのです。

一転して"Non t' ho dimenticato!"は"con forza"。「結局、忘れてなかったってことね!」勿論、彼女に不都合な結果を招くようなことをした過去についての言及です。その後、彼女自身の口から出ます。"con forza"ですから、テバルディは強めに歌っていますが、フォルテを歌うときほど強くはしていませんし、暗い音色も付けていません。軽く見ている男に対し、脅すような響きは不要だから、でしょう。このヒロイン自身が「烈女」だけに、「意気地なし」は嫌いで、「豪傑」が好きなのですね。わかりやすい。「意気地なし」に対して、この人が必要以上に強く出る必要はないのです。

"Un dì tu fosti sordo ai preghi miei"ここはピアノの指示。そして"legando molto"「極なめらかにつなげて」。レガート、とは書いてありませんが、スラーが付いているので実質レガートで歌えばこの指示通りになるでしょう。前より抑えめですが、特に声量ががくんと落ちているという感じはありません。前はフォルテではなかったですし。実際、なめらかです。「フォスティーーーソーーールドーーーーアイプリエーギミエーーイ」と。ただ、甘美なときのテバルディのレガートとは違って聞こえます。同じレガートでも、音色を変えているので、いつもと違って聞こえるのです。プッチーニの時は大抵甘美ですが、これは厳粛な場面なので、むしろ感情を抜いています。

"e fui per teeeeeeeee cacciata" 結局、これが言いたかったこと。"teeeeeee"は2点へ♯で"cac(-ciata)"までクレッシェンド。"te caccia(-ta)"までアクセント。「あなた(のせいで)追い出された」なので、スコアはこう指示している。テバルディの歌は、"e fui"が1点へなので消えていますね。彼女らしくないですが、後の指示の方に気を遣ったからかも知れません。"teeeeeeeeee cacciata!"は見事にスコア通りです。実は"cac-"で2点へ♯だった"teeeeeee"から2点へ ナチュラルに変わるので半音下がる。ちゃんと、音高も変わっています。

"Orben, oggi io te caccio!"「今日は私の方が追い出させてもらうわ」というのですね。"caccio"にアクセントが付いているだけです。"Però...ingrata"の後に2分休符が付くという不思議なスコア。休符を挟んで"esser non vuo'"こちらは一音節ごとにテヌート。「なりたくないから」のほうが強い上、前と切り離されている。そのあとは8分休符が付いているだけなので切れ間が短い。"Prendi! È denaro! E vanne!" "denaaaaro E"がやっと2点音域で、クレッシェンドが付いています。別にこの男に施しをしなくても"ingrata"にはならないはずです。ゲルナーの方がヴァッリーに与えた被害のほうが大きいので。結局、「なりたくないから」を切り離して不自然なフレーズにするのは、彼女自身、自分が"ingrata"だとは思っていない、ということを表すためでしょう。これは口実に過ぎない。「でも、・・・な・り・た・く・な・い・か・ら」「お金をあげる。出て行って!」嫌みと本心が混ざっているのですね。勿論、「お金」を恵むのが「軽蔑」の印なのは言うまでもありません。

テバルディの歌。"Orben"も結構強めです。"caccio"はさすがに強い。休符はきっちり守られています。"esser non vuo'"は嫌と言うほどしっかり歌われています。テバルディにはスコアの意図がよくわかっている・・・。"denaaaaaaaro E"は見事にクレッシェンドしていて、"vanne"の2点ニから急に1点ニにオクターヴ下がる箇所もまるで破綻がなく、先ほどと違って低音もしっかり響いています。更に今度は初めて、暗い音色をつけています。頼んでいるのではなくて、「命令」しているのですね。だから、怖い表情を付ける。「命令」だから声が強めになり、消えなかった。

これでも懲りないゲルナー・・・。全然わかってないのです。彼の"Deh! mi guarda com' io per te mi struggo..."には"con passione"「情熱を込めて」とあります。「情熱を込めて」「苦しんでいるのを見てくれ!」と言ったからといって、同情するようなヒロインかどうかわかっていない。当然、このセリフを聞いてヴァッリーは笑い出す。「軽蔑」の笑いですね。

彼女はおばあさんに教わったという歌でゲルナーをいじめます・・・。"Cantava un di mia nonna questa strana canzon..."ここには(torturandolo femminilmente)「女らしく、彼を苦しめる」(!)というト書き。女は皆意地悪?それはないでしょう?!まぁ、19世紀のオペラが「差別的で今となっては不適切」な内容を含んでいるのは仕方ないのですが。ここの一連の歌には時々クレッシェンドとデクレッシェンドの指示がある以外は、特に指示はありません。"Fatto il mondo è così"は音高が与えられておらず、(parlato)のト書きなので、セリフとして言うのですが、あとは歌手任せと言って良い。テバルディの歌はわざと、明るくて朗々としている上、超甘口のビロードです。こんなところで美声の極致を聞かされるとは・・・。甘ったるく歌った方が嫌みだというのをテバルディはよくわかっている。「女らしく」いじめる、を実践しているというのもあります。ですが、「底抜け」に明るいときのテバルディの声とは違う。そういうのは、『ファルスタッフ』で聞けますが、もっとカラっとしている。ここでの「明るさ」には少々ねっとりとした湿り気がある。「意地悪」だからです。そこまで緻密なのです・・・。ただ、ちょっと嫌みっぽさを出すためにテンポを引きずりがちの気味はあります。

十分傷ついただろう彼の"Non rider!"に"Oggi sono allegra assai!"と答えるヴァッリー。ト書きは(ride provocandolo)「彼を挑発するように嗤いながら」・・・酷い・・・。けれど、「やれ」と言われた以上、手は抜かないテバルディ。ここも声がやたらと明るい。嗤い混じりだからですね。実はこれは彼女の強がりで、本心を見抜いているゲルナーに「それは違うだろう」と言われると、直情的に怒るところは、このキャラクターらしい・・・。"Che ne sai tu?"には(tornando seria e turbata)「真面目に戻って、心乱されつつ」というト書き。なので、テバルディの歌は急に鋭くなります。

その後のゲルナーの歌詞に出てくる"selvaggia"「残酷な・野蛮な」がヴァッリーの一面を物語っています。「意気地なしの男」にはそう映るのです・・・。およそ、テバルディという人とはかけ離れた性質ですが、彼女は、与えられた「役柄」の本質を心得ていたし、それを雄弁に表現することができたから、彼女のヴァッリーを聞いていても「?」とはならない。「この人らしいよね」になるのです。結局、「大地主のお嬢様」だから、思いやりに欠けるし、やたらとプライドが高い。行動力があって、必要なら深い淵の中に下りていくことも恐れないけれど、心はもろい人で、自分の激しい感情の動きを制御するすべを知らない人です。それがわかっていないと、このヒロインを歌いこなすことはできない。十分理解していたから、テバルディは然るべく歌えたのです。

ゲルナーがヴァッリーのことを理解しているかというとそうではないでしょう。本当にわかっていたらしつこくつきまとっても意味が無いことくらいわかるはずですから。どうせ、「ノー」と言われ続けるに決まっている。でも、彼女の「強がり」の下にハーゲンバッハへの強い愛があることだけは彼もよく知っているので、それが彼女の「痛いところ」だということを「利用できる」と心得ている。要するに、この男はやはり・・・同情に値しません。

彼が、「どうして君と結婚する許可をお父上から頂いたか知ってるか?」ときて、"Perché gli dissi Giuseppe amavi!"はフォルテの指示。それくらい、言われなくてもヴァッリーには想像がついていたのでしょう。だから"Ed è per me un' ebbrezza il tormentarti!"とくる。 "(ebbrez-)za il tormen-"までアクセントが付いています。"ebbrezza"ってほとんど「恍惚とするほどの悦び」ですから・・・ドロドロの愛憎劇ですね。テバルディはアクセントがどうとかにこだわらず、全体を鋭く歌っています。最後が聞き取りにくいのは2点トから2点ハ♯に若干下がるからです。ただ、先ほど「おばあさんの歌」を歌って聞かせていたときより声が引っ込んで聞こえますね。立ち位置が変わったのでしょうか。舞台が見えないのはこういうときに不都合ではあります。

それに対するゲルナー。"Mi fai pietà!"最初の3音がアクセント付きで、最後は1点へ♯を張り上げる。バリトンにとっては大変。これだけ必死に慈悲を乞うたところで、意味が無いのもわかっていない。彼にわかっているのはヴァッリーの「痛いところ」だけ。その後の間奏はまるでワーグナーの『トリスタンとイゾルデ』のような・・・妙に甘ったるくて、官能的な響き。私は昔はあのオペラをよく聞いていましたが、今は全く聞く気がしません。ちょっと・・あざとくて気持ち悪いな、と思うようになったので。それはともかく、ここからはしばらくゲルナーの口説き。ここを聞いていると、グエルフィはむしろ低音が出にくかったのがわかります。"t' adorerei"で点の付かないハ音、ニ♭に下がると、声が引っ込んでしまっているからです。バリトンにしては低音域が狭すぎますね。

わざとでしょうけれど、台本のルイージ・イッリカは、第一幕と同じ口説き文句を繰り返させます。"e una lunga carezza, e un' ebbrezza infinita..."と。一度聞いたセリフを繰り返されると「陳腐」に感じるのは当然です。ヴァッリーのような気性の激しい人だと、余計イライラするだけでしょう。それだけではありません。このセリフは意図的にでしょうけれど、内容がはっきり「肉感的」です。この男がヴァッリーの何を欲しているのか。嫌な感じがするくらいはっきりわかるようになっているのです。

ヴァッリーの反応。"Suvvia...ti leva! A che pregar? Non t' amo. È ver. Giuseppe io amo!"フォルテの指示で(resoluto)「断固として」のト書き。テバルディはむろん、指示通りの強靱な声ではっきり言い渡します。それでゲルナーは本性を現わす。さっきまで「神のようにあがめる」とか言っていた相手に、"Ah, maledetta!"とくるから、呆れます・・・。そして、でっち上げの「ハーゲンバッハの結婚話」を持ち出す。

それに対するヴァッリー。"Ah, no! Gellner, tu menti... Per torturarmi menti..."ここもフォルテの指示。だからテバルディは「噓よ!」と強烈に否定。でも相手は引かない。「痛いところ」だとわかっているから、これが一番効果的だとわかってむしろ喜ぶのです。"Ed or, perché non ridi?"はグエルフィも上手くやっています。あざ笑う調子を声に入れている。指示はありませんから、彼もこの役柄をよく心得ていたのですね。

丁度、アフラの屋台にハーゲンバッハがいたのを見たばかりのヴァッリーはゲルナーの言うことが本当なのではないか、と勘ぐり出す。"Eran poc’ anzi là! Stretti a colloquio sorride van fra loro, e le lor testa si toccavan così."ここまでは"sottovoce"「小声で」かつ、(angosciata, ripensando)「苦悩に満ち、思い出しながら」のト書き。スコアは、ワンフレーズごとに同じ音高が続く機関銃。ほとんど、8分音符か16分音符で、最後の1音が4分音符になっています。そして、フレーズが移るごとに少しずつ音高が上がっていく。要するに考えにふけるように、フレーズの終わりを引きずり、少しずつ興奮するので(勿論、嫉妬のためです)音高が上がる。テバルディはこういうときは節を付けません。歌うようにしてしまうと「つぶやき」らしさがでなくなるからです。ただ、"testa"には強勢を置いています。

"che (Vergin Santa!)"だけ(!)がフォルテで"che (Vergin"だけクレッシェンドが付いている。その後は"si saria detto che scambiasser baci!"こちらは今度はピアノ(!)で、ト書きには(un singhiozzo le strozza la voce)「すすり泣きに声を詰まらせ」と。スコアは半機関銃的に、音高が徐々に2点ホから1点ホ♭まで下がります。このヴァッリーの「妄想力」も何だか極端な気がしますが・・・。これはスコア通りですね。見事にフォルテとピアノが歌い分けられている。テバルディはすすり泣き「ません」。トスカやヴァッリーのような気性の激しい女がやたらとめそめそするのは変だとテバルディにはわかっていた。台本作者は男ですから、女は泣き虫だと決めつけたのかも知れないけれど、当の女のテバルディはそういうものじゃない、とわかっていたのです。

ゲルナーはヴァッリーの歌を利用して逆に彼女を「いじめにかかる」。ヴァッリーは彼の歌を無視しながら言いたいことを言います。ゲルナーが"questa strana"にさしかかるあたりで"Taci!"。音高が高くないのでばかでかいグエルフィの声にほとんど消されていますが。"Ma ancor sua moglie Afra non è!"ここは(minacciando)「脅しながら」というト書き。こういう人がめそめそするのはおかしいでしょう。だから、さっき泣かなかったのは正しいはず。そして、"Io l’ amo, io l’ amo!"には(con forza)「力を込め」のト書き。4分休符と2分休符を置いて "E nessun può legger nel destin."こちらには指示はありません。少々声が遠くなっているのはまた立ち位置が変わった?とにかく(con forza)は強力に歌っているのがわかりますし、最後の"destin!"も2点イまで上がるので相当響いています。


うーん、記事が長くなりすぎましたので、この幕の残りのシーンは次回に。しかし・・・ドロドロ過ぎる内容に疲れますね。でも、ヴェリズモ物って、こういう内容の物の方が多いですから。テバルディはいつも美しく、天使のような役だけ歌っていれば良かったわけではないのです。彼女の持ち声は強力でしたから、こういう苛烈な役にも適応できたし、そうした役の二面性、つまり、この時代に造られたヒロイン特有のもろさ(実は男性から見た女性観に基づくものですが)とやけに激しい性質(こちらも男性の視点がそうさせたのだと。女から見ると、「それはないんじゃ?」というくらいヒステリックなので)を両方相応しく歌い出すことができたのです。私はビルギット・ニルソンが嫌いではないですが、(あの声とスタミナはほとんど超人的でした・・・彼女もテバルディの悪口を書いてますけれどね)例えば彼女のような人だと、激烈になりすぎて女性らしいソフトさがどうしても出せなかったのです。トゥーランドットに関しては、彼女は最高だったと思うのですけれど。

次回はこの幕の続きを。